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説教 「我らの主、イエス・キリスト(2)救済論」 律法、預言者の完成者
               (マタイ 5:17)      2014/08/24

 今まで、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」ということで、私たちは、人間が神様によって造られた目的、更には、神様がこの世を造った目的(創造目的)というものについて考えてまいりました。

 そして、人間というのは、本来、神様の似姿として、すなわち「神の子」として、神様の願われる世界をこの世に造り出す。そして、すべてのものが愛と喜びに満たされ、神の栄光を現す、そういうすばらしい世界を生み出す使命を、神様は私たちに与えてくださっているということを学びました。私たちは、本来そういうことのために、神様から命を与えられ、この世に生かされているのでありますね。

 しかしながら、現実には、私たちは、神様の栄光を現すどころか、神様なんていてもいなくても関係ない。信じたい奴は信じればいいけれども、自分には神様なんていてもいなくても関係ないというような、そういうあり方・生き方をしている。要するに、神様との関わりを持とうとしないで自分勝手な生き方をしている人間。それ故、被造物さえ「産みの苦しみを味わっている」という所から、人間の罪の問題、そして、堕落という問題についても学びました。前回は特に、創世記に記されているアダムとエバのお話を中心に、このあたりのことを学んだ訳であります。

 で、今日は、その続きでありますけれども、神様が造られたこの世界、本来ならば、神様が造られたあのエデンの園のように、愛と喜びに満ちたすばらしい世界になるはずでありました。人間は、神様から与えられた自由意志で、神様の御意を喜んで受け止め、神様の願われる世界をこの世に生み出すはずだったのであります。しかしながら、アダムとエバのお話にありますように、人間は、神様によって与えられた自由を「神様の戒めを守らない」ということに用いてしまいました。

 エデンの園では、何をしても、何を食べても自由でした。しかし、一つだけ禁じられたことがあります。それは「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」ということでありました。「善悪の知識の木」。これについては前回お話しましたので、詳しいことは省略しますけれども、善とか悪とか、そういうことを考える必要がなかった世界・エデンの園で、人間は何をしてもよかった。人間は完全に自由だったのであります。

 でも、一つだけ、たった一つだけ「してはいけないこと」がありました。それが「善悪の知識の木の実だけは食べてはならない」ということでありました。そして、「それを食べると必ず死んでしまう」。こう神様に言われていた訳であります。

 なぜ神様は、こんなことを言われたのでしょうか。そもそも死んでしまうような、そんな可能性のある「善悪の知識の木」なんてものを、なぜ神様はエデンの園に生(は)えさせられたのでしょうか。それは、人間に「自由と責任」ということを教えようとされたからではないでしょうか。

 私たちは、「何をしてもいい、何をしても自由だよ」と言われても、自由の意味も、自由の重さもよく分かりません。でも、目の前に「あれかこれか」という選択、どちらを選ぶかと言われたなら、真剣に考えるのではないでしょうか。「自由」というのは、「あれかこれか」を「選ぶことが出来る」ということであります。しかも、選んだ以上、その結果には「責任」が伴うということであります。

 神様は「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われた訳であります。「食べたら死んでしまう」。命にかかわる選択であります。私たちだって、命にかかわるような選択を迫られれば真剣になります。「どちらを選ぶかは、あなたの自由」。ただし「一方を選べば死んでしまう」。結果も引き受けなければならない。さて、どちらを選ぶか。

 自由というのは、確かに「あれかこれか」を「選ぶことが出来る」ということでありますけれども、同時に、責任も引き受けなければならない。本当の「自由」には「責任」が伴うのであります。言い換えれば、責任が生じるからこそ「自由」の重さというものも生まれてくると言ってもいいかも知れません。

 何をしてもいい、責任もない。そんな自由は「本当の自由」ではありません。神様は「本当の自由」を人間に与えるために、あえて「善悪の知識の木」なんてものを生えさせ、「この実だけは食べてはならない」と、こう言われたのではないでしょうか。

 何回もお話しておりますけれども、神様は、決して神様の言いなりに動くロボットとして人間を造った訳ではありません。神様は、ご自分に似せて、自由に物事を考え、受け止め、判断し、実行できる、そういう人間を造られたのであります。

 しかし、アダムとエバのお話にありますように、人間は「決して食べてはならない」と言われていた禁断の木の実を食べてしまった。そして「死んでしまった」のであります。「でも、聖書では、アダムとエバ、禁断の木の実を食べても死ななかったではないか」という人もおります。

 でも、よく考えてみてください。「光あれ」と言われると、光が生まれる、そういう神様の言葉であります。神様の語られる言葉に間違いはありません。ですから、神様が「食べたら死んでしまう」と言われたとするならば、やはり食べたアダムとエバは「死んでしまった」ということになるのではないでしょうか。

 アダムとエバ、確かに、肉体的には死ななかった。でも、神様の前には「死んでしまった」のであります。これはどういうことなのでしょうか。これも前回お話しましたけれども、このアダムとエバの死は、神様に造られた本来あるべき「神の子の死」であります。聖書の言葉で言えば、「霊的な死」と言ってもいいと思います。人間は、神様のたった一つの戒め、それを破ることによって、神の子としての本性・本質、神様との霊的な交わりを失ってしまったのであります。

 今まで神様と自由に会話をしていた人間。「アッバ、父よ」(お父さん)と呼びかければ、「なんだい」と答えが返ってくる、そういう神様との交わり、関係が切れてしまった。それが「人間の霊的な死」であります。アダムとエバ、彼らは肉体的には死ななかったけれども、霊的には死んでしまったのでありますね。イエス様が「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい(死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい)」(マタイ8:22)と、こう言われたのは、このような意味で言われたのではないでしょうか。

 とにかく、神様の戒めを破った人間は、神様との霊的な交わりができなくなり、神様の御心も分からなくなり、結局、自分中心に生きざるを得なくなってしまった。自分に都合のいい生き方をするようになった(エゴイズム)。神様の御心を考えるのではなく、神様の願われることを行うのではなく、自分に都合のいい生き方、それ故、神様の願いとは違った、いわゆる「的はずれな生き方」をするようになってしまった訳であります。それが、前にもお話しした「罪の本質」であります。

 人間にはよく「原罪」があるなんてことが言われますが、「原罪」の意味は、神様との関係が切れ、神様のことが分からない、それ故「的はずれな生き方」をしている人間の現実を語っている言葉と言ってもよいと思います。

 とにかく、神様との霊的な交わりを失ってしまった人間、本来「神の子」として、神様の御意を行っていくべき人間が死んでしまった。それ故、必然的にエデンの園(神様が造られた理想の世界)も失われてしまったのであります。 神様の言い付けを守らなかったアダムとエバが、エデンの園から追い出されてしまった、追放されたというお話は、人間の視点から言えば、神様が造ってくださった理想世界を失ってしまった、人間は、神様と共に生きる世界・神の国を見失ってしまったということなのではないでしょうか。

 いずれにせよ、神様のことがよく分からなくなってしまった人間、それ故、的はずれな歩みを始めた人間ですが、神様は何もせずに、ただそれをじっと見ていた訳ではありません。愛である神様は、このような人間さえも絶えず導き、救おうとされたのであります。それが救いの歴史、救済史と呼ばれるものであります。

 聖書を読みますと、神様は、いろいろなことを行われたようであります。悪いことをする人間がこの世にはびこったので、洪水を起こし、悪い人間をみな亡ぼすというようなこともされました。「ノアの箱舟」のお話であります。また、アブラハム・イサク・ヤコブというような人を選び、神様の前にどのような生き方をすべきかということを教えられたこともありました。アブラハムは、愛する息子を神様にささげるという試練を通し、神様に従うということがどういうことなのか、身をもって体験したのであります。

 「聖書には、いろいろなお話があっておもしろい」というようなことも言われますが、ただ「おもしろい」だけでは、神様の御心は分かりませんし、神の国もやってまいりません。やはり、神様の思い、願い、何を神様は私たちに求めておられるのかということを考えながら聖書を読むことが大切ではないでしょうか。

 ところで、先程申しましたアブラハム・イサク・ヤコブ、このヤコブがイスラエルという名前になり、このイスラエルから12の部族、そして民族が生まれますけれども、神様は、この小さな、弱い民族を選び、彼らに、律法と預言者とを与え、救いの歴史を導いて来られました。これが旧約聖書におけるイスラエル民族の歴史と言っていいと思います。そして時至って、主イエス・キリストが与えられた。救い主が私たちに与えられた訳であります。まあ、簡単に言うと、こういう事になる訳でありますけれども、もう少し、この辺の所を詳しく学んでみたいと思います。

 先ず、「律法」というものですが、律法と言いますと、すぐ私たちは「モーセの十戒」というものを思い出すと思うのですが、決して「モーセの十戒」だけが律法ではありません。旧約聖書の、特に出エジプト記や、レビ記、また申命記などには、非常にたくさんの掟、規則が記されております。もともと、律法、トーラーというのは、「教え」という意味でありまして、神様の事がよく分からなくなってしまった人間に対して、神様が、御自分のことを示し、人間が、神様を中心とした生活ができるように、生活のすみずみに至るまで細かい教えをなさっているものであります。そして、その代表的なものが、「モーセの十戒」と呼ばれているもの。

 モーセの十戒については皆様よくご存知だと思いますが、先ずその序文には、「私は、あなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とあります。

 神様との生きた関係が失われてしまった私たちにとって、何が本当の神様であり、神様とはどういうお方なのか、よく分からないということがあるのであります。神様に選ばれたイスラエル民族にとっても、世代が代り、環境が変わりますと、何が本当の神であり、神様とはどういうお方なのか、だんだんぼやけてくる。分からなくなってくる訳であります。

 そういう中にあって、「私は、あなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」というのは、これは極めて、具体的であり、現実に基づいた言葉であります。モーセに率いられ、エジプトを脱出したイスラエル民族、しかも、今や約束の地に現に住んでいる、自分たちの土地が与えられている。この極めて具体的な現実。その現実をもたらしたもの、それが「あなたの神、主である」と教えるのであります。

 私たちは、神様がいるのなら、その証拠を見せろなどとよく言います。それは、神様が分からない私たちにとっては当然の要求かも知れません。私たちは、自分の目で見、自分の手で触れれば納得しますけれども、そうじゃなければなかなか信じられません。

 しかし、イスラエル民族にとっては、彼らの今住んでいる土地、また彼らの生活そのものが神様の具体的な恵みとしてあるのであります。そしてこの具体性に基づいて、十戒というものが与えられているのでありますね。十戒の4番目までは、神様と人間との関係が教えられ、5番目からは、人間同士の関係が教えられておりますけれども、これは、神様と人間の関係を軸として、具体的に人間がどのようにして生きて行ったらよいのかという事を示しているものであります。

 とにかく神様との生きた関係が切れてしまった人間は、神様から、律法というものを与えられ、それに従う事によって、少しでも、神様との関係を回復するように導かれたのであります。

 それでは、律法と共によく出てくる「預言者」というのは、どういうものなのでしょうか。旧約聖書の中には、たくさんの預言者と呼ばれる人たちが出てまいります。ですから、一概に語る事は出来ませんけれども、彼らは、決して単に、将来こういう事が起こる、ああいう事が起こるという、そういう事をを予見し語る、いわゆる「未来を予言する予言者(ローエー)」ではありませんでした。

 聖書のいう預言者(ナービー)というのは、読んで字の如く、言(ことば)を預かる者、神様の言葉を預かる者という意味であります。彼らは、神様の言葉を夢とか幻の中で示され、それを人々に語ったのであります。要するに、預言者は、神様の代理人として、神様の御意(みこころ)、願い、思いを、人間に告げ知らせる、そういう働きをしたのであります。ですから、律法にしろ、預言者にしろ、これらは、神様と人間との関係を保つためには、是非とも必要だった、必要不可欠なのだった、そんなふうにも言えるかも知れません。

 しかしながら、それで十分だった訳ではありません。律法が与えられ、預言者が与えられたからと言って、人間は神の似姿である「神の子」になった訳ではありませんし、神の国が完成した訳ではありません。確かに、イスラエル民族は、神様に選ばれた「神の民・選民」となりました(申命記7:6)。でも、いつも神様の御心を痛め続けてまいりました。神様を悲しませてまいりました。それがイスラエル民族の歴史と言ってもいいかも知れません。

 いずれにせよ、律法が与えられ、預言者が与えられたからと言っても、神の国は完成しませんでした。しかし、それを完成するお方が与えられました。それがイエス様であります。イエス様は、今日の聖書の所で、このように言っておられます。マタイ福音書5章17節。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するため(成就するため)である。」(マタイ5:17)

 律法も預言者も、神様との関係を保つためには必要不可欠なものでありました。でも、問題がなかった訳ではありません。それは、繰り返しますけれども、人間には罪があり、いくら神様から「ああしなさい、こうしなさい」、あるいは、「こうしてはいけない」と言われても、それを守り切れないという、そういう現実があるからであります。

 しかし、時至って、この問題を解決してくださったお方が与えられました。それがイエス様であります。イエス様については、これからも引き続き学んで行きたいと思いますが、律法や預言者だけでは解決できなかった問題、それを解決するために、イエス様が与えられた訳であります。イエス様は、あの十字架と復活によって「新しい契約」を私たちに与えてくださったのでありますね。このあたりのことは、また詳しく学びたいと思いますが、いずれにせよ、「律法や預言者を完成・成就するために」この世に来られたのがイエス様。

 私たちには、今、このイエス様が与えられているのであります。ですから、私たちには希望があると言ってもいいかも知れません。失われてしまった神の似姿である「神の子」、そして失われてしまった「エデンの園」。今まで幻想と思われていた「神の国」が、今やイエス様によって完成・成就されようとしているのであります。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。今や新しい世界が与えられ、その新しい世界へと私たちは招かれているのであります。

 イエス様によってもたらされた新しい世界。私たちはその世界に一歩足を踏み出し、そして、恵みに満ちた喜びの世界を味わう者でありたいと思います。
 (続きは、次週またお話したいと思います。)
 

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