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説教 「我らの主、イエス・キリスト(5)」 新しく創造される
               (2コリント 5:14-21)      2014/09/28

 私たちは、今まで「使徒信条」を学んでまいりました。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」 ここまで学んでまいりました。「天地の造り主なる神」ということで2回、「我らの主、イエス・キリスト」ということで4回、今日で使徒信条の学びは7回目になる訳であります。

 まだまだ続いて行く訳ですけれども、しばらくこの学び、「お休み」しておりましたので、今日は先ず今までの「まとめ」を少ししておきたいと思います。今まで、こんなお話をさせていただきました。

 先ず第一ですが、「天地を造られた神様」ということから、私たちは、神様によって造られた人間であるということ。 この世を造ったのは神様でありますけれども、神様は、私たち人間を造られたということを特に取り上げて、「人間の本来あるべき姿」について学びました。それは、あのエデンの園で、アダムとエバが「アッバ、父よ」と呼びかけると、それにやさしく応えてくれる神様。その神様との豊かな交わり(縦の関係)をベースにして、私たちがこの世に神様の願われる世界、神の国・エデンの園を造り上げていくという、そういう壮大な使命と責任があるということを学んだ訳であります。

 私たちは、神様から命を与えられ、この世に生かされております。その与えられた「命」を使って、(まあ「使命」という言葉は、「命を使う」と書きますが、)その「命」を使って、神様の願われる世界をこの世に造り上げて行くという、そういう使命、あるいは、責任が私たちには与えられているということを学びました。

 しかしながら、私たちの現実はどうかと言うと、神様のことがよく分からない、それ故、自分勝手な、自分さえよければいいというような、そういう生活・生き方をしている。それは、神様の目から見れば、「的はずれな生き方」、そんなふうに言ってもいいと思います。そして、そういう私たちの現実から、人間の罪の問題、そして、堕落というような、そういう問題についても学んでまいりました。

 今ある人間の姿。それは決して神様の願われるようなあり方ではありません。神様は、全世界の人たち、そして自然界をも含め、すべてのもの、みんなが、仲良く、喜びをもって生活できるようにと、この世を造られたのであります。にもかかわらず、現実は、自分が、あるいは、自分たちさえよければという、そういう人間の自分勝手な理屈によって、この世を支配している。

 富める国があれば貧しい国がある。支配するものがいれば、支配されるものがいる。何でもお金で解決しようとする。そういう現実は、決して神様に喜ばれる世界ではありません。神様が願われるのは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)という、そういう世界であります。でも、現実は、強い者が喜びや楽しみを独占し、弱い者は「泣くしかない」、そういう世界を造り出している。この世の現実は、必ずしも神様の願われる世界ではないのであります。

 そして、私たちは、このような現実を生み出している「原因」を、神様との関係が切れてしまったから、神様との関係が切れ、神様のことがよく分からず、神様の願いもよく分からなくなってしまったからという、そういうところに見て来ました。そして、アダムとエバがエデンの園を追い出されてしまった世界。それこそまさに私たちの現実の世界であるということ、そういうことを、私たちは、聖書を通して学んで来た訳であります。

 しかしながら、神様は、このような人間を放っておいた訳ではありません。旧約時代には、イスラエル民族に律法や預言者を与え、失われた人間を救い出そうとされました。神様は、ご自身の思いを、願いを人々に伝え、戒めを与え、神様に従うよう求めて来たのであります。でも、律法や預言者が与えられても、人間の現実は変わりませんでした。前に、イスラエル民族の歴史は、神様に反逆してきた歴史であるというようなお話もしましたけれども、見方によっては、そんなふうにも言える現実があった訳であります。

 しかし、神様は失われた人間を救い出すために、そして再びエデンの園・神の国をこの世に造り出すために、時至って、神の独り子・主イエス様をこの世に送ってくださいました。ガラテヤ書の4章4節以下には、このようにありました。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を(神様の独り子イエス様を)女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤ4:4-5)

 神様は、律法と預言者だけでは人間を救うことができないと判断されたのでしょうか。 神様の前に、どのような歩みをして行くべきか、その道を神様は示されましたけれども、人間の罪深さ故でしょうか、人間は神様の掟を守りきれなかった訳であります。それ故、神様は最後の手段として、自らの独り子イエス様をこの世にお送りくださった訳であります。そして、その独り子によって新しい契約を結ぼうとされた。「新しい契約」については、前回学びましたが、エレミヤ書の31章31節以下の所に、このようにあります。

 「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と「新しい契約」を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。(イスラエル民族は、神様の契約を守ることが出来なかったのでありますね。)

 しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:31-34)

 この約束通り、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様の十字架と復活を通して、新しい契約を成し遂げてくださいました。私たちは、もはや神様が分からないなどと言う必要はないのであります。「私を見た者は、父なる神を見たのだ」(ヨハネ14:9)と言われるイエス様を通して、まことの神様を知らされたからであります。また、神様は、イエス様の十字架の血潮によって、私たちの罪を赦し、「再び私たちの罪を心に留めることはない」という神様の約束を果たしてくださいました。私たちは、神の子たる身分を再び与えられたのであります。それが、前に学びました御言葉であります。ガラテヤ書4章の6節以下、「あなた方が子であることは(神の子であることは)、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です(神の子です)。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」(ガラテヤ4:6-7)

 私たちは神の国・エデンの園を受け継ぐ「相続人」になったのであります。失われていたエデンの園・神の国、それを受け継ぐ者となった。それはひとえに神様の恵み、イエス様の恵みによるものでありますけれども、とにかく、私たちは、今や「新しい契約」のもと、新しく神の子とされ、新しい歩みをして行くように教えられている。今日の聖書の所、第二コリントの5章17節の所には、このようにあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 今や、古いものは過ぎ去って、新しい世界が開かれたのであります。私たちは、罪贖われ、神様によって新しく「神の子」とされ、新しい世界・神の国に生きるようになった。これが聖書の福音であります。

 アダムとエバの堕落以後、神様との生ける関係が切れてしまっていた人間であります。神様との交わりが切れていたのであります。しかし、今やその関係が回復し、再び、神様に造られた人間が、神様に造られた人間として、神様に造られた人間らしく生きる、そういう道が開かれたと、聖書は教える訳であります。

 今日の聖書の所には、神様との関係が回復したということを、神様との「和解」という表現で語っています。18節の途中から、「神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させた」。また、19節「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられた」とあります。

 天地創造から始まる聖書の世界。天地を造られ、すべてのものを造られ、そして、最後に「私たち人間」をも造られた神様。その神様は、この世を愛と喜びに満ちた世界にしようとした訳であります。それが、エデンの園・神の国でありました。でも人間の堕落によって、そのエデンの園・神の国は失われてしまいました。しかしながら、神様は、もう一度私たち人間を「新しく創造する」ことによって、神様の願われる世界をこの世にもたらそうとされているのであります。それが「新しい契約」による神様の恵みの世界であります。

 このあと歌います讃美歌226番の4番には、このような歌詞があります。
 4.天地(あめつち)つくりし神は、人をも造り変えて、正しく清き魂 持つ身とならしめたもう

 神様による「新しい創造」。それは、私たちを新しく造り変えることから始まります。神様は、私たちを「新しく造り変えて」くださるのであります。新しく造り変える。それは、ただ単に、私たちが新しい人間になるということだけではありません。私たちが、古い自分に死んで、新しく生まれ変わるということであります。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」というのは、今までの古い私たちが一旦「死ぬ」ということであります。

 今日の聖書、14節以下には、このような言葉があります。「私たちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」。一人の方がすべての人のために死んでくださった。それは、あのイエス様の十字架の死のことであります。イエス様は、すべての人のために、十字架につけられ死んでくださったのであります。そして、そのイエス様の死は、「すべての人も死んだことになる」とありますように、イエス様の死は、「私たちの死」をも意味するものなのであります。「一人の方(イエス様)がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになる。」

 そうです。イエス様と一緒に私たちも死ぬのであります。古い自分に死ぬ。でも、イエス様がよみがえったように、私たちもまたよみがえる。古い自分に死んで、新しくよみがえる。新しく生まれ変わり、新しく創造されるのであります。それは、復活であります。私たちの復活。 復活はイエス様だけの出来事ではありません。私たちも復活するのであります。新しく、神の子として復活する。新しい命・永遠の命を与えられ、新しい生き方へと生まれ変わるのであります。

 先程の言葉の続きには、このようにあります。「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

 今まで、自分を中心に、自分さえよければ、というような、そんな生き方をしていたかも知れません。でも、これからは、「私たちのために死んで復活してくださった方」、すなわち、イエス様、神様のために生きる。これが私たちの「新しい生き方」であります。

 でも、このような新しい生き方をするには、一つ条件があります。それは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とありますように、「キリストと結ばれる」ということが必要なのでありますね。キリストと結ばれる。それは、あのイエス様の「ぶどうの木とその枝」のたとえにありますように、イエス様に接ぎ木されること、イエス様につながることが必要なのであります。イエス様は、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ 15:5)と語られました。 イエス様につながり、結ばれるとき、私たちは、イエス様から豊かな栄養分を与えられ、豊かな実を結ぶことが出来るようになるのであります。

 それから、もう一つ、「キリストと結ばれる」というのは、「キリストの体である教会」につながるということがあります。第一コリントの12章12節以下には「一つの体、多くの部分」というお話がありますが、人間の体には、足や手、耳や目、いろんな部分がある。でも、体は一つ。同じように、キリストの場合もそうだというのであります。キリストに結びついている枝、その枝は、体に例えれば、一つ一つの枝が足であり手であり、あるいは耳や目であるというのでありますね。そして、「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(1コリント 12:27)と教える。

 私たちは、キリストの体の一部となることが必要なのでありますね。それは、キリストの体なる教会(エクレーシア)の一員になるということ。それは、洗礼を受けることと言ってもいいと思います。先程のところには、このような言葉もあります。「一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(1コリント 12:13)

 「一つの体」、キリストの体、その一部になること。洗礼を受け、キリストの体である教会(エクレーシア)の一員として、キリストの体の足や手、耳や目になることが必要なのであります。

 キリスト教会に「洗礼」という儀式があるのは、これは決して伊達(だて)ではありません。洗礼(バプテスマ)というのは、キリストと結ばれる儀式であり、私たちが古い自分に死んで新しく生まれ変わる儀式。すなわち、私たちが古い自分に死んで新しくよみがえる、復活する儀式。私たちの罪が赦され・新しく創造される儀式なのであります。ですから、洗礼を受ければ、それでおしまいということではない。むしろここから新しい歩み、新しい人生が始まって行くのであります。私たちの新しい人生の出発点、それが洗礼(バプテスマ)というものなのであります。

 いずれにせよ、私たちには、今、神様によって「新しく創造される」恵みが与えられております。古い自分に死んで、新しく生まれ変わって、神の子として新しい人生を歩み出して行ける、そういう恵みが与えられている。これはすばらしいことではないでしょうか。

 私たち、このすばらしい恵みの世界を教えられている訳ですから、感謝しながら、また喜びをもって、一人でも多くの人たちとこの恵みを分かち合って行ければと思います。
 

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