今日は「使徒信条」の学び8回目。今日から、主イエス様のご生涯について学びます。主イエス様のご生涯。使徒信条では、「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、云々」と語ります。
で、今日は、この最初のところにある「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアより生れた」という所ですが、主イエス様の誕生の出来事、これは、今では「クリスマスのお話」ということで、よく知られています。
聖書には、クリスマスのお話が二つ載っています。一つは、マタイ福音書、それからもう一つはルカ福音書であります。私たちは、このマタイとルカの福音書のお話を合わせてクリスマスの出来事を考えていますが、実は、博士たちが出てくるのはマタイ福音書だけですし、羊飼いが出てくるのはルカ福音書だけであります。でも、クリスマスのページェントなどでは、私たちは博士たちも羊飼いたちも一緒に出演させます。マタイとルカのお話を合成している訳であります。
でも、マタイ福音書にもルカ福音書にも共通して述べられている事柄があります。それは使徒信条にありますように、イエス様が「聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアより生まれた」ということであります。マタイ福音書には、このようにあります。マタイ福音書1章18節以下ですが、
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」(マタイ1:18-21)
ルカ福音書には、このようにあります。ルカ福音書1章31節以下ですけれども、
天使がマリアのところにきて、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と言いますと、マリアは「どうしてそんなことがありえましょうか。私はまだ男の人をまだ知りませんのに」と、こう答える。
それに対して、ルカ福音書1章35節、天使は、「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」。まあ、このように語る訳であります。
マタイ福音書もルカ福音書も共に、「イエス様は、聖霊によって宿られた」ということを語る。マリアは、聖霊によって身ごもり、イエス様を出産するのであります。これは、キリスト教でよく言われる「処女(しょじょ)降誕」の出来事であります。
ところで、「処女降誕」などと申しますと、現代の私達には、中々理解出来ない。まあ、カトリック教会では、逆に、この「処女降誕」ということを強調し、神の子イエス様のお母さんということで「聖母マリア」ということを言い、「マリアさまの像・聖母マリア像」を拝んだりしておりますけれども、一般的には、「処女降誕」なんて言っても、よく分からない。そういう所がある訳であります。ですから、今までいろいろなことが言われてきました。
例えば、今日の聖書のマタイ福音書1章23節の所にある「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という言葉、これは旧約聖書のイザヤ書7章14節にある言葉の引用ですが、確かに、ここに「おとめ」と訳されている言葉、これは「処女」を表す「パルテノス」という言葉が使われております。でも、イザヤ書の元の言葉は「アルマー」。これは「若い女の人」ということで、必ずしも「処女」を意味するものではない。まあ、こんなことを言う人もいる訳であります。
また、偉大な人が生まれる時には、いろいろ不思議なことが言われているので、イエス様の誕生のお話も、その類いの一つではないかと、そんなふうに言う人もいます。
例えば、お釈迦様(仏教の開祖、ゴータマ・シッダッタ、B.C.7世紀~B.C.5世紀頃)を身ごもった時、お母さん(摩耶夫人)は、「六つの牙をもつ白象が胎内・お腹に入る夢をみた」などというお話があります。仏教徒の多い日本ですから、お聞きになった方もおられると思います。
また、ゾロアスター教(拝火教)の教祖「ゾロアスター」(ザラトゥシャトラ B.C.7世紀後半にアゼルバイジャンで出生)。彼の母親ドウグダは、妊娠六か月目に、善霊と悪霊が胎児を求めて争っている夢を見たなんてお話もあります。(怪物が未来のゾロアスターを母親の胎内からつかみ出すと、光の神が光の角で怪物を打ち負かし、胎児を母胎にもどしたというような、そんな夢を見たというお話。)
日本にだって、この手のお話、沢山あるのではないでしょうか。例えば、あの豊臣秀吉。母親(なか)が、神社にお参りし、太陽が母親の胎内・お腹に入る夢をみて身ごもったのが秀吉であるというような伝説。こういう言い伝え、お話、沢山ある訳であります。
で、イエス様の場合は、「聖霊によって身ごもった」というお話、マリアは、聖霊によって身ごもり、イエス様を産んだというお話ですが、これも昔からよくある偉大な人が生まれる時によく語られたお話の一つ。そんなふうに言う人もいる訳であります。
確かに、「信仰」というものを抜きにして考えれば、そんなふうに考えることも出来ます。でも、聖書は、単なる昔話ではありません。勿論、イエス様のこの誕生物語、今から言えば、もう2000年も前のお話ですから、本当にこんなことがあったのかなんて言い出せば、いくらでも議論できるでしょうし、いろいろなことを問題にすることも出来ると思います。
でも、私たちは、このお話を、私たちの信仰のお話として聞くのであります。私たちの「信仰」にとって大切なお話、必要なお話として聞く。使徒信条の中に「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、云々」とあるのは、このことが私たちの信仰にとって大切だから、だから、こんなふうに取り上げられている、そんなふうに受け止めるのであります。
イエス様の誕生物語。今日は「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリヤより生れた」というお話ですが、いろいろな受けとめ方がなされ、いろいろな解釈があります。でも、今日は、一つ、大切な視点・見方をご紹介したいと思います。それは、こんな視点・見方であります。
昔、ユダヤ人の教師たちは、宗教的な目的で書かれた物語を解釈するにあたって、「それが実際に起こった事なのか」という事よりも、先ず「それは、何を私たちに教えているのか」という事を考えたそうであります。すなわち彼らは、それが文字通り本当のことなのかどうか、本当にそういうことがあったのかどうかということよりも、そのお話の背後にある永遠の真理を見い出すことに、より深い関心を持っていたというのであります。
これは、私たちが聖書を読むときの視点、読み方と言ってもいいのではないでしょうか。私たちは、聖書を読むとき、本当にこういうことがあったのかどうかというような、そういうことを問題にするのではなくて、このお話は、聖書のお話は、私たちに何を教えているお話なのか、どういうことを教えているお話なのかという、そういう視点から聖書を読むことが大切なんだろうと思うのであります。
で、今日は、そういう視点から、「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリヤより生れた」という、この使徒信条の信仰告白を考えてみたいと思いますが、ここには、いくつか大切なことが教えられていると思います。 先ず第一は、イエス様の誕生においては、神様の力、聖霊の力が特別に働いたということでありますが、自然界の摂理から言えば、男と女がいて、そして妊娠する。それがこの世の摂理であります。でも、イエス様の誕生にあっては、神様の力・聖霊の力が特別に働いたというのであります。
「聖霊によって身ごもる」。どうしてそんなことがあり得るのか。今は、そういう問いは問わないでおきたいと思います。どうしてもという人には、ルカ福音書1章37節の「神に出来ないことは何一つない」という言葉を挙げておきたいと思います。不可能を可能にするのが神様であります。「光あれ」と言えば「光が生じる」、そういう神様の力。神様に出来ないことは何一つない。だとすれば、マリアが「聖霊によって身ごもった」というお話くらいで、あわてふためく必要なんか全くないのであります。
それよりも、どうして、イエス様の誕生のとき、マリアに、特別な力、聖霊の力、神様の力が働いたのでしょうか。それはマリアがそれにふさわしい人だったからというような、そういう信仰的なお話も出来るとは思いますが、もう一つ、今までの使徒信条のお話の流れから言えば、神様は、このようにして神様のご計画を成し遂げようとされたと言うことが出来るのではないでしょうか。
神様のご計画。それは、再び神の国をこの世にもたらそうという、そういう計画でありました。今まで、そのことについて繰り返し学んで来ましたが、イエス様の宣教の第一声を見てもよく分かると思います。イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言って、神の国の福音を宣べ伝えていったのであります。
ですから、神様のご計画。それは、再び神の国をこの世にもたらそうという、そういうご計画。それは間違いありません。勿論、このご計画には、イエス様のあの十字架が必要である訳ですけれども、その第一歩がイエス様の誕生という、この出来事と言ってもいいと思います。
聖霊・神様の力が働いて、神様のご計画が、ここから具体的に始まるのであります。そのことを使徒信条では、「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリヤより生れた」という、このような表現で先ず語っているのではないでしょうか。
それでは、次に「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアより生れた」という、この使徒信条から教えられること。 それは、神様は「私たちと共にいてくださるお方である」ということがあると思います。
聖霊によって宿られたイエス様。神の独り子であるイエス様。そのイエス様はマリアから生まれました。そして、私たち人間と同じになられたのであります。(受肉)
神様は、宇宙のかなた、どこかにおられるお方ではありません。私たちと共にいてくださるお方なのであります。今日の聖書の23節、先程も取り上げましたけれども、こんな言葉がありました。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』 この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
イエス様の名前は、「イエス」。それはヘブライ語では「ヨシュア」(主は救い)という当時よく用いられていた名前であります。でも、イエス様は「インマヌエルと呼ばれる」とありますように、いつも私たちと共にいてくださるお方なのであります。実際、イエス様は、いつも弟子たちと共におられましたし、天に帰られたあとも、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださいました。イエス様は、私たちに「インマヌエル」(神共にいましたもう)ということを身をもって示してくださったお方なのであります。
神様は、宇宙のかなた、どこかにおられるお方ではありません。いつも私たちと共にいてくださるお方、そして、私たちを守り導いてくださるお方なのであります。
それでは最後にもう一つ、「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生れた」というこの使徒信条の言葉が教えていること。 それは「神様は私たちを愛してくださっている」ということがあると思います。
ヨハネ福音書の3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という有名な御言葉がありますが、神様は私たちを愛しておられます。だからこそ、御子イエス様をこの世にお送りにくださったのであります。
神様の愛は、あのイエス様の十字架によって最もよく示されました。でも同時に、先程申しました「インマヌエル」(神共にいましたもう)ということによっても、神の愛はよく示されているのではないでしょうか。神様が共にいてくれる。一緒にいてくれる、いつも神様が私たちに寄り添っていてくださる。それは神の愛を語っているものであります。
私たち、一緒にいてくれる人がいる、寄り添ってくれる人がいるとき、そこに愛を感じ、また、安心して歩んで行くことが出来ます。イエス様は、そういう人であります。神様は、そういうお方であります。いつも私たちと共にいて、私たちを見守り、私たちを支え、私たちを励ましてくださるのであります。
私たちに寄り添い、私たちと一緒に歩んでくださる神様・イエス様。私たち、これからも、そのような神様の愛の御手に抱かれながら、神様を信じ、イエス様を信じて、力強く歩んで行ければと思います。
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