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説教 「私たちは変えられる」 -永眠者記念礼拝-
               (1コリント 15:50-58)      2014/09/14

 今日は「永眠者記念礼拝」、先に天に召され信仰の先輩たちのことを覚え、お写真を飾り、その在りし日を偲びながら礼拝を守る日であります。

 ところで、永眠者と申しますと、お亡くなりになった方ということで、私たちの心の中に今でも生きているということはありましても、現実的にはもうこの世にはおられません。私たちの心の中では今でも生きている。でも、もうこの世にはおられない方々。さて、このあと彼らはどうなるのか。今日は、このことについて聖書から教えられたいと思います。

 ということで、今日の聖書の箇所ですが、今日の聖書の所には「私たちは変えられる」ということが語られております。先ず、このようにあります。50節。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」

 ここには「肉と血」、また「朽ちるもの」ということが書かれておりますけれども、これは私たちの肉体のことでありますね。私たちの肉体はいずれ朽ち果てるのであります。それが数年後になるか、あるいは数十年後になるか、それは誰にも分かりません。でも、いずれにしても、私たちの肉体は、いずれ滅び、朽ち果てる。その朽ち果てる肉体は「神の国を受け継ぐことはできない」というのであります。

 それでは、神の国とは何でしょうか。神様は「神の国」をこの世に造ろうとされました。創世記に記されております「エデンの園」が、その原型であります。神様を中心とした世界、みんなが仲良く幸せに暮らせるような、そういうすばらしい世界。それが神の国であります。しかしながら、アダムとエバの堕落によって「神の国」は失われてしまいました。今では、どこにあるのか分からない、空想上の産物のようにも思われております。「神の国?そんなもん、どこにあるのか?」と言われるようなものになってしまっている訳であります。

 しかし、神の国構想はなくなってしまった訳ではありません。イエス様と共に再びこの世にやって来たのであります。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と教え、神の国の福音を語りました。イエス様は、主の祈りで「天にまします我らの父よ」と呼びかけるように教えられ、父なる神様がおられるということを教えました。また、「願わくは、御名をあがめさせたまえ」ということで、神様が神様として崇められること、すなわち、神の国のあり方を教えられました。神様が神様として崇められる世界、それが神の国だからであります。それから、「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と、神の国が来るように祈りなさいとも教えられました。神様の御心を中心とした世界が神の国だからであります。

 でも、長い間失われていた「神の国」ですから、そう簡単に「神の国」というものが分かる訳ではありません。ある人は、神の国というようなものがあるとするならば、その神の国というのは「いつ来るのか」というようなことをイエス様に尋ねたと言います。そのとき、イエス様は、このように答えられました。「神の国は、見える形では来ない。(また)『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20-21)。

 神の国、それは神様が支配する国ですから、見える形で来るようなものではないかも知れません。また、「ここにある」「あそこにある」と言えるような、そういうものでもないかも知れません。でも、神の国を信じ、神の国を受け入れる者によっては、神の国は、確かに「あるもの」なのであります。

 いずれにせよ、失われていた「神の国」。イエス様は、それを私たちに思い起こさせ、そして、あのイエス様の十字架と復活によって、再びこの神の国というものを現実的なものとして下さいました。そして、私たちを再び神の国へと招いてくださったのであります。でも、それを受け入れるかどうか。それは私たちの問題、私たちの信仰の問題と言ってもいいかも知れません。なぜならば、どんなにすばらしいものであっても、それを受け入れなければ、それは無意味になってしまうからであります。

 私たちには、今、神の国を受け継ぐ恵みが信仰によって与えられています。神の国、それは誰にでも、信じる者誰にでも、与えられている。私たちは神の国へ招かれているのであります。しかしながら、最初に申しましたように、人間、いつか必ず死ぬ。そして死んでしまえば朽ちてしまうのであります。朽ちてしまっても、朽ちないもの・神の国を受け継ぐことが出来るのでしょうか。今日の聖書の所には、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」とあります。

 でも、これで終わりではありません。続いて、このようにあります。「わたしはあなた方に神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(1コリント15:51-52)

 これは、神秘の世界であります。眠りについたもの、死者がどうなるかという世界。「最後のラッパが鳴るとともに」とありますから、これは最後の審判のときのお話と言ってもいいかも知れません。いずれにせよ、「眠りについた者」も永遠に「眠りにつく訳ではない」。「死者」は「復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられる」というのであります。

 死後の世界。これについては、いろいろな考え方があります。聖書の中にも、いろいろな受け止め方がありまして、統一的な見解は示されておりません。実際、死後の世界を見てきた人というのは一人もおりませんし、科学的に実証できる程、科学も進歩しておりませんので、はっきりと説明することは出来ません。

 しかしながら、私たちは、今日のお話しと関連して、聖書の中から二つの理解の方法を考えてみたいと思います。先ず第一は、死と共に肉体も魂もすべて滅んでしまうという見方。聖書によれば、人間は魂と肉体が一つとなって存在するのであって、魂だけが肉体を離れて一人前に存在するとは考えておりません。それ故、人間は死んでしまったなら魂も肉体も無に帰してしまう。しかし、復活の時には、もともと私たちを無から創造された神様が、新しい復活の体、もはや朽ちることのない、死ぬことのない体を与えてくださる。まあ、このように考えることも一つ出来ると思うのであります。

 第二は、死に際して、人間の肉体は滅びてしまうが、魂は陰府に下り、そこで眠り続けるという考え方もあります。そして、今日の聖書のように、終わりのラッパの響きと共に、魂に新しい朽ちることのない体、もはや死ぬことのない体が与えられ、よみがえる。このような理解も出来ると思います。

 このほか、まだまだいろいろ考えることが出来るかも知れませんが、死後の世界は、実際の所、誰にも分からないのであります。私たちは、今死後の世界について云々することよりも、たとえ死んでも「復活の時にはよみがえるんだ」という信仰を大切にして行きたいと思うのであります。

 どのように復活がなされるのか、それは分かりません。パウロは、「天上の体」とか「霊の体」によみがえるのだと言っておりますが、「天上の体」とか「霊の体」とかと言っても、それがどのようなものか、詳しいことは分かりません。ただ、それが朽ちることのないもの、もはや死なないものであるということが語られているだけであります。

 私たちは、いろいろと頭の中で死後の世界や復活のありようを思い浮かべることが出来るかも知れません。しかし、実際には、何も具体的なことは分からないのであります。これは決して単なる捨てぜりふではありません。そうではなくて、私たちは、分からないことを、あえて分かろうとする必要がないということであります。分からないことをあえて分かったようなふりをするのは偽善者であります。分からないことは分からないでいいじゃありませんか。所詮、人間は神様ではないのであります。全知全能の神様にはなれないのであります。

 死後の世界や復活というようなことは、これは神様の領分であります。私たちは、分からないことを分かったふりをするのではなくて、分からない事は神様に委ねて、いずれ私たちも神様によって「変えられる」。そして、朽ちないもの・神の国を受け継ぐ者となる。神の国の恵みにあずかることが出来るんだという、そういう希望をもって歩んで行ければと思います。

 今日の聖書の57節以下には、このようにあります。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」(15:57-58)

 死後の世界。ああでもない、こうでもない。いろいろ言われます。でも、いろいろな意見に振り回されるのではなく、私たちは、たとえ死んでも、復活の希望がある。そして、朽ちないもの・神の国を受け継ぐ恵みにあずかることが出来るという、そういう希望がある。ですから、そういう希望を持って、今を、今という時を大切に歩んで行きたいと思うのであります。

 「主の業に常に励みなさい」。主の業に常に励んでいれば、神様は、私たちにすばらしい恵みを与えてくださるのであります。それが聖書の約束であります。「主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
 

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