今日は、先程お読みいだきました聖書の所から,「土の器と神の栄光」ということについて学んでみたいと思います。
で、先ず「土の器」ということですが、この言葉は、クリスチャンが、自分のことをよく謙遜して、このように言う言葉であります。「私は、土の器に過ぎない」とか「土の器に過ぎない私ですが」なんて、よく言う訳でありますね。
確かに、私たちは「土の器」のように、もろく、壊れやすいところがあります。人間はそんなに強くはありませんし、丈夫でもありません。病気にもなりますし、怪我もする。
私は、以前、幼稚園の仕事をしておりまして、幼稚園の「交通安全教室」のときには、よく子どもたちに、こんなお話をしました。「車とケンカをしないでください。いくら強くたって車には絶対勝てませんから、車が来たらさっさと逃げましょう」。
この意味は、お分かりだとは思いますが、道路に出れば、いろいろな車が走っている訳であります。そんな車にぶつかって行ったって決して勝てない。だから「車が来たらさっさと逃げましょう」という意味ですが、実際、その通りだと思うのでありますね。
走ってくる車にぶつかれば、怪我をしてしまう。悪くすれば、死んでしまう訳であります。自転車だってそうであります。たかが自転車、されど自転車。自転車にだって、ぶつかれば怪我をする。打ち所が悪ければ、大怪我をする。
人間、それ程強くはないのであります。何かあれば、すぐ壊れてしまう。そういう「もろい存在、弱い存在」なのであります。これは肉体が弱いという、そういう意味だけではなく、精神的にだってそうであります。いくら「頑張るぞ」と気力だけはあっても、大きな障害にぶつかったりすると、挫折してしまうこともある。人から何か言われると沈んでしまう。そういうこともある。人間、それ程強くはないのでありますね。そういう意味では、人間を「土の器」にたとえるのは、「的を射た表現」と言ってもいいかも知れません。
それからもう一つ。「土の器」と申しますと、金の器や銀の器と比べたら、価値も一段と下がる。要するに、あまり価値がない存在と言ってもいいかも知れません。勿論、縄文時代や弥生時代の「土の器」には、お金では買えない歴史的な価値、あるいは骨董的な価値があります。また、有名な「何々焼き」なんていう焼き物であれば、これは高価な値段もつきます。
でも、一般的に言えば、土の器、そんなに価値があるとは言えない。落とせばすぐ壊れてしまうような、そんな「土の器」に、それ程価値があるとは言えないのではないでしょうか。
しかしながら、そんな「土の器」、もろくて壊れやすい、しかも、それ程価値があるとは言えないような、そんな「土の器」であっても、それに入れるもの、中身によっては、無限の価値が生じて来る。そういうこともあるのではないでしょうか。昔、聖書時代には、土の器、壺のようなものの中に金貨や銀貨をしまっておくという、そういう習慣があったようであります。また、ローマ帝国の凱旋将軍が行列を行なう場合、土の器に銀貨を入れて行進したというお話もあります。土の器は、それだけではあまり価値のない存在かも知れませんが、そこに入れるものによっては価値あるものとなってくるのでありますね。
ところで、この「土の器」ですが、今日の聖書の所には、このような言葉があります。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」。
ここにあります「わたしたち」というのは、この手紙を書いているパウロとその仲間たち、要するに、クリスチャンたちのことであります。クリスチャンは、「このような宝(宝物)を土の器に納めている、持っている」。ここで言われている「土の器」というのは、先程申しました「もろくて壊れやすい、しかも、それ程価値があるとは言えないような」私たち人間のことでありますが、私たちクリスチャンは「宝・宝物」を持っているというのでありますね。
それでは、その「宝・宝物」というのは一体何かということですが、それは、すぐ前の6節の言葉が示していると思います。6節には、このようにあります。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」
『闇から光が輝き出よ』と命じられた神様、天地創造の神様でありますね。その神様が、「私たちの心の内に輝いて」、私たちの心の内にも光を与えてくださって、「イエス・キリストの御顔に輝く「神の栄光」を悟る」ことが出来るようにしてくださった。イエス様の本当の姿・真の姿を知ることが出来るようにしてくださったというのであります。
イエス・キリスト。イエス様のイメージには、いろいろあります。ユダヤ人は、イエス様を神を冒涜する人間と見ました。ですから、「十字架につけよ!」と叫び、実際にイエス様を十字架につけて殺してしまいました。勿論、厳密に言えば、イエス様を十字架につけたのは、ローマの兵隊ということになりますが、「十字架につけろ」と言ったのはユダヤ人であります。
また、イエス様のイメージ。一般の人は、イエス様を偉大な人、偉大な宗教指導者と見ています。すばらしい教えを沢山語られた偉大な宗教指導者。しかし、最後には十字架に付けられて殺されてしまった人。そんなふうに考えています。
でも、クリスチャンは、イエス様を神の独り子、私たちの救い主と信じている。イエス様のあの十字架は、私たちの身代わりであり、私たちの罪を赦すためのものだったと信じている。ですから、今でも、カトリック教会の礼拝堂なんかに入りますと、十字架に付けられているイエス様の姿が礼拝堂の正面に堂々と掲げられている訳であります。(プロテスタント教会には、イエス様の像はない。十字架だけ)
確かに、イエス様は、私たちの身代わりとして十字架につけられました。そして、私たちの罪を贖ってくださり、私たちに救いの道を開いてくださったお方であります。私たちを神様のものとし、神の国へと導くために、イエス様は、あの十字架におかかりになられたのであります。イエス様の十字架、それは私たちを救うために必要不可欠のものだったのでありますね。
でも、先程の聖書の所には、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」とあります。十字架につけられているイエス様のイメージと「光り輝く神の栄光」。そこには、一見大きな隔たりがあるようにも思えます。十字架に付けられているイエス様と言えば、なんとなくみじめな、悲愴的なイメージがありますけれども、「神の栄光」なんて言えば、光り輝く、崇高なイメージがある。そうではないでしょうか。とにかく、十字架に付けられているイエス様のイメージと「神の栄光」。なかなか結びつかない。そんなふうにも思われる訳であります。
でも、イエス様の真の姿は「神の栄光」に輝いておりました。聖書にも、「イエス様の姿が変わった」というお話があります(マルコ9:2f.他)。イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネという三羽烏を連れて高い山に登られたときのお話です。「イエス様の姿が、弟子たちの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」そこに「モーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合う」というお話。
ここには、イエス様の本当の姿、真の姿が語られているのだと思います。神の独り子としての姿、神の栄光に満ちた姿。それを弟子たちは見たのではないでしょうか。勿論、この出来事は、イエス様が十字架に付けられる前の出来事であります。でも、聖書は、イエス様は本来、神の独り子として、神の栄光に満ちたお方であると語っているように思うのであります。
勿論、あの十字架で神様のご計画を成し遂げられたイエス様は、今や天に昇り、神様のみもとで、神の栄光に光り輝いている訳ですが、イエス様には、もともと光り輝く「神の栄光」があったのでありますね。
イエス様を単なる人間とみる見方もあります。偉大な宗教指導者と見る人もいます。でも、イエス様の中に神を見る。神様の栄光を見る。否、そういう見方が出来るということ、これこそ「信仰」と言ってもいいと思いますが、いずれにせよ、「イエス・キリストの御顔に、輝く神の栄光を見る」、そのことが分かる、そのことを悟る光が、私たちには与えられているのでありますね。それが宝物。
繰り返しますけれども、聖書は、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めている」と語ります。もろくて壊れやすい、しかも、それ程価値があるとは言えないような、そんな私たち、「土の器」。しかし、そんな私たちの中に、かけがえのない宝物が入っている。それはイエス・キリスト。しかも、そのイエス様は光り輝く「神の栄光」に満ちている。光り輝く「神の栄光」に満ちたイエス様を私たちは持っているのであります。
「わたしたちは、このような宝を土の器に納めている、持っている」。だとするならば、土の器に過ぎないような私たちであっても、そこに無限の価値が生じて来る。そんなふうにも言えるのではないでしょうか。私たちは、イエス様を持つことによって、価値ある者、大切なものへと変えられるのであります。
いずれにせよ、私たちにはイエス様がいます。神の栄光に輝くイエス様が、私たちの中にいてくださる。だから、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」
これは、8節、9節にある言葉でありますが、私たちの人生、いろいろな問題が起こります。どうしてこんな事が起こるのか、どうしてこうなるの、というような、途方に暮れるような問題にも出会います。でも、イエス様がいてくださいますから、私たちは、行き詰まらず、失望せず、困難を乗り越えて行くことができる。希望を持って歩むことが出来るのでありますね。
「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」 このような歩みをして行くことが出来るというのは、これは本当にありがたいことではないでしょうか。
ヘブライ人への手紙13章5節には、こんな言葉もあります。「神御自身、「私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われた」という言葉。これは旧約聖書の申命記31章6節、またヨシュア記1章5節の言葉を引用して語られている言葉ですが、神様・イエス様は、いつも私たちと一緒にいてくださり、決して私たちを見放すことも、見捨てることもない、そういうお方なのであります。
私たちは、イエス様を、土の器の中に持っています。イエス様がいつも私たちと共にいてくださいます。ですから、つらい時、悲しい時、しんどい時、どんな時でも、イエス様に祈り求め、イエス様から力をいただいて、これからも力強く歩んで行きたいと思います。
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