今日の聖書の所には、先ず「上から来られる方」ということが述べられております。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる」。
それに対して、「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」とあります。この「地から出る者」というのは、聖書の文脈から言えば「洗礼者ヨハネ」ということになるのでしょうが、一般的には、これは「この世の人・私たち人間」と言ってもいいのではないでしょうか。
「地から出る者」、この世の人、私たち人間は、この地、この世に属しており、この世のことを語るのであります。洗礼者ヨハネも、例外ではありませんで、地から出、地に属し、そして、地に属する者として語りました。勿論、ヨハネは、神様のことも語りました。でも、彼の語ったことは、神様の裁きということで、悔い改めなければ神様に滅ぼされてしまうということでありました。
彼は「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(マタイ3:7)「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ3:10)と言って、人間の罪を指摘し、神様の裁きを語りました。
洗礼者ヨハネは、「神の怒り」ということで、神様のことも語りましたけれども、でも、やはりこの世のこと、人間の現実を語ったと言ってもいいと思います。
しかし、「上から来られる方」は違うのでありますね。この方は、「見たこと、聞いたことを」語るのであります。
「見たこと、聞いたこと」。それは、この世で見たこ とや、この世で聞いたことではありません。天で、神様の所で見たこと、聞いたこと、言い換えれば、神様の世界のことを語るのであります。
神様はこういうお方、そして、神の国というのはこういう世界だという、そういうことを語る。要するに、この世のことではないことを語る。ですから、私たちにはなかなかそれが理解できない、理解できないから信じられないということにもなって来る訳であります。
32節の所には、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」とあります。
「受け入れない」のは、その証しを受け入れたくないということもあるとは思いますが、もっと簡単に言えば、その証しが分からない、理解できないということもあるのではないでしょうか。分からないから、理解できないから、受け入れない、受け入れることが出来ない、そういうこともあるのだと思うのでありますね。
いずれにせよ、神様のこと、神の国のこと、神様の世界のことを理解するというのは、これはそう簡単なことではない。しかし、だからと言って誰にも分からないのかというと、必ずしもそうではない訳であります。
先程の続きの所には、このようにあります。33節「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」。
「その証しを受け入れる者」もいるのであります。私たちの常識、私たち人間の理解を超える、そういう証しを受け入れる、そういう人たちもいる。どうしてなのでしょうか。どうして受け入れることが出来るのでしょうか。
「受け入れる」というのは、単に理解するということではないからであります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)という有名な言葉がありますけれども、受け入れるというのは、素直に信じることであります。確信することなのであります。
私たちの頭で理解できないから、私たちの常識に合わないから信じない、受け入れないというのではなくて、 私がそれを望んでいることだから、それがすばらしいことだから、素直にそれを信じ、受け入れる。そこに神の真実もまた見えてくるのだと思います。
受け入れる。それは理解の問題、頭の問題ではなくて、信じる、受け入れるという、そういう心の問題と言ってもいいと思います。
イエス様は「私の父の家には住まいが沢山ある」(ヨハネ14:2)と教えられました。「私の父の家」、天国でありますね。天国には住む所が沢山ある。そして、時至ったとき、私たちをその天国に迎えてくださる。
ありがたいこと、すばらしいことではないでしょうか。でも、これは信仰の問題であります。このことを信じ受け入れるとき、私たちはその恵みにあずかることが出来るのであります。
神様のこと、神の国のこと、神様の世界のこと、その証しを受け入れない人もいれば、素直に受け入れる人もおります。それがこの世の現実でありますけれども、でも、私たちは、素直な気持ち聖書の教える恵みを受け入れる、そういうあり方が出来ればと思います。
ところで、今日の聖書の所では、このお方、「上から来られる方」というのは、「天から来られる方」「神がお遣わしになった方」「御子」というふうに言い換えられて表現されております。
「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」とあって、そのあとすぐ「天から来られる方は、すべてのものの上におられる」とあります。それから34節には「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される」とあり、そして、35節には「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」と、こうある。
「上から来られる方」、すなわち「天から来られる方」は、「神様がお遣わしになったお方」であり、御子・イエス・キリストであるというのが、この福音書の語り方であります。
ヨハネ福音書には、同じことを違う言葉で言い換える、そういう表現方法がよくあります。例えば、ヨハネ福音書の最初の所には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」ということで、神様のことを最初「言」と言い、そのあとで、「言は神であった」いうことで、結局、言は神様という、そういう表現方法をよく使う。
「光」もそう、「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(1:9)と語り、その光は、神の独り子であるイエス・キリストであるという、そういう言い回し。今日の所も全く同じであります。
「上から」、すなわち「天から来られた方」は、「神様がお遣わしになったお方」であり、結局、それは御子・イエス・キリストだという訳であります。
御子・イエス・キリスト、イエス様。イエス様は、この世に存在された歴史上の人物であります。いわば、この世の人であり、地に属する者でありました。しかし、イエス様はそれだけではないのでありますね。
イエス様は、上から、天から来られた方であり、神様から遣わされてこの世に来られた神の御子、神の独り子なのであります。そのことを証ししているのが聖書であります。
今まで多くの人が現れ、そして去って行きました。多くの指導者も現れました。支配者、知識人、科学者、哲学者、宗教家。イエス様も、キリスト教の教祖であり、偉大な宗教家と考えられる場合があります。
しかし、イエス様は単にこのような歴史上に現れた指導者の一人ではありません。多くの人たちがこの世に現れ、そして死んで行きました。どんなに偉い人でも、結局、過去の人になっていくのであります。でも、イエス様は違います。イエス様は今も生き続けておられるお方なのであります。
イエス様は、これまで地上に現れた如何なる人よりもユニークでありました。その誕生から、そうであります。イエス様は、処女マリアから生まれました。母マリアは、聖霊によって身ごもり、イエス様を産みました。イエス様は、産まれた時からユニークだったのであります。そう言えば、産まれた場所も「馬小屋」ということで、これもユニークと言ってもいいかも知れません。
また、イエス様の生涯もユニークでありました。イエス様は様々な奇跡を行いました。病人をいやし、悪霊を追い出し、そして、自然さえ意のままにされました。荒れ狂う嵐に向かって、「静まれ、黙れ」と言うと、その通りになったのであります。
また、その語るメッセージもユニークでありました。敵は憎むべきものなのに、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)とか、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)なんて、非常識とも思えるような、そういう教えを語られました。
そして、ご自分を救い主として受け入れるすべての人に、愛と赦しと新しい命とを与えられたのであります。そして、イエス様の福音は、新しい命、新しい希望、そして、新しい生きる目的をもたらすものになって行ったのであります。
それから、イエス様の十字架での死もまたユニークでありました。2000年前、神様は全ての人の罪を贖うために、その独り子イエス様をこの世に遣わされました。イエス様は、その神様の目的を達成するために死んだのであります。
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいない。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れない」。しかし、イエス様は「私たちがまだ罪人であったとき、私たちのために死んでくださった」のであります(ローマ5:7-8)。
イエス様の十字架の死、これほどユニークなものはないと言ってもいいかも知れません。
それからもう一つ。イエス様の復活もユニークでありました。十字架につけられてから三日目、歴史上最も驚くべき出来事が起こりました。イエス様は死人の中からよみがえられたのであります。普通の人間であれば、死んだらそれでお仕舞いであります。でも、イエス様にあっては、「死は勝利に飲み込まれてしまった」(1コリント15:54)のであります。
確かに、イエス様は、この世に存在された歴史上の人物、この世の人、地に属する者でもありました。しかしながら、決してそれだけではなかったのであります。
聖書は、その誕生、生涯、死、そして復活、そのすべてを通して、イエス様が人間以上のお方であるということを語っている。今日の所では、「上から来られた方」「天から来られた方」「神がお遣わしになった方」神の独り子「御子」であると、こう語っているのであります。
そして、この御子・イエス・キリストを信じる者は、永遠の命を得ることが出来るけれども、信じない者、御子に従わない者は、永遠の命にあずかることが出来ないというのが、これが今日の聖書箇所の結論であります。
「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」。
イエス様は、全ての人を救うために、天から来られました。神様から遣わされて、この世に来られたのであります。そして、神様のことを語り、神の国のことを語りました。イエス様は、神様の世界のことをみんなに証しされたのであります。そして、救いを達成するために、自らの命をささげられました。
しかし、それでお仕舞いではありません。イエス様は、三日目に死人の中から復活され、そして天に帰って行かれました。天からこられた方は、また天に帰って行かれたのであります。そして、今もそこで生き続けておられ、私たちを導いておられる。
イエス様は神の独り子であり、全ての人々の救い主であります。イエス様は、今も生き続けておられます。そして、私たちと共に歩み、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えたいと望んでおられます。
私たち、心を開き、イエス様を見上げ、救いの恵みを感謝して受けとめ、永遠の命を与えられ、新しい生き方へと歩み出して行きたいものであります。
聖書は、イエス様を証しする書物であります(ヨハネ5:39)。イエス様を私の救い主と信じ、素直に信じ、受け入れるものでありたいと思います。
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