今日の聖書のテキストは、先程お読みいただきましたヨハネ福音書3章の最初の所であります。ニコデモという人が、ある夜、イエス様の所にまいりまして、「あなたは神様のもとから来られた教師である」というような事を言う訳であります。それに対して、イエス様は突然ですが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語られました。
ニコデモは、このイエス様の言葉が理解できず、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言いますと、イエス様は「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われ、「肉と霊」についてのお話をする。
これが今日のテキストの全体の流れですが、このテキストから私たちはどのような事を学んだらよいのでしょうか。主題は「新しく生まれる」という所にあると思われますが、その他にもいろんなことを学ぶことが出来ると思います。
例えば、ここに登場いたします「ニコデモ」という人の態度、あり方というものから、ちょっと考えてみたいと思いますが…。
彼は、聖書によれば、ファリサイ派に属する人で、「ユダヤ人たちの議員であった」。また、4節を見ますと、ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」と言っておりますから、多分、彼は老人(高齢者)であったようであります。それから、10節の所には「イスラエルの教師」という表現も出ておりますから、ニコデモは、みんなから尊敬されていたユダヤ教の先生、指導者であったようであります。
ファリサイ派に属する人、すなわち、律法を熱心に守っていた人。また、ユダヤ人たちの議員、サンヘドリンというユダヤ人の最高法院の議員。しかも、年を取っていて、みんなから信頼され尊敬されていたユダヤ教の先生、指導者。それがニコデモという人であったようであります。
このようなニコデモがイエス様の所にやって来た。この時イエス様は多分31歳か32歳くらいで、ニコデモにしてみれば、まだ年若い若僧でありました。そんなイエス様の所にやってきて、ニコデモは「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」なんて言う。
「ラビ」というのは、すぐれた教師を呼ぶ時の敬称。ニコデモはイエス様のことを「ラビ、先生」と呼び、イエス様のことを「神から遣わされた教師である」と言うのであります。このニコデモの態度というのでしょうか、姿勢というものは、非常に大切なことを私たちに教えているように思います。
私たちは、自分が優れた者であり、人からもそう思われておりますと、なかなか自分を低くすることが出来ない、そういう所があります。地位がある、名誉がある、財産がある、あるいは、経験がある、学識がある、そういうものがあればある程、私たちはなかなか謙虚になれない。
勿論、これは一般論でありまして、教会の中にはそういう人はいないと思うのですけれども、一般的には、そういういろいろなものを持っていればいる程、自分を低くする、謙虚になる、謙遜になることが出来ない、そういう人が多いと思うのであります。
しかし、ニコデモは違っておりました。彼は、ファリサイ派の一員として律法も熱心に守り、議員としての地位もあり、また、ユダヤ人の指導者として、みんなから「先生」と呼ばれ、尊敬されていた人でもありました。しかも、年を取って、経験も豊かで、この世の様々な処世術にも優れていた人。そのようなニコデモが、年若い大工の息子であるイエス様の所にやって来た。これは非常に勇気のいることであります。
確かに、聖書には、ニコデモは「夜」イエス様の所にやって来たとありまして、人目を避けてやって来たという印象もありますが、イエス様の所にやってきたという事実に変わりはありません。ニコデモという人は、勇気のある人だったのではないでしょうか。自分を低くすることが出来る勇気があった。謙虚に、謙遜になれる勇気があった人だと思います。
そして、このような勇気は、私たちもまた持たなければならないのではないかと思うのであります。真理の前には自らを低くする、謙虚になる、そういう姿勢、これはとても大切なことではないでしょうか。
ところで、先程のニコデモの言葉、「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」。これは一種の信仰告白と言ってもいいのではないでしょうか。勿論、ペトロが告白したような「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)という信仰告白とは大分違いますけれども、しかし、イエス様が神様から遣わされた特別な教師であるということで、とにかくイエス様を神様から遣わされた者とみている。これも一種の信仰告白と言ってもいいと思います。
しかし、どうしてニコデモは、この告白を昼間、堂々と公衆の面前で行わなかったのでしょうか。彼は「夜」イエス様の所に来て、このように告白したのであります。私たちにも思い当たるフシはないでしょうか。
私たちがイエス様のことを証しし、伝道するという時、それはこの世の中で行われます。教会に人を連れてくる事も大切かも知れませんが、それ以上に、この世にあって、私たちの日常生活の中で、イエス様の事を証しし、福音を伝えることはもっと大切なことであります。
しかし、私たちが生活しているこの世の中でイエス様の事を語ろうとすると、困難を覚えることも多々あります。例えば、自分がクリスチャンである事を明らかにすれば、周りの者から白い目で見られる。まかり間違えば村八分にもあうというような事も起こり得る訳であります。特に、田舎の小さな村なんかでは、実際にそういう事も起こる。信教の自由だなどと言っても分かってもらえない、そういう地域だってまだまだある訳でありますね。
しかしながら、教会の中だけで、あるいは、密かに自分の心の中だけで信仰を告白しても、それだけでは、なかなか伝道ということには結びつかない。やはり困難はあっても、私たち一人一人がこの世の生活の中で堂々と信仰を告白する事が大切なのではないかと思うのであります。
ニコデモがイエス様の所に「夜」やって来た。そして、イエス様を神様から遣わされた教師であると告白している姿。それは私たちの問題でもあるのではないでしょうか。教会に来ているクリスチャンは、確かに、教会では堂々と信仰を告白しているのであります。しかし、教会から一歩外に出ると、日常生活に戻ると、私たちはなかなか堂々と信仰を告白出来ない。イエス様を堂々と証し出来ない。これではニコデモと同じではないでしょうか。
確かに、私たちの現実にはいろいろな問題があります。堂々とイエス様を告白するにはちょっと難しい、そういう状況もあるとは思います。しかしながら、イエス様を宣べ伝えるのは、イエス様を信じている私たち以外いないのですから、困難はあってもやはり頑張って行きたいと思うのであります。本当にイエス様の事を宣べ伝える気持ちがあるのであれば、きっとその道は開けて行くと思います。
ところで、聖書に戻りますが、イエス様はニコデモに「新しく生まれる」という事を言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。イエス様は、ユダヤ人の指導者であり、みんなから「先生」と呼ばれ、尊敬されていたニコデモに対して、はっきりとこう言われるのであります。
ニコデモはファリサイ派に属する人物、律法を守り、正しい生活をして来た人であります。しかし、いくら正しい生活をし、立派な生き方をしておりましても、それだけでは「神の国を見ることは出来ない」。「神の国を見る」というのは、5節の所に「神の国に入る」という言葉がありますから、これは同じ意味であると言ってもいいと思いますが、とにかく、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない、神の国に入る事は出来ないと、こうイエス様は教えられるのであります。
人間というものは、どんなに立派であろうとも、完全であると思われても、どこかに破れがあるものであります。あの旧約聖書のヨブ記の主人公ヨブという人、彼は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」人であったと言われております(ヨブ1:1)。しかし、最後の方になりますと、ヨブは神様から「お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために私を有罪とさえするのか(自分が正しくて、神の方が間違っていると言うのか)」(ヨブ40:8)と問いつめられ、とうとう悔い改めます。「それ故、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:6)。
あの倫理的にも、また信仰的にも正しく立派だと思われていたヨブでさえ、神様の前にあっては悔い改めざるを得なかったのであります。
「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。「義人一人だになし」。これが聖書の教えであります。私たち人間は誰でも弱点や欠点がある。破れがある。決して完全ではないのであります。だからこそ、それらを繕おうとする。
最近では、逆に「欠点のない人なんて魅力ないわ」とか、「完璧な人なんていないわ」なんて悟りきったような事を言う人も多くなっておりますが、そういう事を言う人に限って、顔にべたべた塗りたくったり、自分の欠点を隠すために、いろいろと小細工をする人も多いようであります。
人間というものは、意識するにしろ、しないにしろ、何らかの形で自分の弱点、欠点というものをかばう習性があるようでありまして、それはある意味においては、本能と言ってもよいかも知れません。とにかく、完全でない人間は、自分の欠け、破れた部分を取り繕おうとする。しかし、部分的にいくら取り繕っても、根本的な所が破れていては、これはどうしようもないのであります。
ある時、イエス様は偽善な律法学者たちやファリサイ派の人々に対して、こういう事を言われました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイ23:27-28)
このイエス様の言葉は、律法学者やファリサイ派の人たちだけに語られている言葉というよりも、人間全体の現実を語っている言葉とは言えないでしょうか。私たちは、ある意味において、みんな白く塗られた墓であります。どんなに正しい生活をし、立派な生活をしているように見えても、その中身は非常に醜い、汚れたものがいっぱい詰まっているのであります。
今日のテキストに登場してまいりましたニコデモという人も、正しい生活をし、ユダヤ人の指導者としてみんなから尊敬されてはおりましたけれども、その実、自らの欠点、弱さ、破れというものを、よく知っていたのではないかと思います。それ故、年若いイエス様の所に、わざわざやって来て、教えを受けようとした。そんな気がしてなりません。
ところで、このようなニコデモに対して、イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と、はっきりと宣言した訳であります。新しく生まれるというのは、これは人間の根本的な事柄であります。いくら繕ってもだめなのであります。あれこれと小細工をし、表面を整えてもだめ。根本が新しくならなければ、それは白く塗られた墓なのであります。
イエス様が「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われる時、これは人間が新しく生まれ変わる、人間の「新しい創造」という事を語っていると言ってもいいと思います。「新しく生まれる」、人間が新しく創造されるのであります。古いものに死んで新しく生まれ変わる。新しい人間の創造、根本的変革、それが「新しく生まれる」という事ではないでしょうか。白く塗られた墓の例で言うならば、墓の中身それ自体を変えてしまうという事であります。
それでは、どうしたら私たちは新しく生まれ変わる事が出来るでしょうか。もう一度、母の胎に入って生まれるのでしょうか。そんな事、不可能であります。イエス様は、新しく生まれるという事を「水と霊とによって生まれる」と言い換えております。5節の途中から「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。
「水と霊とによって生まれる」というのは、明らかに、教会で行われる洗礼、バプテスマの事を指しております。一旦、母の胎を出た人間は、再び母の胎に戻る事は出来ません。しかし、イエス様を受け入れ、洗礼を受ける事により、私たちは新しく生まれ変わることが出来るというのが、イエス様の教えであります。
人間は母親の肉体から生まれます。しかし、イエス様を救い主・キリストと信じ告白し、洗礼を受けるとき、私たちは聖霊を与えられて、新しく生まれ変わるのであります。勿論、私たちが新しく生まれ変わると申しましても、私たちの肉体に特別な変化が見られる訳ではありません。しかしながら、聖霊の力によって私たちは霊的に新しくされるのであります。
イエス様は「霊から生まれた者は霊である」と言っておられますが、聖霊によって新しくされる者は、肉の支配から解放され、霊の世界に生きる。それ故、私たちは洗礼を受けた時を、第二の誕生日という事で大切にし、感謝献金をささげたりもする訳でありますね。
少し横道にそれたかも知れませんが、とにかく、「水と霊によって」私たちは新しく生まれ変わる。それは、私たちが根本的に新しくされる出来事であり、霊の世界、神様の世界に生まれ変わる出来事なのであります。しかも、それは神様の恵みによって可能となる。私たちの力で、あるいは、私たちの努力で新しく生まれ変わるのではありません。神様が私たちを新しい人間へと変えて下さるのであります。
これは、ある意味において、私たちの理解を越える出来事かも知れません。しかし、これは信仰的事実なのであります。この事実を、イエス様は次のように語っております。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。
風というのは、私たちの目には見えません。また、注意していないと、なかなか分からないものでもあります。まあ、台風の時とか、嵐の時などのように強い風が吹けば、すぐ分かりますけれども、それでも、その風がどこから来てどこへ行くのかは、よく分からない。しかし、風は確かに存在するのであります。目には見えないけれども、確かに存在する。
同じように、霊から生まれる者も確かに存在するのであります。勿論、私たちの目には、よく分からないかも知れません。この人は新しく生まれた人、この人はまだの人。外面を見ただけではほとんど区別がつきません。でも、水と霊とから生まれた人は、神様によって新しくされ、霊の人となるのであります。なぜならば、霊から生まれる者は霊であるからであります。
ところで、霊などと申しますと、私たちはすぐ幽霊とか亡霊というようなものを思い浮かべますが、聖書で言う霊というのは、そういう類のものではありません。聖書で語る霊は、生ける具体的な力であります。創世記の記事によりますと、神様は「土(アダマ)の塵で人(アダム)を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。こうして人は生きた者となった」と記されております。この「命の息・ルーアッハ」というものが、聖書のいう「霊」であります。
人間は、神様から「命の息、ルーアッハ・霊」を与えられて生きた者となるのであります。ですから、霊というのは、非常に具体的な力を持っている訳であります。命の根源とでも言うのでしょうか、人間を根底において支えるもの、それが霊なのであります。
聖書には、聖霊という言葉も出てまいりますが、これは神様の具体的な働き、力を示すものであります。神様は目には見えませんけれども、絶えず生きて働きたもうお方なのであります。神様は天の玉座にただ黙って座っておられるのではありません。何もしないで、ただ人間のする事を黙って見ているというのではない。絶えず「聖霊」という力でもって、具体的に働いておられるのであります。とりわけ、私たちの霊に働きかけ、私たちが神様の御心を行うように導いておられる。
水と霊によって新しく生まれた者は、どこから来てどこへ行くのかは分かりません。ただ神様の御心のままに導かれ、歩んで行くのであります。私たちは、新しく生まれ変わった者として、聖霊を豊かに与えられ、神様の御心、み旨を行なってまいりたいものであります。
私たちは、目に見えるものに対しては、よく注意を払います。でも、目に見えないものに対しては、あまり関心を持ちません。しかし、目に見えるものは一時的であり、目に見えないものは永遠に続くのであります(2コリント4:18)。
私たちは心の扉を開いて、聖霊を豊かに与えられ、御心を行なう者となりたいと思います。新しく生まれた者は、神の国の乗車券を与えられた者でありますから、それにふさわしい歩みを、これからも神様に導かれて、歩み続けてまいりたいと思います。
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