『心のともしび』というカトリック教会が放送している番組があります。ラジオでは、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」の第1楽章の曲にのせ、「心に愛がなければ どんなに美しい言葉も 相手の胸に響かない
- 聖パウロの言葉より - カトリック教会がお届けする『心のともしび』」というオープニングで始まり、短いお話があって、最後に、「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」という言葉で終わります。
テレビでは、「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう」「心のともしび」という画面から始まって、神父さまやシスターたち有名なカトリックの人たちのお話が語られます。この燕・三条あたりでは、このカトリック教会の「心のともしび」、テレビやラジオでやっているのか分かりませんが、インターネットには流れていますので、ご覧になられた方もおられるかも知れません。
ところで、ラジオ番組の最初に流れる「心に愛がなければ どんなに美しい言葉も 相手の胸に響かない」という言葉は、あの第一コリントの13章の最初の言葉、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(1コリント13:1-2)という、パウロの言葉を要約した言葉でありますが、うまく要約したものだと感心してしまいます。
「心に愛がなければ どんなに美しい言葉も 相手の胸に響かない。」 本当にその通りだと思います。どんなに綺麗な、美しい言葉を語っても、もし心の中に愛がなければ、それは相手の心に届きません。「あなたは月だ、太陽だ。You are my sunshine.」と、いくら言ったって、心に愛がなければ、そのような美しい言葉も、相手の心には響かない。「I love you. I love you. 私はあなたを愛している、私はあなたを愛している」と何百回言ったとしても、もし心に愛がなければ、相手の心には届かない。「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も、相手の胸に響かない。」 どうでしょうか、とてもすばらしい言葉だとは思いませんでしょうか。
ところで、もう一つ。テレビやインターネットで最初に流れる、「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう」。「心のともしび」 という、この言葉。これもすばらしい言葉ではないでしょうか。「暗いゾ」と文句を言うのではなくて、「暗いから灯りをつけろ」と人に言うのではなくて、暗かったら自分から灯りをつけようとする。自分からすすんで物事を進めて行こうという、そういうあり方を勧めている言葉。「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう」。
あれも大変、これも大変。あれも問題、これも問題。あんなこともある、こんなこともある。マイナス面をいっぱい取り上げて、「大変だ、大変だ」と言う人がおります。確かに、現実をしっかり見つめるということは大切であります。そして、「あれも問題、これも問題」と問題点を挙げることも、これは必要なことかも知れません。でも、問題がいっぱいあって「大変だ、大変だ」と、不平不満ばっかり言っていてもどうしようもありません。「暗い、暗い」と言うだけでは、何の解決にもならないのであります。
そうではなくて、問題点があるならば、どうしたらいいのか。自分からその解決策を積極的に見出そうとすることが大切ではないでしょうか。人の責任にするのではなくて、誰かがするのを待っているのではなくて、自分から進んで取り組んで行こうという、そういう姿勢こそ大切なのではないでしょうか。「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう」。「心のともしび」。すばらしい言葉だと思います。
ところで、今日は、このカトリック教会の「心のともしび」にも出演され、すばらしいお話を沢山しておられる「渡辺和子さん」のお話を、少ししたいと思います。渡辺和子さんは、ナミュール・ノ−トルダム修道女会のシスターでありますが、長い間、岡山県にあります「ノートルダム清心女子大学」の学長をされておりました。今は学長を退かれ理事長をしておられますが、本も沢山書いておられますので、ご存知の方も多いと思います。
で、この渡辺和子さんですけれども、小学校3年生、9歳の時にお父さんが目の前で殺される訳であります。世に言う「二・二六事件」で、当時教育総監だったお父さん(渡辺錠太郎)が青年将校に襲撃され、43発の銃弾を撃ち込まれて殺されるのを目のあたりにする。その後、12歳になって、「雙葉(ふたば)のミッションスクール」(現・雙葉中学校・高等女学校)に入学。1945年、18歳の時、キリスト教の洗礼を受けられます。そして、1951年、「聖心女子大学」に通いながら上智大学で文書作成のアルバイトをし、1954年上智大学大学院(西洋文化研究科)修士課程を修了されます。
渡辺和子さんは、その後、1956年、29歳の時、ナミュール・ノートルダム修道女会に入会されますが、この修道院に入る前の7年間、アメリカ人の通う夜学で教務部長のようなものもしておられたといいます。英語もまだそんなに上達していなかったし、仕事にも慣れていなかったため、決して良い事務員ではなかったと語っておられますが、ある日、上司のアメリカ人神父から、こんなことを言われたと言うのであります。「あなたは宝石だ。」
「あなたは宝石だ」なんて男の人から言われれば、普通の女性なら舞い上がってしまうかも知れません。でも、言った人は神父さまであります。カトリック教会の神父は、生涯独身の誓約をしています。そんな神父から「あなたは宝石だ」なんて言われても、ちっともうれしくありません。でも、渡辺和子さんはその時気づくのであります。今日取り上げたイザヤ書43章4節の言葉。「私の目にあなたは価高く、貴く 私はあなたを愛している」。この神様の言葉に気づく。
渡辺和子さんは、先程お話しましたように、9歳の時、お父さんが目の前で殺されるのを見ている訳であります。それがずっと「トラウマ」になっていて、「自分なんてどうでもいい、どうなったっていい」というような、そんな思いがあったそうであります。自分の父親が目の前で殺される。これは大きなショックであります。なかなか忘れられない。私も、あの東日本大震災を目の当たりに体験し、なかなかその「トラウマ」から抜け出せません。だから、よく分かるのであります。人の世のはかなさ。「どうにでもなれ」というような気持ち、よく分かります。
でも、渡辺和子さんは、上司のアメリカ人神父から「あなたは宝石だ」と言われた時、先程申しましたイザヤ書の言葉に気づく。「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛している」という、この神様の言葉に気づく。今まで、石ころでしかないと思っていた自分に「あなたは宝石だ」と言ってくれる人がいる。神父さまがいる。神様がいる。今まで「どうでもいい」と思っていた自分が、「どうでもよくない自分に変わった」と言うのであります。自分に「宝石だ」と言ってくださる方がいる。自分も宝石になる可能性がある。渡辺さんは、この言葉によって、生きる勇気を与えられ、自信を持つことが出来るようになったと語っています。
このお話は、先程紹介しました、カトリック教会の「心のともしび」、「ごたいせつの愛」という渡辺和子さんのお話の中に出てくるお話ですが、「ごたいせつの愛」という題が付いていますので、ついでに「ごたいせつ」ということについても少し触れておきたいと思います。
「ごたいせつ」。これはもともと大和言葉でありますが、昔は、相手を大切に思う愛情表現としてよく用いられたそうであります。「お体、ご(お)大切になさってください」。今でもよく用いられる言葉であります。
ところで、キリスト教では「神は愛なり」なんて、よく申しまして、聖書の中には、神の愛、キリストの愛、あるいは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」とか、「汝の敵を愛せよ」とか、「愛」という言葉が沢山出て来ます。でも、このように「愛」という言葉が聖書の中に用いられるようになったのは、これは明治以後になってからだと言われております。
それまでは、「カワイガル」(ギュツラフ訳)とか、もっと前には「ごたいせつ」(ドチリナキリシタン)なんて訳されていたこともあったようであります。「デウス(神)はごたいせつ」、そんなふうに言われていた時代もあったんでありますね。
神の愛、イエス様の愛。それは今では「アガペーの愛」「自己犠牲の愛」なんて、よく説明される訳ですけれども、イエス様の「汝の敵を愛せよ」というような教え、これはなかなか理解するのが難しい。敵は敵であり、そもそも敵は憎むべきものであり、愛すべきものではない。そんな敵を「愛せよ」なんて、矛盾もはなはだしい。そういうことにもなります。でも、「敵もごたいせつ」ということになれば、ニューアンスも大部変わってくるのではないでしょうか。
相手を大事に思う。大切に思う。それがキリスト教の精神(博愛精神)であります。渡辺和子さんは、カトリックのシスターですから、よくカトリックのお話をされるんですが、「ごたいせつ」というお話の中で、あのフランシスコ・ザビエル、そしてその後の宣教師たちのことを取り上げ、こんなことを言っております。
1549年、フランシスコ・ザビエルによって日本に最初にキリスト教が伝えられますが、やがて宣教師たちは「禁教令」によって国外に追放されたり、殉教したりする。ちょうど今NHKの大河ドラマで「軍師官兵衛」をやっておりますが、秀吉からキリシタンの「禁教令」が出ますね。そういう時代。宣教師たちは、国外追放されたり殉教したりする訳であります。
でも、彼らには、国外に追放される前に、殉教する前に、どうしてもこれだけは日本人に伝えたい、伝えねばならないと思ったメッセージがあった、というのであります。それは何かというと、「神は愛である」ということ。でも、宣教師たちは、「愛」という言葉を使わずに、わざわざ大和言葉の「ごたいせつ」という言葉を使ったというのであります。「性別、年齢、身分にかかわらず、あなた方一人ひとりは、神様の前に、神様の目には「貴い」のです、「ごたいせつ」なのですよ。自分の命を粗末にしてはいけない。ぞんざいに生きてはいけない。これが、宣教師たちが、迫害にもめげず、日本人に残したかった福音(善き知らせ)だったのではないか、と言うのであります。
あなた方は、ごたいせつ。神様は、あなた方を「価高く、貴いもの」としてくださっている。「あなたは私の宝だ、宝石だ」と言ってくださっている。あなたは大切な人、かけがえのない大切な人。神様は私たちを愛してくれている。これは、私たちがこの世に生きている価値を教えている言葉と言ってもいいかも知れません。
私たちは、いろいろなことが出来るから価値があるのではありません。確かに、今の世の中、あれが出来る、これが出来る、あんなことも出来る。そういう「出来ること」で人を評価し、価値あるものとする傾向があります。でも、神様は、特別なことが出来なくても、何も出来なくても、あなたが今生きている、生きているだけで価値があるんだと言ってくださるお方であります。「わたしの目に、あなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している。」 (イザヤ43:4)
生まれつき障碍があろうがなかろうが、あるいは、何か特別な才能があろうがなかろうが、どんな人でも、神様は私たちを、かけがえのない大切な人として、愛してくださっている。私たち、そのことを覚え、「人間、価値があるから生きているのではなくて、生きているから価値があるんだ」「生きているということだけで価値があるんだ」ということを思い起こし、神様に感謝しながら、この一週間も歩んでまいりたいと思います。
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