説教集 本文へジャンプ
説教 「振り向けば、そこに」 
               (ヨハネ 20:11-18)      2014/05/04

 先程お読みいただきました聖書の所ですが、ここには、イエス様が復活された日曜日の朝の出来事が記されております。と申しましても、今日の聖書の所は、「マリアは墓の外に立って泣いていた」なんて言葉から始まっておりまして、これだけでは「なぜマリアが墓の外で泣いていたのか」よく分かりませんので、少し前のヨハネ福音書の20章1節の所から見てみたいと思います。

 ヨハネ福音書20章1節、このように記されております。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」

 週の初めの日、日曜日のことであります。「朝早く、まだ暗いうちに」、まだ十分日が昇っていなかったようであります。夜明け前の薄暗い時だったのでしょう。マグダラのマリア、この人は、イエス様から「七つの悪霊を追い出していただいた人」ですが(ルカ8:2)、マグダラのマリアが墓に行く訳でありますね。

 この「墓」というのは、イエス様が葬られた「お墓」。当時のお墓は、横穴式になっておりまして、山の山腹のような所に横穴を掘って洞窟にし、そこに遺体を納め、お墓にしました。そして、そのお墓の入り口に大きな石や岩なんかを置いて、お墓の入り口をふさいでおいたようであります。お墓の中が見えては困りますからね。

 イエス様は、三日前の金曜日、十字架につけられました。朝9時頃に十字架につけられ、午後3時頃に息を引き取られました(マルコ16:25-37)。そして、あわただしくお墓に納められました。

 実は、イエス様が十字架につけられた金曜日は、安息日の前の日。前の日と申しましても、金曜日の夕方にはもう安息日になる訳でして、安息日になれば「いかなる仕事もしてはならない」ということで、イエス様の遺体をお墓に納めることも出来なくなる。ということで、夕方になる前に、急いでイエス様はお墓に納められた訳であります。

 このあたりのことも、聖書には詳しく載っております。アリマタヤ出身のヨセフという人が、ピラトのところに行って、イエス様の遺体を渡してくれるように願い出て、許可が出たので、イエス様を亜麻布に包んで自分の新しい墓の中に納めた、そんなお話が聖書には記されております。(マタイ27:57f.他) ヨハネ福音書には、ニコデモという人もやって来て、イエス様の葬りの手伝いをしたとあります(ヨハネ19:39-40)。

 でも、興味深いのは、このイエス様の葬りの場面には、イエス様の弟子たちが「全く顔を出さない」ということであります。今日出て来ておりますマグダラのマリアなんかの名前は出てきますが、12弟子、イスカリオテのユダはイエス様を裏切って自殺しましたので、11弟子ということになるのでしょうが、イエス様が最も信頼していた弟子たち、11弟子、彼らはイエス様のお葬式に誰一人顔を見せない。

 今まで「先生、先生」と慕ってきた師であるイエス様のお葬式、弔いの場面に、弟子たちの姿が全くない。それは、自分たちがイエス様の弟子だと分かれば、イエス様と同じように捕まって処刑されてしまうかも知れないという、そういう恐怖感があったからだとは思いますけれども、、でも、なんか悲しい感じがします。私たちの感覚からすれば、「せめてお葬式の時くらいは」なんて思うのですけれども、なんか悲しいですね。イエス様は弟子たちからも捨てられてしまったようで、せつない感じがします。

 まあ、それはともかくとして、話は戻りますけれども、あわただしく墓に納められたイエス様。その墓の前には大きな石があった訳ですが、日曜日の朝、マグダラのマリアが墓に行ってみると、その石が取りのけられていた。誰かが墓荒らしでもしたのでしょうか。マタイ福音書では、マグダラのマリアたちが墓に行くと、「大きな地震が起こり、主の天使が天から降(くだ)ってきて、石をわきへ転がした」(マタイ28:2)なんて書いてありますけれども、とにかく、墓の入り口をふさいていた石は取りのけられていたのであります。

 で、マグダラのマリアが墓の中を見ますと、そこにはイエス様の遺体はありませんでした。そこでペトロたちの所へ行って、イエス様の遺体がなくなっていることを伝えると、ペトロたちもやってきて、そのことを確認する。でも、まだイエス様が復活したとは信じられなかったというのが、今日のヨハネ福音書の書き方であります。

 で、ここまでが、今日のお話の前の所ということですが、イエス様の遺体がどこかへ消えてしまって、マリアは悲しくて墓の外で泣いていた。ここからが今日のお話の所であります。

「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」

 聖書には、よく天使が登場しますけれども、今日の所もそうであります。イエス様の遺体はなくなっていましたけれども、その代わりに天使たちがイエス様の遺体の置いてあった所にいたというのであります。そして、天使たちはマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねた。マリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答える訳ですが、ふと後ろを振り返ると、そこに誰かが立っていました。

 聖書には、「イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」とあります。まさか死んだイエス様が立っているとは思わない。誰だってそうだと思いますね。死んだ人間が、墓の外に立っている。死人が生き返るなんて誰も思わない。

 マリアは、その人が誰であるか分からなかったのであります。ですから、イエス様から「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」なんて聞かれても、マリアは、その人が園丁(口語訳「園の番人」)だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」なんて答える。

 でも、イエス様が、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言いました。「それは「先生」という意味である」という説明がついておりますが、このとき初めてマリアは、その人がイエス様だと分かったのであります。目の前にいても、その人がイエス様だとは分からなかった。でも、イエス様から「マリア」と言われて、はじめてイエス様だと分かる訳であります。

 イエス様から「七つの悪霊を追い出していただいた」マグダラのマリア、いわば「命の恩人」とも言えるイエス様。そのイエス様と一緒に歩んで来たマリア。よもやイエス様の顔を忘れるはずはない、イエス様の声を忘れるはずはない、私たちは、そんなふうに思います。でも、マリアには分からなかったのでありますね。

 これは、イエス様の復活という出来事が、如何に、理解するのに難しいことか、私たちの目や耳で理解することが如何に困難なことか、ということを語っているお話とも言えると思います。イエス様の復活、それは私たちの五感、あるいは、私たちの頭で理解すべき、そういう事柄ではないのだろうと思います。むしろ、私たちの心を開くとき、分かってくる事柄なのではないでしょうか。

 マグダラのマリアは、イエス様から「マリア」と呼びかけられた時、初めてイエス様だということが分かりました。イエス様から名前を呼ばれて初めて、イエス様であることに気づくのであります。私たちも、イエス様から呼びかけられています。そのイエス様の声を聞くとき、私たちもまた、イエス様が今も生きておられるということが分かるのではないでしょうか。

 勿論、イエス様の声を聞くと申しましても、私たちの肉体の耳で聞く訳ではありません。私たちの心の耳で聞くのであります。いずれにいたしましても、イエス様の呼びかけの声が聞こえてくれば、しめたものと言えます。

 ところで、今日のお話、このあとイエス様は、マリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」とか、「弟子たちのところへ行って、こう言いなさい」とか、いろいろ書かれておりますが、今日は、それらについては省略いたしまして、その代わりに、今までのお話から「振り返れば、そこに」ということについて少しばかり考えてみたいと思います。

 繰り返しになりますが、マリアはイエス様から「マリア」と呼びかけられ、振り向くと、そこにイエス様がおられた訳であります。「振り返れば、そこに」。

 私たちは、神様・イエス様というと、いつも私たちの前の方にいて、私たちを導き、引っ張って行ってくださるお方、「こっちに来なさい。この道を歩みましょう」と、導いてくださるお方、そんな姿を想像いたします。実際、そういうこともよくあります。

 でも、時には一生懸命前を見ていても、イエス様が見えないこともある。神様が分からなくなることもある。「イエス様どこに行ったのですか。神様、どこにおられるのですか」。前ばっかり見ていても、神様・イエス様が見えない、分からない、そういうこともある。

 そんなとき、そっとうしろを振り向いて見てはどうでしょうか。マリアのうしろにはイエス様がいたのでありますね。「振り向けば、そこにイエス様がいてくださる」。そういうこともまたあるのではないでしょうか。前ばっかり見ていても気がつかない。でも、「振り向けば、そこに」。

 有名な「あしあと」(Footprints)という詩があります。こんな詩であります。

  ある夜、私は夢を見た。
  私は、主と共に、なぎさを歩いていた。
  暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
  どの光景にも、砂の上に二人の足あとが残されていた。
  一つは私の足あと、もう一つは主の足あと(イエス様の足跡)であった。

  これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
  私は、砂の上の足あとに目を留めた。
  そこには一つの足あとしかなかった。
  私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

  このことがいつも私の心を乱していたので、
  私はその悩みについて主にお尋ねした。
  「主よ、私があなたに従うと決心したとき、
  あなたは、すべての道において、私と共に歩み、
  私と語り合ってくださると約束されました。

  それなのに、私の人生のいちばんつらい時、
  一人の足あとしかありません。
  いちばんあなたを必要としたときに、
  あなたが、なぜ、私を 捨てられたのか、
  私にはわかりません」。

  そのとき、主は、 ささやかれた。
  「私の大切な子よ、私は、あなたを愛している。
  あなたを決して見捨てたりはしない。
  ましてや、苦しみや試みの時に。

  足あとがひとつだったとき、
  私はあなたを背負って歩いていたのだ。」

 この詩は、あまりにも有名なので、皆さまよくご存知だと思いますが、人生で最もしんどい時、つらい時、イエス様のことが分からなくなることがある。イエス様に見捨てられてしまったように感じることがある。今までイエス様と一緒に歩んで来た道なのに、そこには一人分の足跡しか見えない。それは、自分の足跡だと思ってしまう。でも、実は、その足跡は、イエス様が私たちを背負って歩いてくださった足跡。だから一人分の足跡しかなかったというのが、この詩であります。

 イエス様はいつでも私たちと一緒にいてくださるのでありますね。私たちの重荷を一緒に背負ってくださり、時には、私たち自身を背負って歩んでくださる。でも、私たちはなかなかそれに気がつかない。こんなに大変なんだから、イエス様どうぞ助けてください。導いてください。でも、イエス様は応えてくれない。

 私たちは、イエス様が見えなくて、分からなくて、イエス様に見捨てられてしまったかのように思う。一生懸命前を見ても、上を見上げても、イエス様が見えない。そんなとき、ふと立ち止まって「後ろを振り向けば、そこに」、そこにイエス様がいてくださる。あるいは、イエス様が私たちを背負って歩いてくださっている。そういうこともあるのではないでしょうか。

 イエス様は、「こっちに来なさい。この道を歩みなさい」と、前から、あるいは、上から私たちを導いてくださるだけではありません。時には、私たちの後ろにいて、うしろから私たちを支えてくださる、そういうお方でもあります。「うしろにいてくださるイエス様」、振り向けば、そこにイエス様。そういうこともあるということを、私たちは覚えたいものであります。

 どんな時でも、悲しい時、つらい時、困った時、どんな時でも、イエス様は、私たちと一緒にいて下さいます。イエス様は「世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださる」と約束してくださったのであります。私たち、よみがえられたイエス様がいつも私たちと一緒にいて、共に歩んでくださることを信じ、これからもイエス様と共に歩みを進めて行きたいと思います。
 

このページの先頭へ
説教集目次へ
三条教会トップ゜ページへ
燕教会トップページへ