先程お読みいただきました所には、先ず「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。これは有名な言葉でありまして、昔の人は、ヨハネさん(3)の16ということで暗唱いたしました。
神様は、その独り子・イエス様をこの世にお遣わしになったほどに、この世を愛された。それは、ただ「イエス様がこの世にお生まれになられた、この世にやって来られた」ということだけではなくて、イエス様が、私たちの身代わりとして十字架につけられ、そして、私たちの罪を贖ってくれたという、いわゆる、十字架による救いの出来事をも含んでいる言葉として理解していいと思います。
神の独り子であるイエス様が、この世に来られた。この世に与えられた。それは本当にすばらしいことであります。でも、ただそれだけであるならば、神の子がこの世に来て、こんなことをなさった、奇跡を行い、神様のことを語り、すばらしい教えを宣べ伝えたという、ただそういうことだけであるならば、結局、何も変わらないということになるのではないでしょうか。
イエス様は死んでそれでお仕舞い。たとえその教えが後世にまで宣べ伝えられたとしても、ただそれだけ。私たちは何も変わらないということになってしまうのではないかと思うのであります。
でも、聖書が教えているのは、そういうことではありません。イエス様が私たちの救い主・キリストであるということ。しかも、そのためにイエス様が十字架につけられたということなのでありますね。
ペトロの手紙の一2章24節には、このようにあります。「(イエス様は)、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方はいやされました(救われました)」。
イエス様は、あの十字架によって私たちの罪を取り除いてくださったのであります。私たちを罪から解放してくださったのであります。ですから、キリスト教ではイエス様の十字架ということを繰り返し繰り返し語るのでありますね。
イエス様の十字架がなければ、私たちは何も変わらない。イエス様のすばらしい教えというだけでは、人間何も変わらないのであります。
いくら「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と教えたとしても、教えだけでは何も変わらない。実際に、自らの命を捨ててまで、私たちを愛してくださった、そういう人がいなければならないのでありますね。そして、それがイエス様だと聖書は語るのであります。
しかも、イエス様の十字架。それは、当時イエス様を信じられなかった人たちが、イエス様を十字架につけて殺してしまったという、ただそういうことだけではないのであります。
使徒言行録の2章23節にありますように、このイエス様の十字架は「神様のご計画」によるものでありました。使徒言行録の2章23節には、このようにあります。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなた方に引き渡されたのです。(そして)あなた方は律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。
イエス様の十字架は、神様のお定めになった計画によるものでした。人間の罪を取り除くためには、神の独り子の犠牲が必要だったのであります。
神様が造られたこの世界。しかし、アダムとエバの堕落によって、この世に悪が入り込んでしまった。聖書は、人間の現実を、このように教えます。
でも、この世を造られた神様は正しいお方ですから、この現実をそのままにしておく訳にはまいりません。悪いことをする人間をそのままにしておく訳には行かない。ですから、昔、このような悪いことばかりしている人間を神様は一掃して、新しい世界を取り戻そうとしました。
それが「ノアの洪水」の出来事であります。神様は、40日40夜雨を降らし続け、大洪水を引き起こしました。それによって、悪いことをする人間を滅ぼそうとされた訳であります。
でも、それでも人間は、罪から離れることが出来ませんでした。神様は、人間を滅ぼすことによって罪を取り除くという方法から、今度はおもいきって一人のお方にすべての罪を負わせ、その一人のお方を裁くことによって、すべての人を救おうとされました。それがイエス様の十字架であります。
イエス様の十字架。それは神様のお定めになった計画であり、その十字架のご計画を実行するために、神様はイエス様をこの世に遣わされたのであります。
ですから、今日のヨハネさん(3)の16で語られている内容、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という、この言葉の中身には、当然「イエス様の十字架」ということも含まれている。ただ単にイエス様がこの世に来られた、この世に遣わされたというだけではないのでありますね。
神様はこの世を愛されたのであります。本来ならば、滅ぼされて当然のこの世、滅びの対象であるこの世であります。でも、神様は、全ての人を救うために、イエス様をこの世に遣わされた。しかも、そこには「神の独り子を十字架につける」という、そういう秘められた神様のご計画がありました。
神様の愛。それはイエス様が「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と教えられ、それを実行された、そういう自己犠牲の愛でありました。イエス様は神様の愛を、自らの命をかけて私たちに示してくださったのであります。
で、そういうイエス様であればこそ、神様は、イエス様をお墓からよみがえらせ、高く引き上げ、その名をあらゆる名にまさるものとしてくださった。フィリピの信徒への手紙には、このようにあります。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2:9)。エフェソの信徒への手紙にも、このようにあります。「(神様は、イエス様の名を)すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェソ1:21)。
今や、神様は、このようなイエス様に「救いのすべて」を委ねられたのであります。すなわち、このようなイエス様を信じるならば、すべての人が救われる。すべての人が「永遠の命を得る」ことが出来るようにしてくださったのであります。
神様は、この世を裁くために、イエス様をこの世にお遣わしになった訳ではありません。裁くためであるならば、わざわざイエス様を遣わす必要はないのであります。あのノアの洪水のように、災害を与えて滅ぼすことだって出来る訳であります。「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはない」(創世記9:11)というのが神様の約束だとすれば、洪水じゃなくても、人間を滅ぼす方法はいくらでもあるんでありますね。
でも、神様は人間を滅ぼすことが目的ではない。この世を裁くためではなく、この世を救おうとしておられるのが神様なのであります。そして、今や、あのイエス様の十字架を信じるならば、誰でも救われる。すなわち、あの十字架が、私たちの罪を贖う「贖いの十字架であった」と信じるならば、それだけで誰でも救われるという、そういう救いの道を開いてくださったのであります。
そのことが今日の16節、17節に記されている中身、内容と言ってもいいのではないでしょうか。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。神様は、みんながイエス様を信じることによって救われることを願っているのでありますね。
ところで、18節以下には、このようにしてすべての人を救おうとされている神様でありますけれども、みんながみんな、必ずしもこのような神様の恵みを受け入れる者ではないということが記されております。要するに、御子イエス様を信じる者もいれば、信じない者もいる。そういう現実があると言うのであります。
18節以下。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」。
「御子を信じる者は裁かれない」。これはそのままですから、よく分かります。しかし、「信じない者は既に裁かれている」という、この表現。これは最後通告というのでしょうか、最後の審判をにおわせている言葉であります。
「信じない者は既に裁かれている」。なぜでしょうか。なぜそう言えるのでしょうか。聖書は「神の独り子の名を信じていないからである」また「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだから」と説明しております。
神の独り子・イエス様の名を信じていない。折角イエス様によって救いの道が開かれたにもかかわらず、光よりも闇の方を好んでいる。だから、もう既に裁かれている。
これは、先程申しました、イエス様の十字架による救いというものが、神様の最後の手だて、最後の救いの手段だということを示している言葉と言ってもいいかも知れません。
要するに、神様がここまでやったのに、それでも神様の御心が分からず、神様にたてつくのであれば、もうお手上げ、これ以上もう何も出来ない。あとは神様の「最後の審判」があるだけという、そういう意味合いの言葉と言ってもいいと思うのであります。
神様は、悪いことをする人たちを簡単に裁くことも出来ます。実際に、ノアの洪水の時には、そうしました。でも、すべての人を滅ぼすことが神様の御心ではありません。むしろ、神様は、一人も滅びないで、みんなが救われることを望んでおられるのであります。
そして、そのために、神様はイエス様をこの世に送り、イエス様の十字架によって人間の罪を贖い、救おうとされた訳であります。そして、そのご計画は見事に成就・達成されました。
今やすべての人に「救いの道」が開かれた訳であります。今までどんなに神様に対して背いて来た者であっても、心から悔い改めて、イエス様の十字架による救いを受け入れるならば、神様はすべての罪を赦してくださるのでありますね。
ですから、問題はただ一つ。光である神の独り子・御子イエス・キリストを信じるかどうか、受け入れるかどうか。イエス様の十字架による救いを受け入れるかどうかということだけなのであります。
神様は神様に出来るすべてのことをされました。あとは私たち次第であります。神の独り子の名を信じるかどうか。イエス様の十字架による救いを受け入れるかどうか。それは私たち次第。もう神様の責任ではありません。
勿論、最初から神様に責任がある訳ではありません。もし神様に責任があるとするならば、それは神様が人間を造ったという、そういう責任が考えられるかも知れませんが、それは、「どうして俺を生んだんだ」という、そういう言い方と同じであります。
とにかく、もう神様には責任はない。神様は出来るすべてのことをされたのであります。で、神様がここまでやったのに、それでも神様の御心が分からず、イエス様の十字架の救いを受け入れようとしないのであれば、これはもう仕方がない。最後に残っているのは「最後の審判」だけ。これ以外ないということではないでしょうか。
しかし、今日のところは、まだそこまでは、はっきりとは語りません。でも、神様の前に、二つの立場に立つ人たちがいることだけは、はっきりと語っております。それが、「悪を行う者」と「真理を行う者」という二つのグループであります。
聖書はこのように語ります。20節以下。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。
ここには先ず「悪を行う者は皆、光を憎む」とあります。これは19節の「光よりも闇の方を好む」という表現の進化形(進化した表現)と言ってもいいかも知れません。実際、光よりも闇の方を好む人たちもいるのでありますね。「闇の組織」なんて言葉もありますけれども、おもてに出たがらない、むしろ闇の方を好む、そういう人たちもいる。そして、彼らは「光を憎む」のであります。
「光を憎む」。それは、「まことの光」である神様・イエス様を憎むと言ってもいいと思いますが、ここでは、真実・真理を憎む、正しいこと、あるいは、正しい人を憎む、そんなふうに言い換えてもいいかも知れません。とにかく、「悪を行う者」は、正しいことが嫌いなのであります。あるいは、正しい人が嫌いなのであります。それは、自分たちの「行いが明るみに出されるのが」恐いから。
しかし、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」(マルコ4:22)とありますように、いずれすべてのことが明らかになるときが来るのであります。
「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」。でも、いずれすべてのことが明るみに出されるとするならば、いくら抵抗したって無駄なのではないでしょうか。
でも、無駄な抵抗と分かっていても、それでも、自分たちの「行いが明るみに出されるのが」恐くて、自分たちのあり方・姿勢を変えないという、そういう人たちもいる。そういう人たちのグループが、一つ「悪を行う者たち」ということで語られております。
それから、もう一つは、「真理を行う者」でありますけれども、彼らについては、このようにあります。「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。
ここには勿論、真理を行う者は、神様・イエス様の方に来るということが言われている訳ですけれども、もう一つ大切なことが言われているようにも思います。それは「真理を行う」というのは、神様の御心を行うということ。それは「彼らの行いが神に導かれてなされた」という、この言葉を見る時、はっきりするのではないでしょうか。
神様に導かれてなされる事柄。そこには神様の御心があるのであります。逆に言えば、神様の御心に適う事柄であれば、神様は導いてくださるということであります。そして、神様の御心を行うということが、聖書では「真理を行うこと」、そんなふうに言っているように思います。
いずれにしても、神様の御心を行う人、すなわち、真理を行う人は、神様・イエス様のもとに来る。言い換えれば、神様・イエス様を信じ、神様・イエス様に従って行こうとする者は、神様の御心を行おうとするのであります。
私たちは、イエス様によって罪赦され、救われた者として、神様の御心を行うものでありたいと思います。神様の御心を行っていく時、神様は導いてくださいます。それが聖書の約束であります。
私たち、光を憎むのではなく、むしろ、光を愛し、光に向かって歩んで行きたい。そして、神様に導かれ、これからも力強く歩んでまいりたいものであります。
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