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説教 「我らの主、イエス・キリスト(3)救済論2」 あなたは神の子
               (ガラテヤ 4:4-7)      2014/08/31

 先週、私たちは、マタイ福音書5章17節の言葉を取り上げました。イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と語られました。前の口語訳聖書では「成就するために来た」とあります。イエス様は、律法や預言者を完成するために、成就するために、この世に来られたというのでありますね。

 このイエス様の言葉を理解するには、いくつかの事柄が前提になっていると思います。
一つは、聖書の最初に記されている私たち人間の創造ということ。私たちは、神様にかたどって、神様に似せて造られたのでありますね(創世記2:26-27)。言い換えれば、私たちは神様の似姿として、すなわち「神の子」として、この世に命を与えられている、生かされているということであります。このことは、聖書全体の前提ですから、いつも頭に入れておかなければならない事柄だと思います。

 ところで、このように神様の似姿として、「神の子」として造られた人間ですが、現実の私たちの姿を見れば、「神の子」と言えるような、そんなあり方をしていない。そもそも「神様なんて本当にいるのか」なんて思ったり、「世のため人のため」なんて言われても、「でも先ず自分なんだよな」なんてエゴイスティックなことを考えてしまう。そういう現実がある。これが二つ目の前提であります。まあ、これは前提というよりも現実そのものですから、「現実」でいいのかも知れませんが、とにかく、そういうことがある。

 ところで、このような「私たちの現実」をもたらしたお話が、あの創世記の「アダムとエバのお話」の中で象徴的に語られている訳ですが、聖書によれば、それは神様が造られたあのエデンの園が失われたことを意味していると教えている訳であります。 神様が造られたこの世界、本来ならば、あのエデンの園のように、愛と喜びに満ちたすばらしい世界になるはずだった。にもかかわらず、現実は、それが失われている。エデンの園・神の国が失われている。それが次の前提と言ってもいいと思います。

 ところで、このように本来神様が造られたすばらしい世界が失われてしまった原因、それは、私たちが神様の御意が分からなくなってしまったという所に主な原因がある訳ですけれども、そんな人間でも、神様は見捨てず、絶えず導いて来られました。旧約聖書の時代には、イスラエル民族を選び、律法や預言者を与えて、彼らが神様の御意を行うよう、導いて来られた訳であります。でも、律法や預言者を与えられても、それを守れなかったイスラエル民族の歴史というものがある。神様の御意が示されても、それがなかなか守れない、あるいは守ろうとしない。それ故、国を失ってしまうというようなこともあった訳であります。バビロン捕囚なんてものはその一つと言ってもいいと思うのでありますね。

 確かに、律法も預言者も、神様の御意(みこころ)を語っている訳ですけれども、人間にはなかなかそれが守れないという現実がある訳であります。それは人間の弱さ、あるいは、「人間の罪」と言ってもいいかも知れません。ローマの信徒への手紙3章20節には、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」という言葉がありますが、分かっていても守れないということであれば、結局「自分はダメな人間だ、罪人だ」ということになるのではないでしょうか。

 律法にしろ、預言者にしろ、これらは、神様と人間との関係を保つためには、確かに必要なものでありました。しかしながら、それで十分だった訳ではありません。律法が与えられ預言者が与えられたからと言って、人間が神の似姿である「神の子」になった訳ではありませんし、愛と喜びに満ちた「神の国」が完成した訳ではありません。

 しかし、それを完成するお方が与えられたと聖書は言う訳であります。それがイエス様であります。
先程のイエス様の言葉、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というのは、律法や預言者では完成できなかったものを、イエス様は今完成するんだ。そのためにイエス様はこの世に来られたんだということを語っている言葉と言ってもいいのではないでしょうか。言い換えれば、神の似姿である「神の子」を新たに産み出し、愛と喜びに満ちた「神の国」を完成するために、イエス様はこの世に来られた。そういうことを語ろうとしている言葉と言ってもよいと思うのであります。

 そして、そのことをはっきりと告げるのが、先程読んでいただいたガラテヤの信徒への手紙4章4節以下の言葉であります。ガラテヤ書4章4節以下、先ずこのようにあります。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤ4:4-5)

 神様は、時が満ちると、御子イエス様を、この世に、律法の下にあるユダヤ人の間に、一人の人間として、おつかわしになったというのであります。そして、それは、律法を守ろうとしても守れない人たちをあがない出すため、また、私たちを神の子とするためであったと言うのであります。

 繰り返しますが、私たちは、もともと神の子として、神様のかたちに似せて創られたのでありますね。しかし、アダム・エバの堕落以後、神様との生きた関係が切れ、罪の中に身を落してしまった。そして神の子の姿が失われてしまったのであります。旧約時代には、律法や預言者が与えられ、神様のもとに立ち帰る道が示されましたけれども、罪のためとでも言うべきでしょうか、中々神様のもとに帰り着かない。それ故、時至って、神様は、自らの独り子であるイエス様をこの世に遣わし、このイエス様のご生涯、そして十字架を通して、神様に帰る道を開いてくださった訳であります。

 ですから、私達は、このイエス様を通して、神様との生きた関係を回復する事が出来るのでありますし、また、それによって、神の子たる身分を再び与えられるのであります。私たちは、前に、神様との関係が破れ、神様が分からなくなってしまったということから、人間の「罪」というものが生じて来たということを学びましたが、今や、イエス様によって、再び神様との関係が回復されるというのですから、これは、罪からの解放、罪の赦し、救いと言ってもいいのではないでしょうか。

 神様の前に「罪人」である私たち。本来ならば、私たちが裁かれなければならない、そういう私たちですけれども、イエス様が私たち人間の罪を全部背負って、私たちの身代わりとなって裁きを受けてくださった。イエス様は、ご自分の命と引き換えに、私たちを救ってくださったのであります。ですから、私たちは、イエス様のことを「キリスト」(救い主)と呼ぶのであります。

 私たちは、今まで、神様の事がよく分かりませんでした。いるのかいないのか、また、いるとするならば、どのようなお方なのか。よく分からなかった。しかし、「私を見た者は父なる神を見たのだ」と言われたイエス様、そして、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と教えられたイエス様が、実際にご自身の命を捨てることによって、神様の愛というもの私たちに示してくださった。

 私たちは、イエス様を通して、本当の神様の姿を知らされたのであります。これは、私達の努力によるものではありません。全くの神様の恵みであります。そして、その恵みによって、私たちは今、神様に罪赦された者となり、再び神の子となるのであります。あのイエス様の十字架と復活を信じ、私たちが罪赦された者であると信じるならば、私たちは「神の子」なのであります。

 今日のテキストの後半部、4章の6節以下には、このようにあります。「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」(ガラテヤ 4:6-7)

 私達は、今まで、奴隷と同じように、与えられた命令だけを守ろうとしてまいりました。旧約時代は、それは律法であり預言者の語る言葉であったと言ってもいいかも知れません。私たちの現実から言えば、その命令というのは、この世の習慣であり、伝統であり、この世のしがらみと言ってもいいと思います。いずれにせよ、外側からの「ああしなければならない、こうしなければならない、今まで、こうやって来たからこうしなければならない」というような、そういう圧力というか、制約の下にいるのが、「奴隷」なのであります。

 しかし、私たちは、もはや奴隷ではなく、神の子であると言うのであります。神の子は、神様の御意(みこころ)を、喜んで、進んで行なうのであります。決して強制ではなく、「何々せよ」と言われているからするのではなく、自らの自由意志に基づいて、積極的に、喜んでするのであります。

 神の子のお手本は、前もお話したように、イエス様であります。イエス様は「最後のアダム」と言われています。コリントの信徒への手紙一15章45節には、「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となった。」とあります。(1コリント15:45)

 「最後のアダム」、それは神様に造られた本来の人間の姿、神の子の姿と言ってもいいと思います。イエス様は、確かに、神の独り子でありますけれども、同時に、本来の人間の姿、本来の私たちのあるべき姿、「神の子」の姿でもあるのであります。

 「最後のアダムは命を与える霊となった」とあります。イエス様は、私たちと神様との霊的な交わりの橋渡しをして下さるお方であります。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(ヨハネ16:23)と、イエス様はおっしゃいました。イエス様の名によって、私たちは神様との霊的な交わりをなすことができるのであります。ですから、私たちはお祈りの最後に「このお祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りします」なんて言うのでありますね。イエス様は神様と私たちの橋渡しをしてくださるお方、仲保者なのであります。

 とにかく、今や、私たちは、イエス様の十字架によって「神の子」とされ、イエス様のように「アッバ、父よ」と神様に語りかけることが許されております。そして、イエス様の名によって神様に願うならば、神様はそれに答えてくださる。そういう関係の中に今や生きることができるようになったのであります。

 「あなたはもはや奴隷ではなく、子です(神の子です)。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」  私たちは今や「神の子」。そして、神様によって立てられた相続人でもある。「相続人」。私たちは、何を相続するというのでしょうか。受け継ぐというのでしょうか。それは、神様が造られたあのエデンの園、愛と喜びに満ちた「神の国」を相続するということではないでしょうか。

 神様は私たちに、「神の国」を相続させたいのであります。この世を「神の国」としたいのであります。それが神様の御意(みこころ)なのであります。「神の国」。そこには「神の子」が必要。だとするならば、私たちは「神の似姿である神の子」らしく、「神の似姿である神の子」らしい歩みをして行かなければならないということになるのではないでしょうか。

 それでは、具体的にどのような歩みをして行ったらよいのかということになる訳ですけれども、それを教えているのが聖書であります。聖書の御言葉は、神様に造られた人間が、神様に造られた人間として、どのような歩みをして行ったらよいのか、どのような歩みをして行くべきなのか、そういうことを教えている書物でもあります。

 勿論、聖書は「イエス・キリストを証しするもの」でありますけれども、そのイエス様の姿を通し、イエス様の教え、歩みを通して、私たちに「神の子」のあるべき姿を教えているのが、また聖書であると言ってもいいのではないでしょうか。

 いずれにせよ、「あなたはもはや奴隷ではなく、神の子です」と、聖書は宣言しています。こんなことを言われても、ピンと来ない私たちかも知れません。でも、聖書が、そう教えているのですから、私たち、少しでも神の子らしい歩みをして行ければと思います。

 私たちの足らない所は神様がおぎなってくださいます。また、私たちの弱さは、神様が包み込んでくださいます。それは、父なる神様の仕事であります。私たちは、罪赦されている事を感謝し、また全てを神様に委ね、神様に導かれ励まされて、神の子らしい歩みへと一歩一歩、歩みを進めて行ければと思います。
 

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