聖書を読みますと、イエス様の周りにはいつも大勢の人たちが集まっていたという事が記されております。そして、いわゆる弟子と呼ばれた人たちもそれなりに沢山いたようであります。私たちは、イエス様の弟子と言いますと、すぐ「12弟子」ということを考えますけれども、それだけではなくて、マグダラのマリアを初めとする女性の弟子たち、また、72人の弟子たちを派遣した(ルカ10:1f.)というようなお話もありますから、イエス様の周りには結構沢山の弟子たちがいたようであります。
しかし、それらの弟子たちが最後までイエス様に付き従って行ったのかと申しますと、必ずしもそうではありませんでした。多くの弟子たちは途中で離れ去って行きました。先程の聖書の所には、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあります。
イエス様には、確かに多くの弟子たちがいたのであります。彼らはイエス様と歩みを共にしていた、行動を共にしていたのであります。しかし、ある出来事をきっかけに、彼らは「もはやイエス様と共に歩まなくなった」。要するに、イエス様から離れてしまった訳であります。
教会でも同じような事がないでしょうか。聖書の教えはすばらしい、キリスト教はすばらしいという事で、一度はイエス様の弟子になる(信仰を持つ)。教会で言えば、洗礼を受けるという事になると思うのですけれども、しかし、いろいろな事があって、結局教会から離れてしまう、教会に来なくなってしまう、そういう人たち。結構沢山いるのではないでしょうか。
どうしてこのような事が起こるのでしょうか。今日はこのあたりの事を少し考えてみたいと思います。で、先程、「このために、弟子たちの多くが(イエス様から)離れ去り、もはやイエス様と共に歩まなくなった」という言葉を紹介しましたけれども、弟子たちの多くがイエス様から離れて行った理由が、「このために」という言葉で語られておりますので、このことについて先ず少し考えてみたいと思います。
「このために」、これは今日のテキストの少し前の所から記されている一連の出来事のことと言っていいと思います。例えば、イエス様は「命のパン」のお話の中で、「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」(6:51)とか、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」とか、また「私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。」(6:53-54)なんて語った訳であります。
イエス様の肉を食べる。イエス様の血を飲む。それは今で言えば「聖餐式」のことだと分かりますけれども、はじめてこの言葉を聞いた者にとっては、これは大きなつまずきの言葉だったに違いありません。
昔、日本にキリスト教が伝えられた時も、教会の聖餐式の光景を見まして、「キリスト教は恐ろしい宗教だ」なんて言った人がいたということであります。まあ、教会では聖餐式の時「パンとぶどう酒」をいただく訳ですが、パンにあずかる時は「これは私たちの為に裂かれた主イエス・キリストの体である」と言われる訳でありますね。また、ぶどう酒の時は「これは私たちのために裂かれた主イエス・キリストの血潮です」なんて言われる。
で、キリスト教の事をよく知らない人が、この様子を見て、「キリスト教は人の肉を食べる。また、人の血を飲む。キリスト教は恐ろしい宗教だ」なんて言ったということですが、ぶどう酒はちょうど血の色に似ていますから、本当に人間の血を飲んでいるようにも思われたんでありましょう。また、パンを人の肉だと思っていたようであります。そんな誤解も昔はあった。
「私の肉を食べ、私の血を飲め」。このイエス様の言葉を聞いたとき、多くの弟子たちがイエス様に躓きました。少し前のヨハネ福音書の6章60節には、「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」。「自分の肉を食べろ、自分の血を飲め」。確かに、これをそのまま受け止めれば「これは実にひどい話だ」という事になってしまいます。イエス様の言葉は、確かに誤解されやすい言葉であり、実際に多くの弟子たちが、このイエス様の言葉につまずいたのであります。
でも、それだけではありません。イエス様は「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」とも言われました(ヨハネ6:64)。今までイエス様と一緒に歩んできた弟子たちにして見れば、これはショックというのでしょうか、反感を覚える言葉と言ってもいいかも知れません。「あなた方のうちには信じない者たちもいる」。イエス様はいずれご自分を裏切ることになるイスカリオテのユダのことを語ろうとしたのでしょうが、「自分たちのうちに信じない者がいる」なんて言われたら、気分を害する者がいたとしても不思議ではありません。弟子たちの多くは、この言葉にもつまずいたようであります。
それからもう一つ、イエス様はこのようにも言われました。「こういうわけで、私はあなた方に、『父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない』と言ったのだ」。これは65節にある言葉ですが、この言葉は「父なる神様から選ばれた者以外は、誰もイエス様の弟子になることは出来ない」という、そういう言葉でありますね。
神様から選ばれた者でなければ、誰もイエス様の弟子になることはできない。勝手に「私はイエス様の弟子だ」なんて言ったって、それは本当の弟子ではない。先程も申しましたように、イエス様の弟子たち、12弟子以外にも沢山の弟子たちがいた訳ですが、彼らの多くは自分から進んでイエス様に従って行った、そういう人たちも結構沢山いたようであります。要するに、神様から選ばれてとか、召されてというようなことではなくて、イエス様の語るすばらしい言葉、あるいは、イエス様がなさった不思議な業、そういうものに惹かれて、自ら進んでイエス様について行くようになった、そういう人たちも沢山いたのであります。でも、イエス様から「神様から選ばれた者以外は、誰も私の弟子になることは出来ない」なんて言われたものですから、彼らはこのイエス様の言葉にもつまずいてしまった。そんなことも考えられます。
確かに、イエス様の言葉、そのまま受け止めれば、人に誤解を与え、また人の反感を買うような、そんな言葉も沢山あります。「私の肉を食べろ、私の血を飲め」。誰だってドキッとしてしまいます。人の肉を食べろとか人の血を飲めなんて、「実にひどい話だ」ということにもなる訳であります。また、今まで一緒にやって来たのに、寝食を共にしてきたのに、「あなた方のうちには信じない者たちもいる」なんて言われたら、反感も生まれます。そして極めつけ、「神様から許された者以外は、誰も私の弟子になることは出来ない」なんて言われたら、自分は神様から選ばれているのだろうかなんて思ってしまう。
弟子たちの多くが、イエス様から離れ去ってしまった原因・理由。それはイエス様の語られた様々な言葉、それにつまずいてしまったからであります。しかし、彼らがイエス様から離れ、イエス様と行動を共にしなくなった本当の原因は、彼らがイエス様を心から信頼することが出来なかったからではないでしょうか。言葉による躓きの一つや二つあっても、それでもイエス様を心から信頼していたならば、今はイエス様の語る言葉の意味がよく分からなくても、いずれ分かる時も来るだろうということで、つまずきを乗り越えることも出来たのではないでしょうか。
信頼関係、それはこれから作り上げて行こうということも確かに大切ですけれども、思い切って信頼して賭けてみようという、そういうこともまた大切なことであります。「信仰とは賭である」という言葉がありますけれども、これに賭けてみよう、この人に賭けてみよう、そういうことがあってもいいのではないでしょうか。神様に賭ける、イエス様に賭ける。それは神様、イエス様を信頼するということであります。弟子たちの多くは、形はイエス様に従っていたようですけれども、どうも「イエス様を心から信頼する」という、そういう所が欠けていたようにも思われます。
私たちは弱い存在でありまして、ちょっとした事でも、すぐ躓いてしまう。教会でも、「何気ないちょっとした言葉」が躓きになって、後々まで「しこりを残す」というような事がよくあります。確かに、私たちはそういう弱い所があるのであります。しかしながら、イエス様を信じ、イエス様を信頼して生きて行こうという時、こんなイエス様の言葉はおかしい、こんな事は信じられないという事で、自分が受け入れられないものはおかしい、間違いであるというような、そういう受けとめ方で全てを判断して行ってもいいものなのでしょうか。イエス様を信頼する者は、むしろイエス様が語られる言葉をも信頼して行くべきではないでしょうか。
ペトロは、イエス様から「あなた方も離れて行きたいか」と言われた時、12弟子を代表して、このように答えました。「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」。
ここにはイエス様を信頼するペトロの姿がよく表わされていると思います。先ず、ペトロは「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか」と言いました。これはイエス様以外の所には、どこにも行かない、イエス様と共に歩んで行きますという、そういう思いが語られている言葉であります。
それから次に、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と言いました。「永遠の命の言葉」、それは神様の言葉と言ってもいいと思います。ペトロは、イエス様の言葉の中に、人間の言葉を越えた「神様の言葉」を感じ取っていたのであります。イエス様の言葉、たとえそれが今はよく分からなくても、あるいは、それがどんなに厳しいものであっても、神様の言葉、御言葉として、ペトロはそれに従って生きて行くというのであります。
それから、三番目は「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」という言葉ですが、これはイエス様が神様から遣わされた神の子、救い主であるということを告白している言葉と言ってもいいと思います。とにかく、ペトロは、イエス様を心から信頼し、イエス様の言葉を受け入れ、イエス様と共に生きて行く、共に歩んで行くという、そういう「決意」を語るのであります。そして、これは私たちクリスチャンの基本的姿勢でもまたあるのではないでしょうか。
クリスチャンは、イエス様を信頼する者であります。そして、イエス様を信頼するというのは、イエス様の言葉をも信頼するのであります。たとえそれがどんなに受け入れがたいような言葉であっても、イエス様の言葉なんだからそれを信頼して歩んで行くというのがクリスチャンであります。
イエス様から離れて行った弟子たち、彼らはイエス様の言葉に躓きました。そこには「イエス様を信頼する」という姿勢が欠けていたからであります。先程、彼らの多くは、イエス様の語る言葉や、あるいは、イエス様がなさった不思議な業、そういうものに引かれて、イエス様について行くようになったのではないかというようなことを申し上げました。彼らはイエス様ご自身を信頼するという事よりも、イエス様の見かけ、外見だけに引かれて、イエス様と行動を共にしていたのかも知れません。
確かに、彼らも「イエス様の弟子」と呼ばれておりますから、それなりの働きをしたのかも知れません。でも、彼らの多くはイエス様を心から信頼するまでには至っていなかった。それ故、イエス様の言葉を神様の言葉、御言葉として受け入れることが出来なかったのではないかとも思われるのであります。
信頼関係がない所では、どんなにすばらしい言葉が語られても、それはむなしいものになってしまいます。ましてや、躓きを与えるような言葉、それを受け入れるというのは、とても難しい事であります。しかしながら、それでもイエス様を信頼していくという所に、信仰者の在り方というものがあるのではないでしょうか。
イエス様の弟子と呼ばれても、イエス様を心から信頼していなければ、結局いつかはイエス様のもとを離れ去ることになるのであります。私たちは、イエス様を心から信頼し、そして、ペトロのように、イエス様こそ「永遠の命の言葉を持っておられるお方」であることを信じて、イエス様と共に歩んでまいりたいものであります。
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