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説教 「我らの主、イエス・キリスト(4)」 新しい契約
               (エレミヤ 31:31-34)      2014/09/07

 先程お読みいただきました、エレミヤ書の31章31節の所には「新しい契約」ということが記されております。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と「新しい契約」を結ぶ日が来る、と主は言われる」。

  「新しい契約」、それは、イエス様の十字架と復活によって私たちに与えられる恵みの契約、救いの契約であります。イエス様は、最後の晩餐のとき、杯を手にして、このように言われました。「この杯は、あなた方のために流される、私の血による「新しい契約」である」(ルカ22:20)。

 イエス様は、私たちを贖うために、私たちを神様のものとするために、十字架の上で血を流されたのでありますね。そのためにこの世に来られたのがイエス様なのであります。ですから、私たちは、このことを覚えつつ、今日は少しばかり、エレミヤ書に預言されております「新しい契約」ということについて学んでみたいと思います。

 ところで、「新しい契約」と言えば、当然「旧い契約」もある訳でして、それを今日のテキストの所では、「かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだ契約」(31:32)、こんなふうに言っております。

 これは、神様がシナイ山でモーセに十戒を与え、イスラエルが神様の与えた掟を守り、神様の言いつけを守るならば、神様はイスラエルに特別な祝福を与えるという、そういうものでありました。申命記4章40節には、このようにあります。「今日、わたしが命じる主の掟と戒め(要するに「十戒」のことですが)を守りなさい。そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得(祝福を与えられ)、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。」

 しかし、イスラエルは、この契約を守っては来なかった。例えば、十戒の一番最初には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、口語訳聖書では「あなたは、私のほかに、なにものをも神としてはならない」とありますけれども、イスラエル民族は、この戒めを守っては来なかった訳であります。

 彼らは他民族の影響を受け、いろいろな神を神として崇めたり、神様以外のものに頼ったりして、結局、彼らを導いて来られた神様をないがしろにして来た訳であります。ですから、旧約聖書の預言者は繰り返し繰り返しイスラエル民族の不信仰を非難したりもした訳であります。 いずれにせよ、イスラエル民族は、「神様の言いつけを守るならば、祝福を与える」という神様の約束を守れなかった、守って来れなかった。ですから、今日の32節の最後の所には、「彼らはこの契約を破った」とある訳でありますね。

 確かに、イスラエル民族は、神様の契約を破りました。でも、神様は恵みの神、愛の神様でもあります。それ故、神様はもう一度「契約」を立てると言われるのであります。それが「新しい契約」と呼ばれるもの。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と「新しい契約」を結ぶ日が来る、と主は言われる。」

 それでは、「新しい契約」というのは、一体どのようなものなのでしょうか。今日は、その内容を今日のテキストの中から少し探ってみたいと思います。

 ということで、先ず第一ですが、先ず第一は33節の真ん中ほどに書かれております。「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。(そして)わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」 こういうことがあるというのであります。

 イスラエル民族に与えられた「律法」というものは、先程も申しましたように、モーセがシナイ山で神様から与えられた、石の板に刻まれた戒め・掟、いわゆる「十戒」というものが中心でありました。「①あなたは私のほかに、なにものをも神としてはならない。②あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。③あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。④安息日を心に留め、これを聖別せよ。⑤あなたの父母を敬え。⑥殺してはならない。⑦姦淫してはならない。⑧盗んではならない。⑨隣人に関して偽証してはならない。⑩隣人の家を欲してはならない。」(出エジプト記20:1f.)

 これらの掟・戒めは、神様の命令ですから、当然守らなければならないということになります。でも、「ああしてはいかん、こうしてはいかん」「ああしろ、こうしろ」と、あんまり言われると、気持ちのいいものではありません。たとえ、言われている事が正しい事であっても、「こうしちゃいかん。ああしろ、こうしろ」というのは、強制されて仕方なく守る・従うという事で、あまりいい感じはしないのではないでしょうか。ただ単に、命令に従う、服従するということだけでは、これは奴隷やロボットと同じであります。そこからは喜びや感謝などは生まれてこないのであります。

 石に刻まれた律法というものは、このような意味合いで、神様からの絶対命令ではある訳ですけれども、私たちがこの命令を喜びをもって、また自発的に従っていくという、そういう側面は非常に弱いと言ってもいいと思います。神様から与えられた命令、それは確かに大切なものであります。でも、あまり強制的に「ああしろ、こうしろ、ああしてはいかん、こうしてはいかん」と言われると、かえってそれが重荷になってくる、そういうこともあるのではないでしょうか。

 しかし、「新しい契約」においては、神様は、この律法を「私たちの心の中に記す」と言う訳であります。これは神様が直接私たちの心、私たちの良心に働きかけて、私たちが自ら進んで神様の御心を行うことが出来るようにしてくださるという事ではないでしょうか。言い換えれば、神様の思いと私たちの思いが一致し、私たちが自発的に神様の願いに応えていくことが出来るようになる、そういうことだと思うのでありますね。

 神様は私たちの目には見えません。でも、神様との関係が愛の絆で結ばれ、信頼関係に基づいて、私たちが、愛と喜びと感謝をもって、神様の願われることを行って行くことが出来るようになる。律法を「私たちの胸の中に授け、私たちの心の中に記す」というのは、そういうことなのではないでしょうか。

 神様の律法、それは確かに大切なものであります。守るべきものであります。しかし、それは外側から強制的に「ああしろ、こうしろ」というものではなくて、私たちの心の中から自然にわき出てくるもの。それが「新しい契約」なんでありますね。

 それでは、二番目の内容に入って行きたいと思いますが、「新しい契約」の二番目は34節の所に述べられております。「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。」 小さい者も大きい者もみんなが神様を知るようになる。これがエレミヤ書にある「新しい契約」の二番目の内容であります。

 今までは律法を通して、隣人どうし、兄弟どうし、また、大きい者が小さい者に対して「神様を知れ」と言って、神様のことを教えることができました。しかし、「新しい契約」が結ばれる時には、個人個人一人一人が直接じかに神様を知ることが出来るようになるというのであります。

 で、実際、イエス様は、弟子のフィリポから「御父を示してください」と言われたとき、このように言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ(父なる神様を見たんだ)。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14:9-11) こう言われたのがイエス様であります。

 イエス様を見るとき、そこに私たちは神様を見るのであります。イエス様を素直に見る、素直に信じるならば、誰でも神様のことが分かるのでありますね。誰かから教えられなければ神様が分からないというのではない。小さい者も大きい者も誰でもイエス様を見れば神様が分かる、神様を知ることが出来るようになる。これが新しい契約の第二の特徴であります。

 それでは、最後に「新しい契約」の第三番目の内容を見てみたいと思いますが、これは今までのもののうちでも、最も重要なものであります。34節の最後の所にこのようにあります。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」

 人間弱い者ですから、いろいろ失敗もします。悪いことをしてしまうこともある。大きな過ちを犯せば、当然その償(つぐな)いもしなければなりません。よく「クリスチャンは罪を犯しても神様にすがれば許されるなんて言って、気楽でいい」なんてことを言う人がおりますが、これは大きな間違い、誤解であります。法律に違反するようなことをすれば、誰だってその罪の報いを受ける訳ですし、償(つぐな)いもしなければならないのであります。

 でもですね、過去のことにいつまでも縛られていては前に進めません。刑務所に入った人は二度と立ち直れないのでしょうか。そんなことはないと思うのでありますね。勿論、犯した罪そのものは消えません。被害者の「ゆるせない」という気持ちも残ります。でも、ちゃんと罪を償うのであれば、その人にも新しい人生があるとは言えないでしょうか。

 過去のことにこだわる。それも時には大切なことかも知れません。しかしながら、いつまでも過去に引きづられ、縛られているだけでは前に進めません。先程の「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という、この言葉は、「私たちは、前に進んで行っていいんだ、前に進んで行くことが出来るんだ」という、そういう「希望」を与える言葉とは言えないでしょうか。

 ところで、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という、この言葉。神様は「再び彼らの罪に心を留めることはない」と語っている訳ですが、ここで使われている「罪」という言葉は、「アウォーン」というヘブライ語であります。この「アウォーン」という言葉は、もともと「歪曲」とか「倒錯」という意味の言葉でありまして、まことの神様から離れ、本来の秩序をゆがめてしまった人間の姿を言い表している言葉であります。

 人間は、まことの神様を見失って以来、自分勝手に、自分に都合のいいような神様を作り上げてまいりました。神様が人間を造ったのではなくて、人間が神様を造ったという、そういう倒錯、さかさまのあり方をしてきたのでありますね。そういう逆さまの状態、倒錯状態、それが「罪」というものなのであります。

 聖書の中には、このほか「罪」を表す言葉として「ハッタート」というヘブライ語や、「ハマルティア」というギリシャ語がよく用いられています。これらは共に「的外れ」という意味でありまして、人間が神様から離れ、的外れな歩みをしている姿を示す言葉であります。

 で、このように見てまいりますと、「罪」というものの実相が次第にハッキリとしてくるのではないでしょうか。すなわち、聖書では、基本的に「罪」というものを、神様との関係において捕らえている、受けとめているのであります。そして、神様との関係がゆがめられ、的外れな歩みをしている人間の姿が「罪」という言葉で語られる。それ故、聖書では「すべての人が罪を犯した」「すべての人が罪人である」とも言われているのでありますね(ローマ3:9-10、5:12,1ヨハネ1:8等)。

ところで、「新しい契約」では、神様はこのような「罪」をもう心に留めることはない、もはや思わない、罪を赦すと約束しておられる訳であります。これは今申し上げましたような罪理解、すなわち、神様から離れ、的外れの状態が「罪」であるという、そういう理解から言うならば、「罪の赦し」というのは、このような状態から解放され、再び、本来神様とともにあった状態に立ち返ること、そんなふうに言ってもいいと思います。要するに、神様と人間との正常な関係が回復されるという事であります。そのことを「新しい契約」は約束しているのでありますね。これが「新しい契約」の三番目の中身であります。そして、繰り返しますけれども、新約聖書では、この「新しい契約」は、あのイエス・キリストの十字架と復活によってもたらされたと証言している訳であります。

 例えば、ローマの信徒への手紙の3章23節以下、このようにあります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業(あのイエス様の十字架の業)を通して、神の恵みにより、無償で(タダで)義とされるのです(正しいものとされる・罪救われるのです)。神はこのキリストを立て、その血によって(十字架の血によって)、信じる者のために罪を償(つぐ)う供え物となさいました。」(ローマ3:23-25)

 イエス様が既に私たちの罪を償(つぐな)ってくださったのであります。ですから、私たちは過去に引きづられることなく、縛られることなく、前に進んで行くことが出来るのであります。イエス様のあの十字架と復活、それによって私たちの罪は贖(あがな)われ、神様のものとなり、罪の赦しが与えられるのであります。イエス様の十字架と復活を信じるならば、誰でも救いにあずかることができる。それがイエス様によってもたらされた「新しい契約」なんでありますね。

 繰り返しますが、新約聖書は、「新しい契約」がイエス・キリストによって既にもたらされていると宣言しています。そして大切なことは、私たちがこの「新しい契約」を信じさえすれば、受け入れさえすれば、誰でもその恵みに無償で(タダで)あずかることが出来るということであります。イエス様の十字架と復活による「罪の赦し」、イエス様を私たちの救い主・キリストと信じるならば、誰でも救いにあずかることが出来る。これは本当にすばらしいことではないでしょうか。

 今まで神様のことがよく分からなかったとしても、イエス様を通して神様のことがよく分かるようになってくる。また、「ああしろ、こうしろ」と言われなくても、自然に神様の願われることを行うことが出来るようになってくる。イエス様を信じ、受け入れさえすれば、誰でもこのような恵みにあずかることが出来るのでありますね。

 私たち、このような恵みが与えられていることを覚え、感謝しながら、この一週間も歩んでまいりたいと思います。
 

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