前回は、イエス様が12才の時のお話を取り上げました。12才の「少年イエス」、両親と一緒にエルサレムに行く訳であります。そのとき既に、イエス様は「神の独り子」としての頭角を現していたというお話。そして、イエス様は、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(2:52)という所を学びました。
今日は、その続きでありますが、ガリラヤのナザレで、イエス様は若き日を過ごされたようですけれども、詳しいことは聖書には記されておりません。結婚したのかどうか、あるいは、特別な修業みたいなものをなさったのかどうか、そういう事は、全く分りません。私たちは、当時の様々な資料を参考にして、いろいろ推測する事は出来るかも知れませんが、推測はあくまでも推測でありまして、それが事実であるという保証は、どこにもありません。ですから私たちは、分らないことは、素直に分らないと認めて、イエス様が再び聖書に登場する場面に移りたいと思います。
で、イエス様が再び、聖書に登場するのは、洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)をお受けになるという所からであります。この事は、マタイ、マルコ、ルカという三つの福音書に記されております。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられたのであります。
洗礼者ヨハネが行っていた洗礼(バプテスマ)というのは、「悔い改めのバプテスマ」と言われています。すなわち、悪いことをしたことを悔い改め、神様に「ごめんなさい」と謝(あやま)って、神様に罪を赦してもらう。あるいは、身を清めるといった、そういうバプテスマでありました。
でも、イエス様は何も悪いことをしたことがありません。聖書には「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(1ペトロ2:22)なんてあります。罪を犯したことのないイエス様、悪いことをしたことがないイエス様。そのイエス様が「悔い改めのバプテスマ」を受ける。これは普通ならば「ちょっとおかしいのではないか」ということにもなろうかと思います。
ですから、洗礼者ヨハネも言うのであります。マタイ福音書3章14節。「わたしこそ、あなたから(イエス様から)洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」そのとき、イエス様はこのようにお答えになりました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
罪のないお方が「悔い改めのバプテスマ」を受ける。これは「正しいこと」でしょうか。むしろ「おかしいこと」ではないでしょうか。でも、イエス様は「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことだ」と言う。これはどういうことなんでしょうか。ここには人間となられたイエス様の姿が語られているように思います。
フィリピの信徒への手紙の2章6節以下には、イエス様は、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」という(フィリピ2:6-7)、こういう言葉があります。イエス様は、一人の人間として「バブテスマ」をお受けになられたのであります。それは、私たちにも「こうしなさい」と身をもって教えられた行為ではなかったでしょうか。
イエス様は私たちの模範であります。お手本であります。イエス様は「わたしがあなた方にしたとおりに、あなた方もするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)とおっしゃっておられます。これは、最後の晩餐のとき、イエス様が弟子たちの足を洗ったときに語られた言葉ですが、実は、イエス様のご生涯すべてが「私たちの模範」なのではないでしょうか。
イエス様が洗礼を受けられた。それは、私たちも洗礼を受けるべきであるということを語っているのではないでしょうか。罪のないお方が「悔い改めのバプテスマ」を受ける。これは決して「正しいこと」ではありません。でも、人間ならばバプテスマを受けるべきであるという、そういう視点から言えば、イエス様の洗礼は「正しいこと」ということになるのではないでしょうか。
キリスト教には、「洗礼」という儀式があります。それは、キリスト者になる、クリスチャンになるという儀式ですけれども、人によっては、神様・イエス様を信じていれば、それだけで十分じゃないか。あのイエス様の十字架と復活による罪の赦し、イエス様を神の独り子と信じ、イエス様によって私たちの罪は赦されるんだという、そういう信仰があれば、それだけで十分じゃないか。わざわざ洗礼なんて受けなくてもいいんじゃないか。そもそもイエス様ご自身、弟子たちに洗礼を授けたなんてお話一つもない、そんなことを言う人もおります。
でも、私たちの信仰、それは私たちがただ信じれば、それでいいというだけではありません。昔は「信じる者は救われる。ただ信ぜよ」というようなことを、よく言いましたけれども、私たちの信仰、キリスト教の信仰というのは、キリストと結ばれることが大切なのであります。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント 5:17)という言葉がありますが、キリスト・イエス様と結ばれてはじめて、私たちは新しくなるのであります。 そして、そのキリスト・イエス様と結ばれる儀式が「洗礼」なのであります。ですから、ただ心の中でイエス様を信じていればそれでいいというだけではないのであります。キリスト教が2000年近くもの間、「洗礼(バプテスマ)」という儀式を大切にしてきたのは、それなりの意味があるのであります。
罪のないイエス様が、あえて「洗礼(バプテスマ)を受けられた」。しかも、それを「正しいこととして」、あえて洗礼(バプテスマ)を受けられたというのは、私たちに、「洗礼(バプテスマ)」というのは正しいことなのだ、私たちにとっても必要なことなのだという、そういうことを、イエス様ご自身が私たちに手本として、模範として教えてくださった出来事と言ってもいいのではないでしょうか。
だとするならば、本当にイエス様を信じるのであるならば、本当にイエス様によって罪赦されると信じるならば、洗礼を受けるということに、何の違和感、抵抗があると言うのでしょうか。ただ心の中で信じていれば儀式なんて必要ないという人は、聖霊の働きというものを軽視しているのではないでしょうか。
イエス様が洗礼をお受けになったとき、「神の霊(聖霊)が鳩のようにイエス様に降って来た」といいます。今日のテキスト、マタイ福音書3章16節以下には、このようにあります。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が(聖霊が)鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:16-17)
イエス様にも、神の霊(聖霊)が与えられたのであります。だとすれば、私たちにも聖霊が与えられるのではないでしょうか。洗礼は、罪を悔い改め、新しく生まれ変わる儀式でありますけれども、それはまた、私たちが、聖霊によって清められ、聖霊によってイエス様に結ばれる・つながる儀式なのであります。
私たちがイエス様につながる、結ばれることについては、イエス様のこんな言葉があります。ヨハネ福音書15章5節、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。
「洗礼を受ける」というのは、聖霊によってイエス様と結びつくこと、つながることであります。古い自分に死んで、新しく生まれ変わることであります。新しく生まれ変わって、豊かに実を結ぶようになることであります。「イエス様を信じていれば、ただそれだけでいい」というのでは、なかなか実を結ぶ所までは行きません。なぜならば、実を結ぶためには、聖霊の働きが必要だからであります。
人間の思いだけでは、結局、人間の思いに囚われてしまいます。私たちの思いも大切です。善意も大切です。人間の努力も必要です。でも、それだけでは、神様の御心を行って行くことはできません。ですから、聖書は、「霊の導き(聖霊の導き)に従って歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と勧めているのではないでしょうか。そして、聖霊の導きに従って歩むとき、豊かな実を結ぶことが出来る。聖書には、「霊の結ぶ実(聖霊の結ぶ実)は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」なんて言葉もある。(ガラテヤ5:22-23)
いずれにせよ、クリスチャンの信仰というのは、ただ頭で信じればいいというのではなくて、聖霊によって歩む、聖霊の導きに従って生きて行くという、そういうことでもあるのであります。そして、その聖霊が与えれる儀式、それがまた「洗礼」と言ってもいいのではないでしょうか。洗礼を受けるとき、また聖霊も豊かに与えられるのであります。
ところで、イエス様が洗礼を受けられたとき、神の霊が(聖霊が)鳩のように降って来たということですが、そのとき、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえたということであります。(マタイ3:16-17)
「これは(イエス様は)私の愛する子(神様の愛する子)、私(神様)の心に適う者」。 イエス様は、神様の愛する独り子であると同時に、神様の御心にかなう者、神様の御心を理解し、神様の願われることを行っていくことが出来る「まことの人」でもあるのであります。
聖書の大きな枠組みから言えば、神様は、天地を創造され、人間をも造られたという、そういう世界から始まります。最初の人間はアダマ(土)の塵から造られたから「アダム」(人)と呼ばれておりますが、そのアダムは、神様の戒めを破って堕落してしまった。それ以後、人間のあるべき姿は見失われている。
でも、イエス様が神様から遣わされて、失われていた本来の人間のあるべき姿・まことの人の姿を、私たちに示してくださったというのが、聖書の教えであります。そのことをコリントの信徒への手紙一15章45節では「最後のアダム」という表現で語っている。イエス様は、最後のアダムとして、私たちに「本来あるべき人間の姿・まことの人の姿」を教えられたのであります。
イエス様は、そのご生涯を通して、私たちに「神様に造られた人間として、このような歩みをしなさい」と、その模範を示してくださったお方。そんなふうに言ってよいと思います。イエス様が弟子たちの足を洗ったというのも、その一つでしょうし、今日の「イエス様が洗礼を受けられた」というお話も、そうだと思うのであります。イエス様は、最後のアダムとして、私たちに「このような歩みをしなさい」と、身をもって教えられたのではないでしょうか。
イエス様こそ、正に神の似姿であり、神様が造られたあのアダムの姿そのものなのであります。最初の人アダムは、神様の戒めを破り堕落してしまいました。でも、最後のアダム・イエス様は、自らの命さえなげうってでも、神様の御心を成し遂げるのであります。それがあのイエス様の十字架の出来事であります。自分の命を犠牲にしてでも、神様の御心をなしていく。神様のご計画を遂行していく。それ故、イエス様は「神様の御心にかなう者」と言われているのではないでしょうか。
私たち、イエス様のようには、なかなか歩めないかも知れません。でも、イエス様を仰ぎ見ながら、少しでも、神様の御心にかなうような、そんな歩みをして行ければと思います。
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