先週は、イエス様が洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたというお話を学びました。イエス様は、神の独り子でありながら、罪人が受けるべき「洗礼」(バプテスマ)を受けられました。しかも、それを「正しいこと」として、受けられた訳であります。このお話は、イエス様が「私たちの模範」ということから言えば、私たちもまた洗礼(バプテスマ)を受けるべきであるという、そういうお話と言ってもよいかも知れません。
ところで、イエス様が洗礼(バプテスマ)を受けられたとき、神の霊(聖霊)が鳩のようにイエス様に降り、天から「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が聞こえました。これは、イエス様が神様の愛する独り子であり、イエス様はこれから神様の御心を行って行かれるお方、神様の御心に適うお方であるという、そういうことを証しているお話でもあります。
イエス様は「最後のアダム」として、そのご生涯を、神様の御心のままに、もう少し言えば、神様のご計画を成し遂げるために、歩んで行かれました。イエス様のこの世での最後は十字架でしたけれども、イエス様は、その十字架を目指して歩まれたのであります。
最初の人アダムは、神様の戒めを破り、堕落してしまいました。それ故、神様が望まれたエデンの園・神の国も失われてしまいました。でも、最後のアダム(イエス様)は、逆に、自らの命さえなげうって、神様の御心を成し遂げようとされたのであります。それがあのイエス様の十字架であります。自分の命を犠牲にしてでも、神様の御心をなしていく。神様のご計画を遂行していく。それ故、イエス様は「神様の御心にかなう者」と言われているのでありますね。
ところで、イエス様が洗礼(バプテスマ)を受けられたとき、神の霊(聖霊)が与えられ、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえたという、このお話。 これは、イエス様のお話が私たちの模範として語られているお話だとするならば、私たちにも、このような恵みの言葉を聞くことができるということではないでしょうか。私たちが洗礼を受け、イエス様と結ばれるとき、私たちにも「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者」という声を聞くことが出来るという、そういうことでもまたあるのではないでしょうか。
私たちは、自分で神様・イエス様を選んだのではありません。自分でキリスト教の信仰を持つようになったという訳でもありません。洗礼も、自分で洗礼を受けたいから洗礼を受けるということではないのだろうと思います。私たちは、神様から、イエス様から選ばれたのであります。
ヨハネ福音書の15章16節には、このような言葉があります。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだのである。」 (ヨハネ15:16)
また、コリントの信徒への手紙一1章26節以下の所には、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」ということで、神様は、無学の者や無力な者、無に等しい者を「あえて選ばれた」(口語訳)ということが記されております。
何の取り柄もないような私たち、神様に選ばれるような、そんな資格のない、むしろ無に等しいような私たち。でも、神様は、イエス様は、そんな私たちをあえて選んでくださったのであります。その恵みを覚えるとき、イエス様に語られた「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者」という、この言葉は、また私たちにも「恵みの言葉として語られている」、そんなふうにも受け止めることが出来るのではないでしょうか。
繰り返しますが、私たちは、神様、イエス様から愛されています。そして、選ばれたのであります。それは神様の恵みであります。私たちは、神様に選ばれるような、そんな資格は全くありません。神様の御心に適うような、そんな者でもありません。むしろ、神様の御心に反するような、そんな歩みばっかりしているような私たちであります。でも、神様は、イエス様は、それでも私たちを愛し、選んでくださった。そして「洗礼」の恵みへと招いてくださったのであります。
だとするならば、「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者」という、この言葉は、また私たちにも「恵みの言葉として語られている」、そんなふうに受け止めてもいいのではないでしょうか。まあ、これは、私たちの受け止め方の問題かも知れませんが、先程も申しましたように、イエス様のお話が私たちの模範として、お手本として語られている、そういうお話だとするならば、私たちも、洗礼を受けるとき、また、今もと言ってもいいと思いますが、このような恵みの言葉を聞くことができる、そんなふうにも言えるのではないでしょうか。
「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者」。神様は、そしてイエス様は、このように私たちを見ていてくださり、このように言ってくださる。そういうお方でもあるのだろうと思うのであります。
さて、話は戻りますが、イエス様は、洗礼(バプテスマ)を受けられたとき、聖霊が与えられて、「あなたは、私の愛する子、私の心にかなう者」という天の声、神様の声を聞きました。このお話は、聖霊が、イエス様を「神の子」と証している、そういうお話と言ってもいいと思います。
イエス様は、神様からお墨付きをもらったのであります。「あなたは神の子である」というお墨付きをもらった。でも、天からの声というのは、あくまでも天からの声。それが本当なのかどうか。イエス様が本当に「神の子」なのかどうか、それを証明する必要もまたあります。そのことを語っているのが、今日の、イエス様が悪魔から誘惑を受けたという、このお話なんだろうと思います。
イエス様は、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられてから、40日40夜断食したあと、悪魔から誘惑を受けられました。悪魔は、断食して腹ぺこになっているイエス様に、あなたが「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言う訳であります。イエス様が本当に「神の子」ならば、石をパンに変えることぐらい出来るだろうと言うのであります。
石をパンに変えることによって「神の子」であることを証明する、そんな証明の仕方も確かにあります。でも、イエス様は、そうはなさらなかった。イエス様は、『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』という申命記8章3節にある言葉を用いて、悪魔の誘惑をはねつけました。
イエス様の生き方は、徹底的に神様に従うという、そういう生き方でありました。それは、本来の人間のあるべき姿、あのあるべきアダムの姿でもあるのであります。自分の思いや願いよりも、神様の思い、神様の願いを行っていく。勿論、それはロボットとしてではなく、自分の自由意志で行って行くということですけれども、とにかく、神様をすべての中心に据えてものを見、考え、そして行っていくという、そういうあり方であります。
イエス様も、勿論人間として、断食をすれば腹ぺこになるのであります。石をパンに変えてでも腹ぺこを満たしたいと思うのであります。でも、本当に大切なのは何かというとき、イエス様は、それは神様の言葉、神様の思い、神様の願いであると考えるのであります。それは、繰り返しになりますけれども、神様に造られた人間の本来の姿なのでありますし、また、神様の御心にかなう、そういうあり方でもあるのであります。
もし、悪魔の誘惑にのって、石をパンに変えれば、イエス様が神の子であるという、その証明にはなるかも知れません。人に出来ないことをするのですから、神の子ということにもなる。でも、ただそれだけであります。悪魔は初めから、イエス様が神の子であると知っているのですから、悪魔の前に、自分が神の子であることを証明してみせても何の意味もない訳であります。
むしろ、イエス様は、神様が願っておられること、神様を中心としたあり方・生き方というのは、こういうものだということを、すなわち、人間というのは、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるんだ、人間というのは、神様の言葉を聞いて、神様の願われることを行っていくべきなんだということを教えることによって、神の子であることを証明なさったのではないでしょうか。
ところで、次に出てくる誘惑は、聖書の御言葉による誘惑であります。悪魔はイエス様を聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こんなふうに言います。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
先程、イエス様が聖書の言葉を用いて悪魔に対抗してきたものですから、今度は悪魔も聖書の言葉を用いるのであります。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』という言葉は、旧約聖書の詩編91編11節以下にある聖書の言葉でありますが、聖書にこう書いてあるのだから、神殿の屋根から飛び降りたって大丈夫。神様が守ってくれます。だから「やってみなさいよ」と、悪魔は、誘惑するのであります。
聖書の言葉。それを、私たちは、御言葉、神様の言葉ということで、大切にしています。ですから、「聖書のここに、このように書いてある」なんて言われると、「そうですね」なんて、すぐそこで折れてしまうというか、納得してしまい、相手のペースに乗ってしまう。そういうことが、よくあります。例えば、聖書の学びなどをしておりまして、御言葉の説明をしておりますと、「でも、ここには、こう書いてあります」なんて、すぐ反論する人、いないでしょうか。
聖書の言葉、それは確かに「神の言葉」ということで、私たちは受け止めています。ですから、「聖書のここに、このように書いてある」なんて言われると、私たちは弱いのであります。でも、聖書が語ろうとしている本筋からそらそうという、そういう試みは、悪魔の仕業であります。今日のお話では、それは、はっきりと悪魔の仕業と語っています。悪魔は、聖書の言葉、御言葉を用いてイエス様を誘惑したのであります。
でも、イエス様は負けませんでした。イエス様は、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」。この言葉は、申命記6章16節にある言葉ですが、とにかく、イエス様は、このように言われ、悪魔の誘惑に打ち勝ったのであります。
ここには、聖書の言葉を用いて私たちを誘惑する悪魔、その悪魔に打ち勝つ方法が教えられております。「聖書のここには、このように書いてある」と言われても、でも、「ここには、このようにありますよ」と、逆に聖書の御言葉で立ち向かうのであります。
でも、最近の悪魔は巧妙ですから、「それじゃ、聖書は矛盾していることを教えている」とか「聖書って、よく分かんない」とかと言って、聖書に対する私たちの信仰を揺さぶろうとします。ですから、いつも申し上げておりますように、聖書は全体から読む、聖書の大きな枠組から読むということが大切なのであります。一つ一つの言葉だけを取り上げるのではなくて、文脈から読む。あるいは、聖書全体の教えから、それぞれの文書を読む。そういうことが必要なのであります。
で、今、使徒信条を学んでおりますけれども、この使徒信条の学びは、聖書が教えようとしている全体像を私たちに教えるものであります。キリスト教の教えの全体像が使徒信条に示されているのであります。ですから、私たち、最後までしっかりと、この「使徒信条」を学んで行きたいと思う訳であります。
話が、またまた横道にそれたようですが、いずれにせよ、イエス様は悪魔の誘惑に打ち勝ち、「神様の愛する子、神様の御心にかなう者である」ということを証明してみせてくださいました。最後の三つ目の誘惑は、時間がありませんので、今日は省略しますが、でも、どんな誘惑であっても、イエス様は、聖書の御言葉で切り返し、御言葉によって勝利されたということは、これはしっかりと覚えておきたいと思います。
悪魔の誘惑に打ち勝つ方法。イエス様は、それは御言葉以外にはないということを、今日のお話を通して教えておられるように思います。 誘惑は、誰にでもあります。誘惑だらけの世の中であります。ですから、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」(主の祈り)と日々祈りつつ、また、聖書の御言葉によって、力を与えられ、励まされて、そして誘惑に打ち勝って行く、そういう歩みを、これからも続けてまいりたいと思います。
|