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説教 「自分の務めを知る」 
               (ヨハネ 3:22-30)      2014/06/29

 今日の所は、洗礼者ヨハネとイエス様のことが記されている所ですが、先ず最初に、このようにあります。「その後(のち)、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。」

 この文章を読む限り、イエス様も「洗礼を授けた」ということになるようですが、少しあとの4章の2節の所を見ますと、「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」とありますので、話がややこしくなります。そもそも、イエス様たちが洗礼を授けたというようなお話、これはほかの福音書にはありませんので、本当はどうだったのか、よく分かりません。

 もう何度もお話しておりますように、ヨハネ福音書は、ほかの福音書とはかなり違う訳でありまして、例えば、今日のお話も、24節のところを見ますと、「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである」とありますが、マタイやマルコの福音書を見ますと、イエス様は、ヨハネが投獄されたあと、ガリラヤ地方に行って宣教活動をされたとあります。

 マルコ福音書の1章14節以下には、このようにあります。「ヨハネが捕らえられた後(のち)、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」。

 イエス様の宣教活動は、洗礼者ヨハネが投獄されてからというのが通説であります。でも、ヨハネ福音書では、ヨハネの投獄前、もう既にイエス様は宣教活動をされていたというような書き方がしてある。

 前に学びました「イエス様とニコデモのお話」でも、イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とか「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」などと言っておりまして、既に、神の国の福音を語っている。

 ですから、おかしい所もいろいろある訳ですが、問題は、やはり聖書が何を語っているかということなんだろうと思うのでありますね。

 イエス様のことが語られている福音書は、必ずしもイエス様の伝記を語っている訳ではありません。神の国の福音を語っている訳であります。イエス様がこの世に来られたことによって、神の国がやって来た。そのイエス様を信じるならば、私たちも神の国に入ることができる。そういう福音(よろこばしい知らせ)を語るのが、教えるのが聖書なのでありますね。

 ですから、今日の所も、細かいことを言えば、「おかしい」と思えるようなことがいろいろとある訳ですが、そのあたりのことについてはあまりこだわらずに、語られている内容、また、聖書が教えようとしていることを、皆さんとご一緒に学んで行ければと思います。

 ということで、先程申しました「イエス様が洗礼を授けていた」ということですけれども、これはイエス様が直接授けていた洗礼なのか、それともイエス様の弟子たちが授けていた洗礼なのかということは、ひとまずおいといて、とにかく、イエス様たちのグループが洗礼を授けていたというのが、今日のお話の発端であります。

 「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた」。

 しかし一方、洗礼者ヨハネも相変わらず、洗礼を授けていた訳でありますね。「他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、(ヨハネから)洗礼を受けていた。」 

 とにかく、二つのグループ、イエス様のグループとヨハネのグループ、二つのグループがあって、それぞれ洗礼を授けていたというお話であります。

 ところが、ここで問題が起きます。「ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった」というのであります。「清めのことで論争が起こった」。

 「清め」というのは「洗礼」(バプテスマ)のことであります。洗礼(バプテスマ)というのは、「浸(ひた)す」という意味の言葉から来た言葉で、「水に身を浸し、身を清める」という意味がありましたから、「清めのことで論争が起こった」というのは、言い換えれば、洗礼(バプテスマ)のことで問題が起こったと言い換えてもいいと思います。

 それでは、具体的にどのような問題が起こったのでしょうか。洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼(バプテスマ)(ルカ3:3)というものを行っておりました。来るべきメシア王国に入るため、また、来るべき神様の審判から逃れるために、自分の罪を告白させ、悔い改めのしるしとしての洗礼(バプテスマ)を洗礼者ヨハネは授(さず)けていた訳であります。

 それでは、イエス様たちはどのような洗礼(バプテスマ)を授けていたのでしょうか。聖書には、具体的なことは何も記されておりませんのでよく分かりません。でも、洗礼者ヨハネは「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3:16)なんて言っておりますから、ヨハネの洗礼(バプテスマ)とは少し違っていたと言ってもいいと思います。

 まあ、「聖霊と火による洗礼(バプテスマ)」というのは、これはペンテコステ(聖霊降臨)以後に起こる出来事ですから、当時、イエス様たちが行っていた洗礼(バプテスマ)とはちょっと違うのかも知れませんが、いずれにせよ、問題は、洗礼(バプテスマ)の中身の問題ということよりも、むしろここではイエス様たちの方へ多くの人たちが集まって来たという、そういうことのようであります。26節には、このようにあるからであります。

 「彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人(これはイエス様のことでありますけれども、イエス様)が、洗礼を授けています。(そして)みんながあの人(イエス様)の方へ行っています」。

 清めの問題、洗礼(バプテスマ)の問題というのは、結局、中身の問題というよりも、人気の問題だったのでありますね。洗礼者ヨハネの方には、段々人が来なくなり、イエス様の方にはどんどん人が集まって来た。そういう問題。

 しかし、聖書が問題にしているのは、単に洗礼者ヨハネの人気が落ち始め、イエス様の方に人が集まって行ったという、そういうことだけではありません。今日の所で本当に大切なのは、27節以下にありますヨハネの言葉ではないでしょうか。27節以下、洗礼者ヨハネは、こんなふうに言っております。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 ここには、必ずしも「栄枯盛衰」ということが語られている訳ではありません。確かに、一時(いっとき)は多くの人たちがヨハネのもとに集まって来ました。マタイ福音書の3章5節以下には、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。イエス様だってヨハネのところに来て洗礼を受けられた訳であります。

 しかし、今やヨハネのところへ来る人よりも、イエス様のところへ行く人の方が増えて来た。一時栄えたヨハネの洗礼運動も、今や衰えを見せ始めている訳であります。まさに「栄枯盛衰」、そんなふうにも見えます。ヨハネも「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言っている。

 しかしながら、ここで語られている内容は、単なる「現象」のことではないのでありますね。むしろ、ヨハネが「自分の務めというのでしょうか、自分の役目、役割、あるいは、使命というものをしっかりと自覚していた」ということなんだと思うのであります。

 ヨハネが洗礼活動を開始し、多くの人たちがヨハネの所にやって来たとき、彼は、ファリサイ派の人たちから、「あなたは何者なのか」としつこく聞かれました。そのときヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と答えました(ヨハネ1:23)。また、彼は、『自分はメシアではない』(1:20)と言い、『自分は来るべき方の前に遣わされた者』であり、「その人の履物のひもを解く資格もない」(1:27)と、こう言った訳であります。

 ヨハネは、自分の立場、自分の務めというものをよく理解していた、分かっていたのであります。今日のところにも、そのことが記されております。「わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」。

 確かに、そうなんであります。ヨハネは、イエス様のことを証ししたのであります。ヨハネの弟子たちもその証しをヨハネから聞いていたのであります。

 しかしながら、人間というものは、分かっていてもなかなか素直になれない。あるいは、分かっていても、なかなかそれを認めたくないというような、そういうところもあるのではないでしょうか。

 ですから、マタイ福音書やルカ福音書では、洗礼者ヨハネは、獄中から(牢獄の中から)弟子たちを遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」なんて、イエス様に聞いている、そういうお話もあるのだと思うのでありますね(マタイ11:3)。

 でも、今日のところではヨハネは違います。彼は、自分の立場、役割、務めをはっきりと認識しているのであります。それが「花婿の介添え人」、前の聖書では「花婿の友人」となっておりましたけれども、このような言葉で表されていると言ってもいいと思います。

 29節、彼はこのように言います。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人(友人)はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」。

 花嫁を迎えるのは花婿、当たり前であります。ここでイエス様は「花婿」にたとえられております。しかし、ヨハネは、「花婿の介添え人(友人)」。「介添え人」なのですから、花婿のサポートをするのが、その務め、役目なのでありますね。主役は、あくまでも花婿と花嫁。ヨハネは、「介添え人(友人)」に徹する訳であります。

 そして、「花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」「わたしは喜びで満たされている」と、こう語る訳であります。しかも、その務めが終われば、花婿の介添え人(友人)は静かに消えて行く。去って行く。それが「花婿の介添え人」の務め・役割なのであります。

 そして最後に、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」とありまして、少し感傷的というか、哀惜感を漂わせている言葉もありますけれども、でも、繰り返しますけれども、これがヨハネの立場、ヨハネのあり方なのでありますね。彼は、自分の務め・役割、そして使命というものをよく知っていたのであります。

 自分の立場を知る、あるいは、自分の務めを知るというのは、結構分かっているようで、分かっていない。あるいは、分かっていても認めたくないというような、そういうこともあるようであります。でも、これはとても大切なことではないでしょうか。

 よく「引き際が肝心」なんて言われますけれども、自分の立場をわきまえ、役割が終わったら去って行く、そういうこともまた必要であり、大切なのではないでしょうか。そして、引き際には「わたしは喜びで満たされている」という、そういうあり方が出来れば、これは最高だと思います。

 洗礼者ヨハネが、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と語ったという、この言葉。これはただ単に「後進(後輩)に道を譲る」という、そういうことだけではなく、自分の務めを知るという意味合いでも、私たちに大切なことを教えている言葉のように思います。

 いずれにせよ、私たちは、自分の務め、役割、あるいは、使命というものをしっかりとわきまえ、時が来たら、去って行く。そういうことも必要だということを肝に銘じておきたいと思います。

 そして、ヨハネがいみじくも言っているように、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」のでありますから、私たち、神様に祈り求めながら歩みを進めて行きたいと思います。祈り求めるとき、神様は必要なものを必ず与えてくださいます。「求めよ、さらば与えられん」。これが聖書の約束であります。

 私たち、神様から豊かな恵みを与えられ、必要なものを与えられて、これからも「その時が来るまで」、しっかりとそれぞれの歩みを、務めを、果たしてまいりたいと思います。
 

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