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説教 「天地の造り主なる神(2)創造目的」 
               (創世記 1:26-31)      2014/08/03

 私たちは7月20日から使徒信条を学び始めました。前回は「我は天地の造り主なる神を信ず」ということで、私たちが造られたもの、被造物であるということ、また、それ故、私たちには、生きる意味と目的とが与えられているんだ、ということを学びました。

 今日はその続きでありまして、それでは、被造物としての人間、私たち人間の生きている意味と目的は何なのかということですが、今日はこのことについて少し考えてみたいと思います。

 ということで、先程お読みいただきました聖書の所ですが、ここには、先ず、「神様が御自分にかたどって人を創造された」ということが語られております。26節からもう一度読んでみますと、「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(そして)神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあります。

 創世記の記事というものは、神話的な要素が多分にある訳でして、書かれている事が、そのまま事実として記録されているという訳ではありません。しかしながら、たとえ、事実そのものではないとしても、私達が信仰をもってこれを読む時、記されている出来事が、真実となるのであります。

 「神様が御自分にかたどって人を創造された」。これは、事実そのものの出来事であるという保証はどこにもありません。誰もこの事を見た訳ではありませんし、聖書に記されているだけのものであります。しかしながら、信仰をもって、これを受けとめる時、単にそれが事実であるかどうかというような事を超えて、私達に真実なるものとして響いてくるのであります。

 「神様は御自分にかたどって人を創造された」。それでは、この「神様は御自分にかたどって人を創造された」という事は、私達人間にとってどのような真実を語っているのでしょうか。

 一つには、今まで何度もお話してまいりましたように、人間というものは被造物であるという事であります。そして被造物というのは、造られたものという事ですから、造られたものとしての意味や目的というものをもっている。これが第一の真実であります。まあ、これが今日の主題でもある訳でありますが、これについては、後程触れたいと思います。

 それでは、第二ですが、「神様は御自分にかたどって人を創造された」。その第二の真実は、人間に自由というものが与えられているという事ではないでしょうか。

 神様は「無から有を生み出された」創造者であります。「光あれ!」と言われると光が造られる。何もないところ・無から、「もの」を造られる、創造される。それは、神様の自由意志であります。何者にも拘束されず、自らの意志で無から有を生み出す。それは、神様の全くの自由意志であります。神様は自らの自由意志に基づいて全てのものを造られたのであります。

 そして、人間は、その神様にかたどって、似せて造られたという事ですから、人間にも自由というものが与えられていると言う事が出来るのではないでしょうか。勿論、人間の自由というものは、神様の自由のように絶対でもなければ、完全なものでもありません。人間の自由は、言わば、制限された自由とも言うべきものでしょうが、とにかく、人間には、自由というものが与えられている。これが「神様にかたどって、似せて造られた人間」の第二の真実であります。

 私たち人間は、神様の思い通りに動くロボットではありません。それは私たちの現実を見れば一目瞭然であります。私たちはロボットではなく、自由意志を与えられている存在なのであります。それが「神様にかたどって、似せて造られた」という、第二の真実であります。

 また、聖書は繰り返し「神は愛である」ということを教えておりますが、その愛なる神様が「御自分にかたどって人を創造された」というのは、私達人間は神様から愛されている、すなわち、私たち人間は愛されている存在である、そんなふうにも言えるのではないでしょうか。

 聖書をお読みいただければ一目瞭然ですが、神様は絶えず人間を愛して来られました。申命記の4章37節(p.288)には「神は、あなたの先祖たち(ご先祖様)を愛されたが故に、その後の子孫を選んだ」とありますし、また、有名な、ヨハネ福音書の3章16節にも、「神は、そのひとり子を賜った程に、この世を愛して下さった」とあります。イエス様も「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と教えられ、「私があなた方を愛した」という「神の愛」を強調されました。

 「神は愛である」。これは、聖書の中心的なテーマの一つでありますが、この愛である神様に愛されている、それが私達人間、そんなふうに言ってもいいと思います。そして、この事を、暗に語っているのが。「神は御自分にかたどって人を創造された」という言葉ではないでしょうか。

 ご自身のかたちに人を創造された神様は、別に自分のかたちに似せなくても人を創造することが出来たはずであります。例えば、ブタのかたちだとか、犬のかたちだとか、とにかく自分以外のかたちに人を創造する事も出来たはずであります。しかし神様は、そうはなさらなかった。神様はかけがえのないご自身のかたちに似せて、人間を創造されたのであります。

 私達は、ここに神様の愛を見ると共に、私達人間が神様から愛されている存在であるという事を教えられるのではないでしょうか。私達人間は、神様から愛されている。それが、「神様は御自分にかたどって人を創造された」という第三の意味であります。

 それでは、神様は、どうして人間というものを創造されたのでしょうか。聖書によれば、神様は、先ず初めに、天と地とを造り、光と闇とを分けられ、そのあと、天体や動・植物を造り、そして最後に人間を造ったと記されて居ります。人間は、被造物の中でも最もあと、最後に造られた。そして神様は、この人間に祝福を与え、全ての作業を終えられ、休まれたと聖書には記されて居ります。

 私達は、この事から「神様は、どうして人間を造ったのか」という事を少し考えてみたいと思います。本当は、このような事を考えることは、ある意味に於いて、神様を冒涜するような事にもなりかねない訳ですけれども、なぜならば、「神様は、どうして人間を造ったのか」、それは、神様の秘義ともいうべきもので、神様に属する事柄であるからであります。ですから、本当の所は私達にはよく分からない。それをあえて考えてみるという事は、神様の領域を犯すという事にもなる訳でありまして、神様に対する冒涜とも考えられます。

 しかしながら、聖書を通して語られている事を、私達が真剣になって考えてみるという事も、これは一面大切だと思いますのであえてこの問題を問いたいと思います。神様は、どうして私たち人間を創造されたのでしょうか。

先程、申しましたように、聖書には、人間は、全てのものの最後に造られたとあります。そして、それによって神様のみ業は、完成し、すべてを「よし」」とされ、神様は休まれたというのであります。という事は、逆に言えば、人間が造られなかったならば、神様のみ業は完成され得なかったと言ってもよいのではないでしようか。

 このような例がふさわしいものかどうか分かりませんが、中国の言葉に「画竜点睛」という言葉がございます。これは、絵の名人が、竜の壁画を書くことを頼まれ、今にも天に昇ろうとする二匹の竜を書き上げた訳ですが、どうした訳か睛(め・ひとみ)が入れてなかったというのでありますね。そこで、みんなが、不思議に思って「どうして睛(め)を入れないのか」と聞くと、絵の名人は、「そんな事をしたら竜は天に昇ってしまう」と答える訳です。しかし、みんながしきりに睛(め・ひとみ)を入れるようにせがむものですから、仕方なく睛(め)を入れますと、果たして、竜は、天に昇ってしまったというのでありますね。

 このような故事から、画龍点睛というのは、最後に加える、大切な仕上げ、という意味になったという事ですけれども、神様が最後に人間を造ったという事は、竜に睛(め)を入れるようなもので、それによって、被造物全体が、生きたものとなる、単に、「造られた」、単にそこにあるというようなものではなくて、被造物全体を生きた有機的なものにするためではなかったでしょうか。それが、最後に人間を造ったという意味ではないかと思うのであります。神様は、被造物全体を生きたものとする為に人間を創造されたのであります。ですから、人間が造られたということは、これは、非常に大切な画龍点睛であると言う事ができるのではないでしょうか。

 それでは、神様は、どうして人間というものを最後に、一番最後に造ったのでしょうか。神様というものが、偶然で事を行うお方でないとするならば、人間を最後に造ったのには、その理由があるはずであります。

 今日の旧約聖書のテキスト、創世記の1章28節を見てください。28節には、このように記されて居ります。「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 これらは、神様の祝福の言葉でありますが、同時に、この祝福の言葉の中には、人間に対する世界管理の命令というものが含まれて居ります。「地を従わせよ」「全て支配せよ」。この「全てを支配せよ」というのは、前の聖書では「治めよ(管理せよ)」という意味で訳しておりました。いずれにせよ、これらは、神様からの、人間に対する、世界管理の命令であります。

 神様は、最後の最後に人間を造り、被造物すべてを管理するようにと命令されておられるのであります。それでは、どうして神様は、ご自身で世界を管理せずに、人間に管理を委託されたのでしょうか。それは、先程学びました「神は御自分にかたどって人を創造された」という聖書の御言葉の中に示されていると思います。

 「神は御自分にかたどって人を創造された」。それは、私たち人間は神様から愛されている存在であり、私たちに自由というものが与えられているんだということでありました。人間は、その自由をもって、神様の御意(みこころ)に従うように創造されたのではないでしょうか。

 勿論、人間は、その自由をもって神様に従わない事も出来るわけですが、それ故、人間の堕落、失楽園というような悲劇的な出来事も起こってしまった訳ですけれども、本来、人間の自由というものは、神様との交わりの中にあって、神様の御意(みこころ)に従う、神様の命令に従う、そういう所にあるのだと思うのであります。そして、これは、神様に愛されている人間が、その神様の愛に応える・応答するという事でもあるのだと思います。

 神様が、人間にこの世・この世界の管理をまかせた、委託したという事は、神様がご自身の似姿である人間を愛し、また、人間の自由意志を信頼し、人間の愛の応答を心から期待したからではないでしょうか。神様の御意(みこころ)が人間に伝わり、人間が、神様の御意(みこころ)に従って、世界を管理していく。そこに大きな、有機的な、生きた世界が完成されるのであります。その世界を、聖書では「御国」「神の国」「天の国」などと表現しているのではないでしょうか。

 神様・人間・そしてすべての万物というものが調和を保ち、全てがとどこおりなく円滑に進められて行く世界。すべてが愛と平和に満ち、喜びに満ちた世界。しかも全てのものが神様の栄光を現し、その栄光を神様に帰して行く、そういう世界。それは、神様の御意(みこころ)が、人間にそのまま受け継がれ、更にそれが、万物のすみずみにまで行き届く時に完成するのであります。これが、「御国」であり「神の国」であり、聖書のいう理想世界、また、神様の設計図ではなかったでしょうか。

 勿論、これは、私達人間が想像する理想像、理想世界かも知れませんけれども、もし、仮に、このような理想世界が、神様の設計図であり、創造目的であったとするならば、人間が最後に造られたという意義は、非常に大きいと言わなければなりません。そして、「神様は、どうして、人間を最後に造られたのか」という問いに対しては、神様の似姿である人間を通して、神様の創造目的(神の国)を完成させる為であったと答える事が出来るのではないでしょうか。

 人間は、ただ単に被造物として造られたのではないのであります。神様の似姿として、またそれ故に、神様の御意(みこころ)に従って生きて行く、歩んで行く、その為に造られたのであります。そして、更に言えば、神様の創造目的(神の国)を完成せしめるために造られた。それが聖書の教える人間というものではないでしょうか。ですから、人間には、生きている、存在していることの意味があるのでありますし、また、人間としての責任、使命、働きというようなものもあるのであります。

 神様が私たち人間を通して、神様の創造目的を完成させようとしておられるとするのであるならば、私たちは、その為に精一杯生きなければなりませんし、また、その為に、一生懸命歩まなければならないと思います。イエス様がそのご生涯をかけて宣べ伝えた「神の国」の福音。それを宣べ伝える。また、「御国を来たらせたまえ」という祈り。私たちには、大切な使命が、目的があると言えるのではないでしょうか。

 聖書では、人間の事を しばしば神の子というふうに呼びます。それは、神様の似姿として造られた人間、また、神様の御意(みこころ)を行うべく造られた人間にふさわしい呼び方であります。しかし、現実の人間は、神の子というよりも、むしろ悪魔の子と呼んだ方がふさわしいような、そんなあり方をしている場合もあります。神様なんか知らん。神様なんかいらない、自分がいればそれでいい。人間は、自分でものを考え、自分で決断する事が出来ますから、神様なんていてもいなくても、そんなの関係ない、自分で自分の事位やっていけるというような、そういう態度を示すこともあります。要するに、神の子であることを否定するようなあり方。そういうあり方をすることもあるのであります。

 どうして、そうなってしまったのか。それは 次回考えてみたいと思いますが、ここでヨハネの手紙一3章2節の言葉をちょっと見ておきたいと思います。このテキストは、次回への橋渡しの意味もありますけれども、2節には、このように記されて居ります。

 「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」

 私達は、主イエス・キリストのあの十字架と復活によって既に「神の子」とされております。しかしながら、現実の私たちは「神の子」というよりは、むしろ、悪魔の子と呼んだ方がふさわしいような、そんなあり方をしてしまう、そういうことはないでしょうか。神様・イエス様という言葉を使いながらも、あるいは、「救われた」「救われている」ということを言いながらも、人を傷つけ、痛めつけている。そういうことはないでしょうか。「そんなことはない」とほとんどの人が言う訳ですけれども、傷ついている人、傷つけられている人、そういう人がいる限り、私たちはやはり反省してみなければならないのではないかと思います。

 しかし、この聖書の御言葉を読む時、私達は、希望がもてます。私達は「御子イエス様に似た者となる」とあるからであります。神様の創造目的(神の国)は、まだ完成しておりません。でも、その完成の日は必ず来る。御国は必ず来る。人間が神様の似姿として、神様の御意(みこころ)を行い、全てのものを神様にお帰しする、そういう時が必ずやってくる。そこに、私達の希望がありますし、また、神様の変わることのない創造目的を知らされるのであります。この事は、このシリーズの最後に語るべき事なのですけれども、聖書の歴史観は、最初があって最後があるという見方をして居りますから、ここで少し触れさせていただきました。

 いずれにせよ、私達は、神様のすばらしい創造目的の中に生かされているという事を、絶えず覚えながら、希望をもって、この一週間も歩んで行きたいものであります。神様は、私たちに命を与え、生きる意味と目的を与えて下さっています。単に自分さえよければいいというような、そんなことではなく、世のため、人のため、そして神様のために歩むという、そういう大きな目的をもって、それぞれの人生、歩んで行ければと思います。
 

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