今日は「ペンテコステ」(聖霊降臨日)であります。ペンテコステというのは「50日目のお祭り」という意味のギリシャ語で、ユダヤ人が「過越祭」というお祭りから50日目に守っていた「五旬祭」というお祭りのことであります。
この日不思議なことが起こりました。聖書には、このようにあります。
「五旬祭の日(ペンテコステの日)が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は「聖霊」に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。こういう事が起こったというのであります。
ここには「一同が一つになって集まっていた」とありますけれども、この「一同」というのは「イエス様の弟子たち」のこと。イエス様の弟子たちが、ペンテコステの日に集まっていた時、突然「聖霊」がみんなに与えられたというのでありますね。
聖書には「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、家中に響き渡った。」どんな音なのか分かりませんが、とにかく家中に響き渡るような音だったようですから、大変な音だったようであります。また、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」炎のような舌、これも説明するのは難しいので、このような表現になっているのだと思いますが、いずれにせよ、家中に響き渡るような大きな音、そして炎のような舌、要するに、目でも耳でも分かるような、そんなかたちで「聖霊」が与えられたというのであります。
これは聖霊降臨の出来事が、単なる個人的な経験、私に聖霊が与えられたというような、そういう個人的な出来事ではなく、確かにこのようなことが起こった、客観的な出来事として、このようなことが起こった、ということを語っているのだろうと思います。
そして、このように「聖霊」が与えられた弟子たちが、聖霊に導かれてイエス様の事を宣べ伝えたものですから、沢山の人たちがイエス様を信じるようになりました。聖書には、その日「3,000人ほどの人」がイエス様を信じ、洗礼(バプテスマ)を受けて、信者になったと記されております(2:41)。
少しあとの方ですが、使徒言行録2章41節以下、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。このようにあります。
「聖霊」を与えられた弟子たちが、聖霊に導かれてイエス様の事を宣べ伝えたものですから、沢山の人たちがイエス様を信じるようになった。そして、このようにしてはじめて教会、キリスト教の教会がこの世に誕生したのであります。ですから、教会ではこのペンテコステの日を「教会の誕生日」ということで、今でも大切にしている訳であります。
ところで、弟子たちに与えられた「聖霊」、それはとても強烈なものだったので、このようなお話が聖書に載っているのだと思いますが、そもそも「聖霊」とは何でしょうか。
聖霊、それは神様の霊であります。聖書には「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ 4:24)なんて言葉もありますが、いずれにせよ、弟子たちは神様の力を非常に強く感じたのだと思うのでありますね。もう少し言うならば、神様の力が非常に強く、強烈に弟子たちに作用した、働いた。それがペンテコステの出来事だったのだろうと思うのでありますね。
ペンテコステの出来事。神様の霊・聖霊が弟子たちに降臨したお話。しかし、このようなお話、最近の人たちは、あまり関心を示しません。興味を持ちません。幽霊を見たとか、心霊現象とか、霊の世界のお話だとか、そういうものには関心を持つ人はおりますけれども、聖書のお話ということになりますと、あまり関心を示さない。確かに、2000年近く前のお話ですから、もう時効になっているのかも知れませんが、とにかく、あまり関心を示さない。
教会だって、そういう所があるのではないでしょうか。ベンテコステ派の教会は別ですけれども、私たちの教会だって、クリスマスやイースターは、それなりに大切な日だからということで、真剣にお祝いをしたりしますけれども、ペンテコステということになりますと、あまり力が入らないというか、手抜きをしてしまう、そういう所があるように思うのであります。でも、ペンテコステの出来事、この出来事がなかったならば、私たちの教会もなかった訳ですから、やはり大切にして行ければと思います。
ということで、今日は、ペンテコステの出来事を通して、弟子たちが変えられたというお話をしてみたいと思いますが、実際、イエス様の弟子たちは、聖霊を受けて変えられたのでありますね。先程の聖書の所には「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。
「ほかの国々の言葉で話しだした」。ほかの国々の言葉を勉強した訳でもないのに、突然、ほかの国々の言葉で話し出す。これは確かに驚くべき出来事であり、聖霊によって変えられた弟子たちの姿を語っていると言ってもいいと思います。
しかしながら、弟子たちが聖霊によって変えられたというのは、単に、ほかの国々の言葉で語るという、そういう事だけではなくて、実はもっと大きな変化が弟子たちには与えられたのであります。それは彼らに「勇気と力が与えられた」と言ってもいいかも知れません。
実は、イエス様の弟子たちは、イエス様が十字架につけられたあと、あまりおおっぴらにイエス様の事を語ることも出来ないで、コソコソ自分たちだけの集まりをしていた訳であります。
確かに、イエス様がお墓から復活されて、弟子たちの目の前に現れてくださったときには、弟子たちも元気になり、イエス様が生きておられるという確信を持つ事が出来ましたけれども、聖霊が与えられるまでは、その事はまだ自分たちだけの秘密といった、そういう状態でありました。むしろ、彼らはイエス様の弟子という事で、自分たちもイエス様のように捕まってしまうのではないかという、そういう恐れの方を強く感じていたのではないかと思います。
しかし、聖霊を与えられて、弟子たちは変わりました。否、変えられました。そして、大胆に語り出す事が出来たのであります。彼らは「勇気と力とを与えられた」のであります。イエス様は「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)と弟子たちに語っていた訳ですけれども、確かに弟子たちは聖霊を与えられて「力」を与えられたのであります。
聖霊には人を変える力があります。しかも、それは私たちの生き方そのものさえ変えてしまうような、そんな力であります。先程、弟子たちは聖霊を与えられて変えられたと申しました。例えば、イエス様を3度も知らないと言った弱虫ペトロは、人々の前に立って大胆に語るようになりました。そしてそのあと、逮捕されて議会で取り調べを受けた時も、「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」(使徒4:19)とまで言えるようになりました。これは大きな変化であります。(弱虫ペトロが変えられた例)
また、ステファノという人もイエス様の事を宣べ伝え、捕まえられましたけれども、力強くイエス様の事を証しし、最後に石を投げつけられて殺される時も、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」といって殉教の死を遂げました(使徒7:54f.)。
今までユダヤ人を恐れ、コソコソやっていた弟子たちでありました。でも、彼らは確かに変わったのであります。否、変えられたのであります。そして、このように彼らを変えたのは「聖霊の力」でありました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)。このイエス様の言葉が成就したのであります。
ところで、「聖霊を与えられると人は変わる」と申しましたけれども、それは単に「人が変わって大胆になる」という事だけではありません。実は、聖霊を与えられますと、人間性というのでしょうか、私たちの生き方そのものも変わるのであります。
ガラテヤの信徒への手紙5章22節以下には、このような言葉があります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤ5:22-23)。「霊の結ぶ実」。これは「聖霊が与えてくださる恵み」、そんなふうに言い換えてもいいかも知れません。
いずれにせよ、聖霊が私たちに与えられると、愛が与えられ、喜びが与えられ、平和が与えられる。また、寛容な心、親切な心、善意、誠実、柔和、節制というような、そういうものが与えられるというのであります。要するに、私たちの人間性まで変えられるというのであります。これは理屈ではありません。
どうしてそのようなものが与えられるのかという事ではありません。どうしてなのかという事ではなくて、実際に、そのような結果・実が与えられるという事なのであります。聖霊は、私たちを変える、そういう「力」を持っているのであります。
しかし、聖霊、聖霊と申しましても、聖霊というのは「霊」であり、私たちの目で見えるものではありませんから、分かりにくいという事もまたある訳であります。ペンテコステの日に起こったように「激しい風が吹いて来るような音が聞こえる」とか「炎のようなものが現れる」という事であれば、それなりに分かる訳ですけれども、今はそういう時代ではありません。聖霊には味も臭いもありません。ましてや、目に見えるというものでもない。ですから、どういうものが聖霊なのか、何が聖霊なのかと言われても答えようがないという事にもなる訳であります。
しかしながら、私たちは、聖霊というものを、その働きによって、はっきりと知る事が出来るのではないでしょうか。先程の愛とか喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、そういうものが与えられる所、そこに聖霊は確かに働いている、そんなふうにも言えるのではないかと思うのであります。
イエス様は、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」。そして、「あなたがたはその実で彼らを見分ける」(マタイ7:17f.)と教えられました。実によって、良い木か悪い木か分かるというのでありますね。同じように、愛に満たされている人、喜びに満たされている人、平和を求める人、寛容な人、親切、善意、誠実、柔和な人、また節制を知っている人、そういう人には聖霊が豊かに注がれている、そんなふうにも言えるのだろうと思います。
逆に言えば、どんなに聖霊、聖霊ということを言っても、教会によっては、聖霊様ということで、聖霊の働きを強調し、聖霊が全てであるかのような、そんな言い方をする所もありますけれども、人に寛容でなかったり、柔和さに欠けていたりするならば、そこには聖霊が働いているとは言えない、そんな言い方だって出来るのではないでしょうか。聖霊の働きを強調するのであれば、やはり聖霊が与えてくださる「実」にも、私たちは注意を払いたいものであります。
今日は、ペンテコステ。聖霊降臨日。私たちを変えてくださる聖霊のお話をいたしました。2000年前、イエス様の弟子たちに聖霊が豊かに与えられ、そして勇気と力を与えられて、神様のご用をなして行ったように、私たちも神様の霊・聖霊を豊かに与えられ、神様によって変えていただいて、神様のご用のために力強い歩みをして行きたいと思います。
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