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説教 「我らの主、イエス・キリスト(1)堕落論」 イエス様は神の子のお手本
               (ローマ 8:18-30)      2014/08/10

 先週は、人間の創造された目的、更には、神様がこの世を造った神様の創造目的というものについて考えて見ました。そして、本来、人間というのは、神様の似姿として、すなわち「神の子」として、神様の御意に従い、神様の創造目的を完成する、そして、神様の栄光を現す、そのために造られた、そのために私たちは命を与えられ、生かされているという事を学びました。私たちは、神の似姿として、神の子にならなくてはいけないのであります。

 しかし、現実には、神様の栄光を現すどころか、神様なんているのかいないのか分からない、神様なんていてもいなくても関係ない、自分は自分で生きて行ける。自分は自分の栄光を求めて生きて行くんだというような、そういうあり方・生き方をしている。要するに、神様との関係を拒否しながら、無視しながら、自分勝手な生き方をしている、そういう人間の現実がある訳であります。

 どうして、私たちは、このように神様が分からなくなり、それ故、自分勝手な生き方しかできなくなってしまったのでしょうか。本来、神の子として造られた人間が、どうして「悪魔の子」と呼ばれるような、そういう人間になってしまったのでしょうか。今日は、先ず、このあたりの所から学んで行きたいと思います。

 ところで、人間が、神様の事がよく分からなくなってしまった、神様との関係が切れてしまったという問題。これは、本来、人間論とか、堕落論というような形で、時間をかけて取り扱うべき問題かも知れません。しかし、今日は、十分な時間がありませんのでエデンの園におけるアダム・エバのあり方から、中心的な事柄だけを学んでおきたいと思います。

 ということで、創世記の3章をちょっと見ていだきたいと思います。創世記3章の1節以下には、このようなお話が記されております。

 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 女は蛇に答えます。「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(すると) 蛇は女に言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(すると) 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3:1-7)とあります。

この箇所は、とても有名な所ですので、皆様よくご存知だと思います。神様は、エデンの園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」とをはえさせられ、園にあるすべての木から取って食べてもいいけれども「善悪の知識の木」の実だけは「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われた訳であります(2:17)。しかし、アダムとエバは、この戒めを破り、それを食べてしまったというお話であります。

 このお話は、私たちにいろいろなことを教えているお話でありますけれども、例えば、ここに出てくる「蛇」は悪魔であって、私たちが「魔が差して悪いことをしてしまう」というような「現実」を語っているお話でもあります。悪魔が小さな声でささやくのでありますね。「その位だったら大丈夫」「誰も見ていないから大丈夫」。そして、ついつい悪いことをしてしまう、というような私たちの現実。アダムとエバのお話は、そういう私たちの現実を語っているお話でもあります。

 あるいは、このお話には「善悪の知識の木」なんて「おもしろい木」が出てまいりますけれども、これは人間が「善と悪の知識」を持つに至ったプロセスを語っているお話でもあります。

 神様によって造られた人間、しかも神様に似せて造られた人間であるならば、本来、神様のように「善だけの世界」というのでしょうか、要するに、悪というようなことを知らない人間であった訳であります。にもかかわらず、現実は「何が善で、何が悪か」「何がいいことで、何が悪いことなのか」なんてことを私たちは言う。それは、私たちが「善と悪の知識」を持ってしまった「結果」と言ってもいいと思います。そして、何が善であり、何が悪なのかということになりますと、神様の御心にかなうことが「善」であり、神様の御心にかなわないことが「悪」、そんなふうにも言える訳でありまして、「善悪の基準」を教えているお話でもあります。

 また、このお話でおもしろいのは、蛇の誘惑に負けてしまったエバは、自分だけでなく、アダムにも禁断の木の実を与え、アダムをも道連れにしたということであります。自分だけワルになるのはこわい、まずい、だから仲間を求める。今でもよくあるお話ではないでしょうか。一人だけでは気まずいので、他にも仲間を求める。「大丈夫だから、お前もやってみろよ」とけしかける。よくあるお話ではないでしょうか。

 それからもう一つ、禁断の木の実を食べてしまったアダムとエバ。すると、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」というのも面白いと思います。彼らはもともと裸であった。でも、禁断の木の実を食べる前は裸であることに気が付かなかったらしい。そんなバカな、と思われるかも知れませんが、これも「よくあるケース」ではないでしょうか。

 あることがきっかけで「今まで当たり前だったことが」決して当たり前ではないということに気が付く。例えば、信号があって、スムーズに車が流れていたのに突然信号が故障して車が動かなくなってしまう。信号があって当たり前の道路ですと、その信号が故障するとパニックになるのであります。そのとき「ここに信号があるというのは、やはり必要なんだなあ」と思うことがある。 今まで当たり前だと思っていたことであっても、何かがきっかけになって「当たり前」が「当たり前ではなくなる」というようなことは「よくある」ことではないでしょうか。

 ただ、ここでアダムとエバが「裸であることに気付き、腰をいちじくの葉で覆った」というのは、単に「恥ずかしい」という思いがこみあげてきたから」ということだけではなさそうであります。「腰を覆う」というのは、やはり「性的な何か」が暗示されているのかも知れません。最近は「性犯罪」も増えておりますから、そういうものとも関係があるのかも知れません。

 いずれにせよ、神様の戒めを破ったとき、アダムとエバの心の中には、今までとは違った思いとか感情、また善とか悪とかの判断、価値観、そういうものが生まれて来たのではないでしょうか。

 ところで、アダムとエバが、蛇に誘惑されて「禁断の木の実」を食べてしまったというこのお話ですが、アダムもエバも神様の戒めをよ~く知っていた訳であります。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という神様の戒め、命令(2:17)、それをアダムもエバもよく知っていた。にもかかわらず、彼らは、神様の戒めを守らず、戒めにそむいてしまった。どうしてでしょうか。ここには人間の「自由」という問題があるように思います。

 先週、私達は、「神は自分のかたちに人を創造された」という事で、人間には「自由」が与えられているという事を学びました。神様は、決して神様の意のままに動くロボットを作った訳ではありません。人間は神様のロボットではありません。人間は自分の自由意志で「物事」を判断し、決断し、行動することが出来る「自由」を与えられているのであります。

 人間は、その自由に基づいて、神様の御意を受け止め、喜んで神様の願われることを行っていく、そして、神様と喜びを共有する。神様の思い・願いが人間の思いとなり、神様の願われることを人間が自由に選び取り、喜んでそれを行っていく。そして、私たちの喜びが神様の喜びとなるような、そういう「神の子・人間」を、神様は造ったのであります。

 しかし、先程の創世記の3章の記事を読みます時に、どうも人間は、その与えられた自由というものを、神様に服従しない方に、すなわち、神様の戒めを守らないという方に用いてしまったようであります。

 神様は、人間に与えた自由を通して、神と人、そしてすべての被造物が喜び合う世界、エデンの園を完成されようとなさいました。それが、神様がこの世を造られた創造目的であります。にもかかわらず、人間は、その自由を私物化する事によって、神様の創造目的を台無しにしてしまった。それ故、神様・人間・万物という神様の与えた秩序というものもまた破壊されてしまったのであります。

 今日の聖書のローマ書8章22節には、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。」という言葉があります。被造物が苦しんでいるというのであります。これは、本来、神様の御意に従って、被造物全体を管理し、治めるべき人間が、堕落してしまったが故に、それをなしえない、なしえていない現実というものを語っている言葉であります。

 現象面だけを見るならば、確かに、人間は万物を管理し、治めているように見えるかも知れません。しかし、人間は、決して、神様の御意に従って、神様が願われるような万物の管理をしている訳ではありません。人間は、自分たちの私利私欲の為に、自分達の願望を満たす為に、万物を利用しているに過ぎないのであります。自然を破壊し、公害をまきちらし、人間同士お互い利得の為にいがみあっているのが現実であります。

 人間は口では調和だとか、繁栄だとか、秩序だとか言っておりますけれども、その実態は、全て、人間中心のものであり、自分たちだけの利益しか念頭にありません。それ故、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」のであります。

 ところで、この言葉の前には、こういう事も書かれて居ります、ロマ書の8章19節以下。

 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(ローマ8:19-21)

 繰り返しますけれども、神のかたちに造られた人間は、本来、神の子として、神様の御意に従い、神様から知恵と力を与えられて、全てのものを管理する、治めるべきだったのであります。しかし、アダム・エバの堕落以後、人間は、神様の御意が、よく分からなくなってしまった。神様との生きた関係が破れてしまったからであります。

 そして、この関係の破れは、ひとり人間の悲惨を生み出すだけでなく、被造物全体にまで影響を及ぼす結果になったのであります。なぜならば、被造物が虚無に服しているのは、「自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものである」からであります。

 極めて図式的になるとは思いますけれども、人間は、神様との生きた関係の中にあって、神様から知恵と力とを与えられ、愛を与えられ、それに基づいて、万物を管理し、治めるべきものだったのであります。そして、そのようして、全てのものが、喜びを共有し、神様の栄光を現すべきだった。にもかかわらず、肝心の神様と人間との関係が破れてしまったものですから、全ての関係がガタガタになってしまった。

 被造物にしてみれば、とんだとばっちりである訳でありますけれど、自分ではどうしようもない。彼らは、実に切なる思いで、神の子たちの出現を待ち望む以外どうしようもなくなってしまった訳であります。とにかく、このような、全ての原因、根本原因は、神様と人間との生きた関係が破れ、人間に神様の思いが届かず、それ故に人間は、自分を基準にして、自分勝手な歩みを始めてしまったという所にあるのであります。

 これは、人間の「堕落」と呼ぶ事が出来ると思いますが、この堕落によって、人間に罪というものが入って来た。キリスト教では、罪という事をよく言いますけれども、キリスト教のいう罪というのは、本質的には神様との生ける関係が破れている状態の事を言うのであります。勿論、私達は普通もっと広い意味で罪という言葉を用いておりますけれども、その根源は、この神様との関係の破れ、神様が分からない、それ故に、神様に従い得ないという所にあるのであります。

 神様が分からないから、人間は自己中心的になります。自分を基準として、自分なりの考えをし、自分なりの生き方をします。このような自己中心性(エゴイズム)、これを「罪」と呼ぶのであります。また、この人間の自己中心性から様々な「犯罪」というものが生まれてくる。数えあげたらきりがありませんけれども、確かに犯罪の根底には、人間の自己中心性、エゴイズムがあると言ってもいいと思います。

 罪の概念には、法律上の罪(crime)だとか、宗教上の罪(sin)だとか、まあ、いろいろあると思いますが、本質的には、神様との関係が破れ、神様が分からない、それ故に、神様に従い得ない的はずれの生活をする、そういう人間の状態のことを言うのであります。

 新約聖書では、罪という言葉を「ハマルティア」という言葉でよく表現しておりますが、これはもともと「的外れ」という意味であります。全ての人が、自分を中心に的はずれの生活をしている。ですから、聖書では「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)。「正しい人は一人もいない」。全ての人は皆、罪人なのだと言うのであります。神様が分からない、神様の御意が分からない、それ故、神様に従い得ない、的はずれの生活をする、それが、人間であるとするならば、全ての人が「罪人である」と言われてもこれは仕方ないことではないでしょうか。

ところで、このような罪人、堕落した人間を神様はどうしたのでしょうか。そのままほっておいたのでしょうか。そうではありません。先週、「神は愛である」、神様は愛のお方であるということも学びましたけれども、愛である神様は、このような人間さえも絶えず導き、救おうとされました。そして、神様は、特にイスラエルという弱い小さな民族を選び、彼らに律法と預言者とを与え、歴史を導いて来られました。これが旧約聖書におけるイスラエル民族の歴史であります。

 そして時至って、主イエス・キリストが与えられた。救い主が私たちに与えられた訳であります。まあ、簡単に言うと、こういう事になる訳ですけれども、このイエス・キリストに至るまでの神様の救いの歴史については、次回もう一度詳しく学んでみたいと思います。

 いずれにせよ、今、私たちにはイエス・キリスト、イエス様が与えられております。イエス様は、神の独り子でありますけれども、私たちと同じ肉体をもってこの世に来られました。そして、神様に造られた「神の子」というのは、このようなものであるということを私たちに示してくださいました。神様が造られた人間の本来のあるべき姿、アダム・エバの本来のあるべき姿を、イエス様は、そのご生涯を通して私たちに示してくださったのであります。

 私たちは、そのイエス様(御子)の姿に似たものになることが求められております。今日の聖書8章29節には、このようにあります。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿(イエス様の姿)に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子(最初の子)となられるためです。」(8:29)

 イエス様は神の子の見本です。私たち人間のお手本です。アダムとエバの堕落以後、神様に造られた人間(神の子)のあるべき姿は見失われておりました。しかし、今やイエス様が、そのあるべき姿を私たちに示してくださったのであります。勿論、だからといって、私たちがすぐにイエス様と同じようになれる訳ではありません。でも、「“霊”の初穂(最初の実)をいただいているのが私たち」であります(8:23)。

 8章23節には、このようにあります。
 「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

 アダムとエバは「食べると必ず死んでしまう」と言われていた禁断の木の実を食べて、死んでしまいました。肉体は死ななかったけれども「霊的」には死んでしまった。神の子のあるべき姿、本性・本質・霊を失ってしまったのであります。しかし、今や「“霊”の初穂(最初の実)をいただいている私たち」。 

 「“霊”の初穂(最初の実)をいただいている私たち」。これは、あのイエス様の十字架と復活によって、私たちに再び神様の「命の息」・霊が与えられた。ちょうど神様が「命の息」を吹き入れられて人が生きた者となったように、私たちは、あのイエス様の十字架と復活によって、新しい人間として新しく創造された。「最初の人アダムは命のある生き物となった」けれども、「最後のアダム(イエス様)は(私たちに)命を与える霊となった」(1コリント15:45)という、そういう意味もあるとは思いますが、
 もう一つ、イエス様ご自身が、霊の初穂として、多くの兄弟の中の長子として、最初の神の子として、本来の人間のあるべき姿を私たちに示してくださった。そのイエス様を今私たちはいただいている、持っているという、そういう意味もあると思うのであります。

 いずれにせよ、今や私たちにはイエス様が与えられております。「私を見た者は、父なる神を見たのである」と言われるイエス様。本来のあるべき人間の姿、神様の似姿を、イエス様は私たちに具体的に示してくださいました。私たちは、イエス様を見上げつつ、また、イエス様に学びつつ、これからもイエス様に従った歩みが少しでも出来るように歩んで行ければと思います。
 

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