今日の聖書の所は、イエス様が「いちじくの木を呪われた」というお話の所であります。「朝早く、都に帰る途中、イエス様は空腹を覚えられたというのであります。そして、道端にいちじくの木があるのを見て近寄って行く訳ですが、葉のほかは何もなかったので、イエス様は、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、「いちじくの木はたちまち枯れてしまった。」というお話。
ところで、このお話ですけれども、このお話だけをみますと、イエス様という人は、なんて自分勝手なことをする人なんだろうなんて思う人もいるかも知れません。自分が空腹だったので、いちじくの実を探したけれども、実がなっていなかったので、その木を呪って枯らしてしまう。
いくら神の子だからと言っても、実がないくらいで木を枯らしてしまうなんて、これは身勝手と言われても仕方ないと思うのであります。しかも、マルコ福音書を見ますと、いちじくの木に実がなっていなかったのは、これは「いちじくの季節ではなかったから」とあります。こうなりますと、ますますイエス様の身勝手さというものが浮き彫りになってくるようにも思われます。
実は、ユダヤのいちじくは、普通一年に二回採れると言われておりまして、6月頃に最初の実がなり、そのあと、8月から9月頃に、もう一度実がなるんだそうであります。そして、最初の6月にとれるいちじくは「初なりのいちじく」、また、8月から9月頃に実がなるのは「秋いちじく」、まあそんなふうにも呼ばれている訳であります。
で、イエス様がいちじくの実を探されたのは、過越祭のときですから、今の暦で言えば4月ということになります。4月ではまだ実がなっていないのは当たり前で、いくら探したって見つかるはずはない。いちじくの季節ではない、まだ実がない、そんな時にいくら実を探したって見つかるはずはないんでありますね。にもかかわらず、実がなっていないからということで、いちじくの木を呪い、枯らしてしまう。これはいくら何でも行き過ぎじゃないか。いちじくの木だって、自然の摂理に従って実をつけているのに、季節はずれの時に実をつけていないからといって枯らされてしまってはたまらない。これじゃ「いちじくの木がかわいそうだ」と言う人もいる訳でありますね。
確かに、このお話だけを読みますと、私たちにはイエス様の身勝手さというのでしょうか、わがままイエス様、腹がへっていたから食べ物を探したけれども、見つからなかったので、木を呪って、枯らしてしまう、本当に「わがままなイエス様」、そんな印象も受けると思うのであります。
しかしながら、そんなことのために、このお話があるのでしょうか。聖書のお話は、神様が私たちに何かを教えるために書かれております。その何かを正しく受け止めることが大切ではないでしょうか。ローマの信徒への手紙の12章2節には、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」という言葉あります。何が神様の御心なのか、何が善いことで、神様に喜ばれることなのか。それを私たちに教えようとしているのが「聖書」なのではないでしょうか。
だとすれば、神様が、私たちに語ろうとしていること、教えようとしていること、それを聖書から読み取ること、このことこそ大切なのではないでしょうか。テモテへの手紙二3章16節には、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益である」とあります。神様の霊の導きの下に書かれた聖書。ですから、私たちも神様の霊に導かれて、神様が教えようとしておられることを読み取って行く、そういう聖書の読み方をして行くべきではないでしょうか。
今日の聖書のお話は、イエス様の「身勝手さ」を教えるお話ではありません。ましてや、いちじくの木が呪われ枯らされてしまってかわいそうだというような、そんなお話ではないはずであります。私たちは、今日のお話を通して、神様が何を私たちに教えようとしているのか、そのことを読み取る、そんな読み方をして行ければと思います。
ということで、今日のお話に戻りますが、なぜイエス様はいちじくの木に目を留められたのでしょうか。聖書には、イエス様は「空腹を覚えられた」からとあります。イエス様も人間だったのでありますね。ですから、イエス様も腹も減れば、喉も渇く。尾籠な話ですが、便所にも行ったのではないでしょうか。イエス様が便所に行ったなんてお話、聖書には一言も書いてありませんから、神の子であるイエス様には便通はなかったなんて考える必要はないのであります。
でも、今はそれが問題ではありません。なぜイエス様はいちじくの木に目を留められたのかであります。いちじくの木には大きな立派な葉っばが付いております。マルコ福音書には「葉の茂ったいちじくの木を」イエス様が遠くから見て、とあります。立派な葉を持っているいちじくの木、さぞ立派な実もなっているのではないか、そんなふうにも思われたのではないでしょうか。
しかし、実際には実がなかった。それは「いちじくの季節ではなかったから」かも知れませんけれども、単にそういうことだけではなくて、この出来事は、見かけだけは立派そうに見えても中身がないというのでしょうか、見かけと中身が違う、そういう人たちに対するイエス様の怒り、裁き、そういうものが語られているのではないでしょうか。
聖書の中には、イエス様から偽善者呼ばわりされている人たちのお話が沢山あります。マタイ福音書では、23章の所にまとまって出て来ておりますが、イエス様は、当時の律法学者やファリサイ派の人たちを「偽善者」と呼んで、厳しく非難したのであります。
例えば、有名なお話ですが、イエス様は、うわべは立派そうに見える律法学者やファリサイ派の人たちに対して、こんなふうに言われました。マタイ福音書23章27節の言葉「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」。
律法学者やファリサイ派の人たち、彼らは「白く塗った墓」のようにうわべはきれいなのであります。立派なのであります。しかし、その中身は「死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」墓のようだというのであります。
うわべと中身がちがう。それは青々と茂ったいちじくの木に実がなかったという、今日のお話と共通するものがあるのではないでしょうか。イエス様が、実のないいちじくの木を呪われたという今日のお話は、うわべは立派そうに見えても、中身がないというか、中身が腐っている、そういう当時の宗教的指導者に対する裁きを象徴的に語っているお話とは言えないでしょうか。
見せかけだけではダメなんでありますね。うわべだけではダメ。中身がないとイエス様には認めてもらえない。ある人は、今日のお話は、イエス様は直接律法学者やファリサイ派の人たちを呪うことが出来なかったので、八つ当たり的にいちじくの木を呪って枯らしてしまったというようなことを言っておりますけれども、確かに、そういう面もあるかも知れません。
イエス様は、律法学者やファリサイ派の人たちに対して、かなり厳しいことを言われました。厳しく非難しました。しかし、そういう人たちに対しても「呪う」ということまではなさらなかった。それは、イエス様が愛の人だったからかも知れませんが、しかし、実のないいちじくの木を呪われて枯らしてしまった、という今日のお話は、私たちに大切なことを教えているお話と言ってもいいと思います。
実がなければ呪われてしまうのであります。裁かれてしまうのであります。イエス様は「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)と教えられました。『主よ、主よ』、神様、神様ということも大切であります。でも、「天の父の御心(神様の御心)を行う」ことは、もっともっと大切なんでありますね。
見かけだけの、あるいは、見せかけだけのクリスチャンではなくて、実も花もある(花も実もある)、そういうクリスチャン、神様の前に、豊かな実をつけていく、そういうクリスチャンでありたいと思います。このあと後半部に、「山を移すほどの信仰」というものが出てまいりますけれども、たとえ「山を移すほどの信仰」があっても、それだけではダメなんでありますね。
有名な第一コリントの13章の所には、「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:2)という言葉があります。形だけどんなに立派でも、たとえ「山を動かすほどの完全な信仰」があっても、それだけではダメ。無に等しい。中身がちゃんとしっかりしていないと駄目なんでありますね。豊かな愛を心にしっかりと持ち、その愛を実践していく。そして豊かな実を結んでいく、そういうことが大切なんではないでしょうか。
形も大事かも知れません。見かけも大事かも知れません。しかしながら、私たちは、見かけだけではなくて、中身もある、花も実もある、そういうクリスチャン、神様の前に、豊かな実をつけていく、そういうクリスチャンでありたいと思います。
それでは、今日のお話の後半部に行きたいと思いますが、イエス様が呪ったいちじくの木が枯れてしまったので、弟子たちは驚いて「なぜ、いちじくの木はたちまち枯れてしまったのですか」と、こう尋ねたといいます。どうしていちじくの木は枯れたのか。これは何が原因で枯れたのかということであります。そのとき、イエス様は、このように言われました。
「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。(また)信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」このように言われました。
このイエス様の言葉は、先程の弟子たちの質問に対する答えではありません。少なくとも何が原因で枯れたのかという質問に対する直接的な答えではありません。それでは、なぜイエス様は、弟子たちの質問に対して、素直に答えなかったのでしょうか。
いちじくの木が枯れてしまったのは、イエス様がいちじくの木を呪ったからなんでありますね。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」とイエス様が言われたからなんであります。しかし、問題は、単にいちじくの木が枯れたという、そういうことではありません。(弟子たちが、「なぜ、いちじくの木がたちまち枯れてしまったのか」と尋ねたのは、彼らがビックリ仰天して、驚いてこのように尋ねたんでしょうが)、イエス様は、このことを通して、更に大切なことを教えようとされたんだと思うのであります。それが、先程のイエス様の言葉ではないでしょうか。もう一度読みますと、イエス様は、このように言われました。
「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(21:21-22)
ここには、「信仰を持ち、疑わない」ということと、信じて祈るならば、ということが言われております。「信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができる」。そればかりではなく、「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」。
これは、単に、信仰を持ち、疑わなければ、奇跡も起こる、奇跡も起こせる、という、そういうことでないだろうと思います。奇跡が起これば、確かに人々はビックリするかもしれません。弟子たちだってビックリして、「なぜ、いちじくの木が枯れてしまったのか」と尋ねました。でも、ここでは奇跡のことが問題ではないようであります。イエス様は「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく」と語ったあと、「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と、こうおっしゃられました。
この「山に向かい、云々」という表現は、よくユダヤ的な比喩ということが言われます。ユダヤでは、大きな問題、難しい問題、障害、そういうものをよく「山」という表現で表しました。日本語でも、難問が、難しい問題が山積(さんせき)しているとか、仕事が山積みになっているとか言いますけれども、同じような感覚なんでしょうか、自分の前に立ちはだかるいろいろな難しい問題を、ユダヤでは「山」という表現で表した訳であります。
そうしますと、「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」という表現は、どんな障害があろうと、どんな難しい問題があろうと、「信仰を持ち、疑わないで」ガンバッテ行けば、必ずそれらを乗り越えて行くことが出来る、というような、そんな意味にもなるのではないでしょうか。
勿論、この言葉を、イエス様特有の誇大表現、大げさな表現ということで割り切ることも出来るとは思いますけれども、単なる誇大表現ということだけではなさそうであります。とにかく、ここでイエス様が教えておられることは、「信仰を持ち、疑わない」ということと、信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」という、そういうことであります。
「信仰を持ち、疑わない」、そして「信じて祈る」。これは信仰者の基本中の基本であります。イエス様は、弟子たちが「なぜいちじくの木が枯れたのか」と問うたとき、単なる原因と結果という、そういう枠組だけに捕らわれるのではなく、弟子たちにとって最も大切な信仰の基本を教えようとされたのだと思うのであります。「信仰を持ち、疑わない」、そして「信じて祈る」とき、たとえどんな大きな問題が起ころうとも、乗り越えて行ける。たとえ不可能と思えるようなことであっても、必ず先が見えてくる。そういうことを教えようとされたのではないでしょうか。
よく「お先真っ暗!」なんてことを言う人がいます。問題が山積みで、先が見えない。山のような大きな問題が立ちはだかっていて先が見えて来ない。これからどうなるか全く分からない。不安と絶望しかないというような、そんな状況に陥ることもあると思います。正に「お先真っ暗」。そんな経験をしたことはないでしょうか。あるいは、これからも「お先真っ暗」と思えるような、そんな経験をすることがあるかも知れません。
でも、クリスチャンにはお先真っ暗なんてことはないのであります。以前、新潟教会の牧師をしておられました春名康範先生、その春名先生の「人生、一歩先は光」(はるな牧師のマンガ説法)という本がありますが、人生、一歩先は闇、真っ暗闇に見えても、必ず光がある、光が見えてくるのであります。「信仰を持ち、疑わない」で「信じて祈る」とき、必ず解決の道が見えてくる。これが聖書の約束であります。
ロマ書の5章3節4節には、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という有名な言葉もあります。私たちの人生、いろいろな苦難があります。イエス様も「あなたがたには世で苦難がある」とおっしゃっています。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
苦難はつらいもの、苦しいものです。ですから、誰でも避けて通りたいと思う。でも、避けられない現実もある。「あなたがたには世で苦難がある」という現実もある。でも、苦難は苦難でおしまいではないのでありますね。絶望しかないというのではない。その先には必ず「希望」がある。光が見えて来る。これが「信仰を持ち、疑わない」で「信じて祈る」者の確信なのであります。
そもそも「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」。ヘブライ人への手紙11章1節には、このように記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。今は困難が山積みになっていてお先真っ暗のように見えても、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」とき、必ず光が見えて来る。一歩先は闇ではなく、そこには光がある。私たちは、そういう希望をもって歩んで行きたいと思います。
「信仰を持ち、疑わない」、そして「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。「お先、真っ暗」と思える人生でも、信仰を持ち、疑わないで、信じて祈るとき、必ず希望が見えて来ます。必ず光が見えてきます。神様・イエス様に助けられ、導かれて、私たちの人生、最後の最後まで、希望をもって力強く生き抜いていく。そういう歩みをしてまいりたいと思います。
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。そして、その「希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ 5:3-5)
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