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説教 「どうしてそんなことが」 
               (ヨハネ 3:9-15)      2014/06/15

 今日の所は、イエス様とニコデモが会話しているところであります。

 先ず最初に、ニコデモの「どうして、そんなことがありえましょうか」という言葉が出てまいりますが、「どうして、そんなことが」と言っているのは、前にお話ししました「新しく生まれる」ということであります。

 イエス様は、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と語り、更に「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と、こう語られた訳であります。

 「水と霊」、それは前に「洗礼を受け、また、聖霊を与えられて」ということだと学びましたけれども、洗礼を受け、聖霊によって新しく生まれるというのは、これはそう簡単に理解できる事柄ではありません。実際、これは頭で理解する事柄ではないのでありますね。

 確かに、ここで「新たに」「新しく」と言われている言葉、「アノーセン」という言葉は、「上から」とか「天から」、「源から」というような、そういう意味があります。ですから、新しく生まれるというのは、私たちが「根本的に、もう一度」、神様から力を与えられて、聖霊によって新しく生まれ変わるということ。そういうことは理屈では理解できると思うのであります。

 しかし問題は、そういうことが本当にあり得るのかどうか、ということであります。ニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。理屈では分かっていても、本当にそんなことがあり得るのか。それがニコデモの問いなのであります。

 それに対して、イエス様は、このように言われました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなた方は私たちの証しを受け入れない」。

 ここには先ず「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」という言葉が出てまいります。ニコデモはイエス様から叱られている訳であります。ニコデモは、ファリサイ派に属するサンヘドリンの議員。しかも年を取っていて、経験もあり、みんなから尊敬されていたイスラエルの教師。彼は、人々に神様のことを語り、また神様の教え・律法を人々に教えていたのであります。そんなニコデモ。でも、彼はイエス様から「こんなことも分からないのか」と、こう言われる。

 「こんなことが分からないのか」。それは、単に、頭で理解出来ない、分からないという、そういうことではありません。ニコデモはイスラエルの教師、先生ですから、神様のことはよく分かってはいたんであります。聖書のこともよく知っていた。でも、彼は、「本当にそんなことがあり得るのか」と疑問を持つ訳であります。

 全知全能の神、永遠絶対なる神。天地の創造者であり、イスラエル民族を守り導いてこられた神、そして今も万物を守り導いておられる神様。神様について、どんなに知識をもっていても、そして、それを人に教えることが出来たとしても、本当の神様の力を知らなければ、「あなたは、こんなことも分からないのか」と言われてしまうのであります。

 聖書には「主を畏れることは知恵の初め、知識のはじめである」(箴言1:7)という言葉があります。主を畏れる、神様を畏れるというのは、単に、神様についての知識を持っているという、そういうことではありません。実際に、神様を畏れ敬うことであります。もう少し言うならば、本当の神様の力を知って、神様の前にひれ伏すことであります。

 全知全能の神ということを言うのであれば、その全知全能の神様の実態を知ることが大切であります。イエス様は「あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10:30)と言われました。神様は私たちの髪の毛一本一本残らず数えて知っておられるのであります。正に全てをご存知、全てを知っておられるのでありますね。

 また、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)。「神は何でも出来る」(マルコ10:27)という言葉もあります。イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語り、弟子たちが「それでは(一体)、誰が救われるのだろうか」と言ったとき、イエス様は、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:25-27)と言われました。神様は何でもできる全能のお方なのでありますね。これが「全知全能の神」ということであります。

 でも、「全知全能の神」という言葉を知っていても、その実態、中身が分からなければ、それは本当の意味で知っているとは言えないのであります。パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造りあげる」(1コリント8:1)と申しました。「分かっている、知っている」という知識、特に「言葉だけで知っている」という、そういう知識だけではダメなんでありますね。

 繰り返しますけれども、ニコデモは、イスラエルの教師として、神様のことはよく分かっていた、知っていたのであります。でも、彼は、本当の神様の力を知らなかった。頭では分かっていても、神様の生きた働きかけ、生きた聖霊の力が分からなかった。だから、彼は「どうして、そんなことがありえましょうか」と言ったのではないでしょうか。

 聖霊の働きによって、新しく生まれることが必要。確かにそうかも知れない。でも、実際にそんなことがあり得るのか、起こり得るのか。ニコデモはイエス様との会話の中で、そういうことに疑問を持ったのであります。そして、これはニコデモだけの問題ではなく、私たちの問題でもまたあるように思います。

 「本当にそんなことがあるのか、あり得るのか」。私たち、聖書を読んでおりますと、こういう疑問を持つこと、たくさんあるのではないでしょうか。例えば、イエス様を身ごもったマリア。聖書によれば、マリアは「聖霊によって身ごもった」(マタイ1:18)なんてある訳ですけれども、そんなこと本当にあり得るのか。

 あるいは、イエス様は、三日目に「墓からよみがえった」なんてありますけれども、そんなことが実際に「起こり得るのか」。あるいは、イエス様が行った様々な奇跡。病人をいやしたり、悪霊を追い出したり、また、嵐を静めたりとかといった、そんな奇跡が本当にあり得るのか、起こり得るのか。こういう疑問、こういう疑問を持つ人も結構多いのではないでしょうか。

 使徒信条で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と毎週唱えていても、マリアが「聖霊によって身ごもった」なんて信じられない。イエス様の復活だって素直には信じられない。だから、イエス様は霊的に復活したんだとか、あるいは、弟子たちの心の中にイエス様の思い出がよみがえったのではないかなんて、そんな解釈をする人も出てくる。

 イエス様の行ったという奇跡も、奇跡なんてあり得ないという立場から、様々な解釈を試みる。「全能の神を信じる」と言いながら、実は「全能の神様を信じていない」、そういう人も実際多い訳であります。

 それは、信徒だけではなく、牧師だってそういう人がおりますし、神学者だって、そうであります。ですから、ニコデモが「どうして、そんなことがありえましょうか」と言ったという、このお話。これは単に2000年前のお話というだけではなく、今を生きる私たちの問題でもまたあると思うのでありますね。

 でも、聖書が、イエス様が問題としているのは、「そんなことがあり得るのかどうか」という、そういうことではないのでありますね。そうではなくて、私たちが、実際に、神様の力、聖霊の力によって新しく生まれ変わらなければ、神の国には入れないという、そういうことなのであります。しかも、それは単なる理論・理屈というのではなくて、実際の出来事であるということであります。

 ところで、イエス様は、「どうして、そんなことがありえましょうか」というニコデモに対して、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言いましたが、そのあと、このように言われました。「はっきり言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなた方は私たちの証しを受け入れない」。そして更にこのように言われました。「私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」。

 このイエス様の言葉の前半部は少しおかしいと思います。今までは、イエス様とニコデモの会話ということで、イエス様はニコデモに対して「あなた」と言っていたのに、ここでは「あなた方」という複数形になっている。しかも、イエス様自身も「私」と言わないで「私たち」という複数形を用いている。これは一体どういうことなんでしょうか。

 イエス様が「私たち」と言っているのは、イエス様と弟子たちというふうに理解することも出来ますけれども、「あなた方」というのは誰のことなんでしょうか。ニコデモが属していたファリサイ派の人たちのことでしょうか。確かに、そんなふうに考えることも出来るかも知れません。

 でも、ここで「私たち」とか「あなた方」ということで言われているのは、ヨハネ福音書が書かれた当時の教会の姿が反映されているとは言えないでしょうか。すなわち、当時、既に「水と霊によって新しくされていた人たちがいた」。そういう人たちが既にいて、そして、その人たちが「知っていることを語り、見たことを証ししている」、そんなふうに考えたらどうでしょうか。

 彼らは、既に「水と霊によって」、すなわち、洗礼を受け、聖霊を与えられて新しくなっていたのであります。だから、彼らは「知っていることを語り、見たことを証しした」のであります。それは理屈や理論ではありません。彼ら自身が、体験した現実だったのでありますね。でも、その彼らの証しを受け入れない人たちもいる。それが、ここで言われている「あなた方」ということなのではないでしょうか。

 ヨハネ福音書は、イエス様が亡くなられてから60年も70年も経って書かれた福音書だと言われております。当時の教会は、熱心にイエス様のことを証ししましたけれども、同時に厳しい迫害もありました。自分たちが「知っていることを語り、また、見たことを証ししても」、それを「受け入れない」人たちも沢山いたのであります。そういう現実を反映して、「あなた方は私たちの証しを受け入れない」と、こう言っているようにも思われます。

 ところで、次の「私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」という、この言葉ですけれども、ここには今日のテーマの結論が語られているように思います。「水と霊によって新しく生まれる」という現実。しかし、そのことが分からず「どうして、そんなことがあり得るか」と疑問を持つ私たち。それに対して、信じなければ、結局何も分からない。「地上で起こる現実だって信じられないのであれば、天上のことなんてもっと信じられない」という、そういうことが語られている訳であります。

 要するに、簡単に言えば「信じるか、信じないか」という、そういう問題ということになるのだと思います。いくら知識をもっていても、言葉で知っていても、あるいは、頭で理解することは出来ても、結局、信じなければ何にもならない。無意味だということなのではないでしょうか。

 「どうして、そんなことが」と問う私たち。でも、そう問う前に、そんなことがある世界もまたあるんだということに、私たちは目を開いて行きたいものであります。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われたイエス様の言葉を深く心にとめたいと思います。

 ところで、最後ですけれども、イエス様は、こんなことを言っておられます。13節以下。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。

 これもイエス様がこんなふうに語ったというよりも、当時の教会の信仰告白と考えた方がいいかも知れません。勿論、イエス様がこのように語ったとしてもいい訳ですけれども、そうしますと、少し違和感を感じるかも知れません。

 例えば、「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」というのは、これは勿論イエス様のことを語っている訳ですけれども、神様のところからこの世に降ってこられたイエス様が再び天に上るのは、復活のあとの昇天という出来事でありますね。その昇天、天に帰られたということが、「人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」ということで、もう既に昇天という出来事が起こったかのような書き方がしてある。ギリシア語の原文がそうなっている。

 ですから、これがイエス様の言葉だとすると、少しおかしいということにもなる訳であります。ですから、これは当時の教会の信仰告白と言った方がいいと思う訳ですけれども、でも問題は、ここで語られている内容、中身でありますね。

 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」。これは、イエス様が、神の独り子であったけれども、この世に降(くだ)ってこられ、そして再び神様のもとへと上(のぼ)って行かれた、帰って行かれた。イエス様だけが、そういうお方なんだということが語られている訳であります。

 それでは次の「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」というのは、これは一体どういうことなのでしょうか。これを理解するためには旧約聖書の知識が必要であります。民数記の21章4節以下に「青銅の蛇」という小見出しがついているお話があります。

 昔、モーセに導かれエジプトを脱出してきたイスラエルの民は、荒野を旅していたとき、神様とモーセに対して不平不満を言ったというのであります。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまう」。こんなふうに文句を言った。そうしますと神様は、「炎の蛇」を民に向かって送り、人々は、その蛇に咬まれて多くの者が死んでしまったといいます。で、こりゃ大変だということで、彼らは悔い改めまして、モーセになんとかしてくれと助けを求める訳であります。

 そして、モーセが神様に祈ると、神様は「青銅の蛇を作って、それを旗(はた)竿(ざお)の先に掲げよ」と、こうおっしゃる。で、モーセが「青銅の蛇を作り、それを旗竿の先に掲(かか)げ」、みんながその「青銅の蛇」を見上げると、蛇に咬まれた人も、「命を得た」というお話が民数記の21章4節以下の所に載っている訳であります。

 で、このお話がベースになっていて、「人の子、イエス様も、また上げられなければならない」と言われている訳であります。これは勿論イエス様の十字架のことを指している訳ですけれども、ここで言われていることは、単に、イエス様が十字架につけられなければならないという、そういうことだけではなくて、その十字架によって「命が得られる」ということなんでありますね。

 昔、イスラエルの民が「青銅の蛇」を見上げて、命を得たように、イエス様の十字架を見上げれば、誰でも「永遠の命」が得られる。そういうことを語っている訳であります。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない(イエス様も十字架につけられて上げられなければならない)。それは、信じる者が皆、人の子によって(イエス様によって)永遠の命を得るためである」。

 イエス様の十字架を見上げれば、誰でも「永遠の命」が得られるのであります。でも、ここでも大切なことがあります。それは「信じる者が皆」とありますように、イエス様を信じなければならない。イエス様のあの十字架が私たちの罪を贖うためのものであったということを信じなければならない訳であります。ただ十字架につけられたイエス様を見上げたって、それだけではなんにもならないのでありますね。やはり「信じる」ということが大切なのであります。

 しかも、信じるというのは、「ただそう思う」というのではなくて、実際に信じて、そういう歩み、そういう生き方をするということであります。要するに、信じるというのは、自分自身の生き方に関わってくる事柄なんでありますね。ただ頭で信じるのではない。自分が、イエス様を信じて、イエス様の十字架の贖いを信じて、神様の恵みをいただいて、そういう生き方を実際にして行くということなんであります。

 私たちは、ニコデモのように「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と問うこともあるかも知れません。信仰を持って歩んでいても、時々立ち止まってしまう、そういうこともあるかも知れません。でも、「全知全能の神」、「出来ないことは何一つない」という神様、神様には何でも出来るということを心から信じる時、私たちは、再び大きく前進することが出来ると思います。

 神様・イエス様に導かれて、これからも聖霊の力を豊かに与えられて、力強く歩んでまいりたいものであります。
 

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