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説教 「天地の造り主なる神(1)」 
               (イザヤ 45:8)      2014/07/20

 今日から暫くの間「使徒信条」を学んでみたいと思います。
 「使徒信条」、これは今日(こんにち)、全世界のほとんどの教会で用いられております。私たちの教会も、毎週礼拝の中で、この使徒信条を告白しております。

 私達の用いている聖書、これは旧・新約聖書合わせて合計66巻、これは読むだけでも大変なしろものであります。ましてや、読んで、聖書は何を私たちに語りかけているのか、何を私たちに訴えようとしているのか、それを理解するということになると、これはなかなか難しい。

 勿論、一つ一つの物語や文書、おもしろいお話、沢山あります。創世記のお話、アダム・エバのお話やノアの方舟の話、アブラハム・イサク・ヤコブのお話、また、モーセやダビデの話、新約聖書には、イエス様のお話やパウロのお話など、おもしろいお話、本当に沢山ある訳でありますすけれども、それでは聖書全体は何を語っているのか、何を私たちに語りかけようとしているのかということになりますと、これはなかなか一言では言えません。何らかのガイドラインがありませんとよく分からないということもある訳であります。

 そういうとき、使徒信条に目を向けますと、聖書の言おうとしていることが少しずつ見えてくる。聖書は、こういうことを私たちに教えているんだということが分かってくる。使徒信条は、「聖書の真理を端的に要約しているもの」とよく言われますが、このような使徒信条というものが与えられているということは、とてもありがたいことであります。

 ということで、今日から「使徒信条」を学んで行きたいと思いますが、今日は最初ですから、使徒信条の最初にある「我は天地の造り主、全能の神を信ず」という所、特に「我は天地の造り主なる神を信ず」ということを取り上げたいと思います。

 「天地の造り主なる神」。これは天地を造られたのは神様、神様は天地の創造者・創造主ということですが、今日は少し丁寧にこのことについて学んでみたいと思います。

 しかしその前に、「我は天地の造り主なる神を信ず」というのは、「私は・・・を信じる」という信仰告白であるという事を、私たちは先ず最初にしっかりとおさえておきたいと思います。これについては後程また取り上げますけれども、とにかく「天地の造り主なる神」というのは、「私は、信じる」という私の信仰告白なんだということであります。これは一つ覚えておいて欲しいと思います。

 さて、聖書を読みますと、聖書の最初、創世記の1章1節の「初めに、神は天地を創造された」から始まって、天地の造り主なる神について、繰り返し繰り返し語られております。先程お読みいただきましたイザヤ書45章18節にも、このようにあります。

 「神である方、天を創造し、地を形づくり 造り上げて、固く据えられた方 混沌として創造されたのではなく 人の住む所として形づくられた方 主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。」

 聖書は、神様は天と地とを造りたもうた「天地の造り主である」と言うのであります。それを使徒信条では「我は天地の造り主なる神を信ず」という言葉で告白している訳であります。

 それでは、このようにして告白されている天とか地というものは、一体何を意味しているのでしょうか。古代世界におきましては、その世界観、宇宙像というのは、地球、特に人間が住んでいる大地というものが中心になって考えられて居りました。すなわち、大地というものを世界の、宇宙の中心に据え、その下には地下の国(黄泉の国)があり、その上には地上を越えた国、すなわち天があると考えたのであります。そして、その天については、第1の天、第2の天、第3の天というように幾層にも天があって、それらの天の最高の天に神様がおられるというような、そういう考え方をしておりました。

 現代の私たちから見れば、極めて幼稚な世界観であり、宇宙像でありますけれども、昔の人たちはそういう見方をしていた訳であります。そして、そういう昔の世界観、宇宙像の中に生きていた人たちが、天と地という場合、それは「天と地」という言葉で、全世界、全宇宙を表現しようとしたのだと思うのでありますね。

 ですから、聖書で「天地を造られた神」というのは、それは全世界、全宇宙、森羅万象は、神様によって造られたものなんだという事を表している。このように言うことが出来るのではないでしょうか。

 ところで、現代のように科学が進み、私たちの知識が増大するに至っては、先程の古代の世界観、宇宙象というものは過去の産物となってしまいました。ですから、「天地の造り主なる神」という場合でも、それは単に天というものが天体、宇宙を示し、地というものが、地上、地球を示す。だから、天地という事で全世界、全宇宙を示すんだという事だけでは、どうも少し物足りない、割り切れない、そういう感じもする訳であります。

 まあ、現代では、地球も一つの星に過ぎない、全宇宙から見れば、地球もちっぽけな星の一つ、そういう見方が一般的ですから、天地の地という事で、わざわざ地球というものを引っぱり出して来なくてもいい。天が天体、宇宙を示すとするならば、地球もその中に含まれるんじゃないか、そういうふうにも考えることが出来る訳であります。そうしますと、天と地というようなものでも、もう一度再解釈されなければなりません。そこで、例えば、このような解釈も出てきます。

 天というのは、霊的な世界とでも言うのでしょうか、目に見えない世界、聖書には、御使いとか、天使というような存在がよく出てまいりますが、とにかく、目に見えない世界、それを天というふうに考える訳であります。そうしますと、地というのは、目に見える世界、宇宙であろうと、地球であろうと、とにかく、私たちの目に見える世界、言い換えれば、私たちの生きている三次元の世界と言ってもいいかも知れません。そういう「目に見える世界」を「地」という言葉で示している。このように解釈することも出来ます。

 そうしますと、天地の造り主としての神様というものは、単に目に見える全宇宙というものだけではなくて、目に見えない世界をも含む、全てのものの造り主という事になります。たとえ、現在の私たちが認識出来ないものであっても、例えば、霊的な世界とか、天使の世界というようなものは、現在の私たちにはよく分からない訳ですけれども、とにかく、神様というものは、全てのもの、目に見えるもの、目に見えないもの、全てのものの創造者である。これは前に申しました「全世界、全宇宙の創造者としての神様」というものを、もう少し拡大して解釈したものでありますが、とにかく、このような解釈もある訳であります。

 そう言えば、コロサイの信徒への手紙1章16節には「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです」というような言葉もあります。

 「見えるものも見えないものも」。こういう言い方もしている。「天地」、それは見える世界だけでなく、目に見えない世界をも含む世界、そういう意味もあるのであります。

 ところで、私たちは今まで「天地の造り主なる神様」というものの、まあ意味とでもいうのでしょうか、神様が天地を造ったというのは、具体的にどういうことなのかという事を、解釈論的な視点から少し見て参りました。このような視点というものは確かに大切なものでありますし、必要なことでありますけれども、もう一つ大切な事があります。

 それは前にちょっと触れておいた事ですけれども、使徒信条で告白されている「天地の造り主なる神様」というのは、「我は、天地の造り主なる神様を信ず」という信仰告白であるということであります。単に、神様が天地の造り主であるという、いわば客観的な事柄ではなくて、それはあくまでも「我は信ず」という、私の信仰告白、私の主体的な受けとめ方であるという事であります。

 ですから、本当はそのような視点から、この問題を考えることの方がより大切な事であると言えるかも知れません。そういう意味で、私たちはもう一度、この信仰告白的な視点から「天地の造り主なる神様」というものを考えてみたいと思います。

 ところで、今私たちは「信仰告白」という言葉を用いましたけれども、これは必ずしも客観的な出来事、客観的な事実を前提とはいたしません。

 「私は信じる」という事は、もっと簡単にやさしく言えば、「私はそう思う」という事でありまして、そこには、私たちの主体的な決断、判断というものがある訳であります。ですから、「天地の造り主なる神、創造者なる神」という場合でも、それを信じない人もいる訳ですし、信じられないという人もいる訳であります。

 確かに、私たちは、神様が天地を造ったのを誰も見ておりませんし、どのようにして天地が出来たのかもよく分かりません。最近は、科学も進歩いたしまして、宇宙がどのようにして出来たのか(例えば、ビッグバーンによって宇宙が出来た)というような事も大分理論的には解明されてきております。しかし、理論はあくまでも理論でありまして、それが本当に正しいものかどうか、その保証はどこにもないのであります。ですから、様々な学説と言われるものが沢山出てくる訳であります。

 とにかく、現在の所、天地創造の客観的な出来事について詳しいことはほとんど分かりません。ただ私たちに分かっているのは、宇宙というものがあり、地球というものがあり、そして、地球上で今私たちが現に生きているという事であります。私たちが、今、現に生きている。これだけは誰も否定できない事実であります。

 ですから、私たちは、今、現に生きている私たちというこの事実から出発し、そこから「我は、天地の造り主なる神、創造者なる神様を信じる」という信仰告白を学んで行きたいと思います。

 それでは、「天地の造り主なる神を信じる」「創造者なる神様を信じる」という事は、一体どういう事なのでしょうか。

 それは、先ず第一に、私たちが造られたもの、すなわち、被造物であるという事を認めることであります。たまたま自分はこの世に生まれてきた。何がなんだかよく分からないけれども、とにかく、私は今ここにいるという、そういう事ではなくて、自分は造られたものなんだ、被造物なんだという、そういう事を受け入れる事だと思うのであります。

 そして、第二には、そこから、私たちには、私たちが生きていることの意味や目的が与えられているということであります。造られたものは、それなりの意味と目的をもって存在しております。例えば、皆様が座っている椅子とか、ここにある講壇とか、それらはみな人間が造ったものでありますけれども、それぞれ意味を持っております。目的をもっております。

 椅子は私たちが座るために造られたものでありますし、講壇は説教者が説教するために造られたものであります。勿論、それ以外に使ってはいけないということではなくて、基本的にはそれぞれその存在する意味と目的を持っているということであります。私たち人間が造るものは、皆なんらかの意味や目的を持って存在している。

 しかし、人間だとか、自然だとか、宇宙とかという事になりますと、それらは人間が造ったものではありませんから、必ずしも意味と目的とを持っているとは言い切れない、そのように主張する人たちもいる訳であります。少し難しい哲学的な言葉を用いるならば、「本質というものがない」というのでしょうか、まあ、そんなふうに言う人たちもいる訳であります。

 例えば、無神論的な実存主義というものにおいては、人間はこの世に、たまたま生み落とされたものであり、この世に投げ込まれたものであって、先ずそれを認め、そこから人間の本質を規定して行かなければならない、すなわち、投げ込まれた情況の中で、自覚的に「あれかこれか」の選択をする事によって、自らを絶えず作り続けなければならないというような事を言う訳であります。

 しかし、このようにして人間が自分のあり方を自分で規定しようとするとき、どこに人間の本質が見出されるというのでしょうか。どのようにして人間の生きている意味と目的とが発見され得ると言うのでしょうか。どこまで行っても規定なしの人間、すなわち、意味も目的もない、ただ生きているだけの人間という、そういうあり方しか残らないのではないでしょうか。ですから、神様を認めない無神論的な実存主義者の終焉、終わり、行き着くところは「絶望である」と、こう言われるのであります。

 しかし、人間が自らの手で造ったもの以外のもの、すなわち、人間や自然や宇宙、そういう全ての森羅万象にも、それなりの意味と目的とを認める時、言い換えれば、全てのものが被造物であるという事を認めるとき、私たちの未来には「希望がある」と思うのであります。なぜならば、意味や目的があるという事は、それを目指す、目指していくという、一つの大きな使命があるからであります。

 私たちはこの世に命を与えられ、生きております。しかし、何のために生きているのか、その意味も目的も分からないのでは、私たちの人生はむなしいものになってしまいます。

 よく自殺する人が「自分は何のために生きているのか分からなくなってしまったから自殺する」というような意味の「遺言」を書き残す事がありますけれども、意味も目的もない人生だとするならば、生きていたって仕方ない、死んだ方がましだというような事にもなるのであります。意味も目的もなく生きる事は、無意味であり、生き甲斐も何もないということになるからであります。

 創造者なる神様を信じるというのは、単に、神様が天地を造った、創造したという事を信じる・告白するということだけではありません。この信仰告白は全てのものが造られたもの、被造物なんだ、それ故、全てのものには意味と目的があるのだという事を語っているのであります。私たち人間のことについて言えば、人間が人間として生きる、その根拠を語っていると言ってもよいかも知れません。

 私たちは単にこの世に生まれ落ちたのではありません。意味もなく、ただ動物的な本能に基づき、食べるためだけに生存しているのではありません。聖書には「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」と記されております(マタイ4:4)。

 もし私たちが単に動物と同じように本能だけに従って生きるのであれば、人間社会は一瞬にして暗黒と化してしまうでありましょう。なぜならば、ある意味において、人間は動物以上に残酷な所があるからであります。動物の世界ですと、同じ種族同士ではめったに殺し合うというような事はないと言われています。しかし、人間はちょっとしたもめ事でも、気にくわないと相手を殺してしまう。特に、感情的な人間には、そういう所があります。戦争も然りです。

 ですから、人間というものが、もし動物的本能だけで生きるものであるとすれば、これは非常に恐ろしいということになります。しかし、幸いなことに、私たちには「理性」というものが与えられておりますし、意識するにせよしないにせよ、とにかく、私たち人間は、動物とは違うんだ、人間なんだ、それ故、はっきりした意識は持っていなくても、人間として生きるんだという、そういう気持ちだけは持っております。

 そして、この人間が人間として生きる、その根拠、それをはっきりした形で明確に言い表しているのが、創造者なる神を信じる、天地の造り主なる神を信じるという、この信仰告白なのではないでしょうか。

 私たちは、確かに、神様を信じなくても、私たちが造られたもの、被造物であるという事を信じなくても、生きていく事は出来ます。多くの人たちは、そうして生きております。しかし、自分が何のために生きているのか、その意味も目的も分からなければ、私たちは不安でありますし、また、具体的にどのような生き方をして行ったらよいのかということも分かりません。そして、最後には、あきらめの境地というようなものに到達するのかも知れませんけれども、そこからは人生の充実感とか満足感というようなものは与えられません。

 私たちは自分に与えられている人生を本当に有意義に生き抜くために、先ず「天地の造り主なる神を信じる」「創造者なる神を信ずる」という信仰から出発したいものであります。勿論、この創造者なる神様を信じるという信仰は、繰り返しますけれども、私たちが造られたもの、被造物であり、それ故、意味と目的を持っているんだという事であります。

 今日は、時間がありませんので、私たち人間が造られた意味や目的、また、人間の価値というようなものには触れることが出来ませんでしたけれども、これらについては次回またお話したいと思いますが、とにかく、私たち人間が、人間として人間らしく生きる根拠を、この「天地の造り主なる神を信じる」という短い信仰告白の中に見出しながら、神様に造られた人間として、神様に造られた人間らしい歩みをしていければと思います。

 「神である方、天を創造し、地を形づくり 造り上げて、固く据えられた方
 混沌として創造されたのではなく 人の住む所として形づくられた方
 主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。」

 天地を造られた神様。しかも「混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形づくられた神様」。「わたしのほかに神はいない」と言われる神様。その神様に守られ導かれて、この一週間も力強く歩んで行きたいと思います。
 

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