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説教 「よみがえられた主」 
               (ルカ 24:36-43)      2014/04/20
(イースター礼拝 於・燕教会・三条教会)
 イースターおめでとうございます。日曜日の朝、イエス様はお墓からよみがえられました。イエス様は金曜日に十字架につけられて殺され、お墓に葬られましたけれども、日曜日の朝、お墓からよみがえられたんでありますね。で、このイエス様のよみがえり、これを「復活」と言いますけれども、このイエス様の復活の出来事をお祝いするのが「イースター」(復活祭)であります。

 テレビなんかでも時々イエス様のことが取り上げられますけれども、そこで紹介されるのは大体が「イエス・キリストの生涯」というものであります。この世での活動を紹介し、最後は十字架で殺されるというお話。復活のお話というのは、ほとんど取り上げられません。

 確かに、生涯と言えば、生まれて死ぬまでということでありますから、イエスの生涯は、十字架で殺されておしまいということになるのかも知れません。でも、イエス様の場合、このあとのことが大事なんでありますね。

 イエス様を裏切り、イエス様を見捨てた弟子たちが、どうしてまた再びイエス様を信じるようになったのか。それは、イエス様の復活という出来事があったからであります。イエス様の復活、お墓に葬られたイエス様が三日目によみがえった。ここから、弟子たちは新しい歩みを始めて行ったのであります。イエス様の復活がなければ、キリスト教はこの世に誕生しなかったと言ってもいいと思います。

 イエス・キリストの生涯は、イエス様が十字架の上で亡くなって、それでお仕舞い。しかし、キリスト教は、イエス様の復活から始まって行くのであります。イエス様の復活。テレビなんかでは、こういうことは取り上げません。それは一旦死んだ人間がよみがえるなんてナンセンスだからであります。

 しかし、聖書は、イエス様の復活によって、イエス様を裏切った弟子たちが変えられ、そしてイエス様のことを宣べ伝えて行ったと語るのであります。イエス様の復活を体験する。ここからイエス様を本当に信じる人たちが生まれ、そしてキリスト教という宗教も生まれた。ですから、復活ということが分からないと、本当はキリスト教というものも分からない。そんなふうにも言えると思います。

 ところで、この復活ですけれども、聖書には、このイエス様の復活のお話がいろいろと記されております。今日は先ずそのいくつかを紹介することから始めたいと思います。

 先ず、聖書には、日曜日の朝早く、マグダラのマリアたちが、イエス様のお墓に行くと、突然ぐらぐらと大きな地震が起こり、天使が空から下りて来て、お墓の入り口にあった大きな石をわきへ転がしてくれた。そして、イエス様がよみがえったと知らせてくれたというような、そういうお話があります(マタイ28:1f.)。

 また、この時、イエス様は実際にマグダラのマリアの前にご自身を現され、「おはよう」と言われ、弟子たちにイエス様が復活されたということを知らせるようにと命じられたというお話もあります(ヨハネ20:11f.)。

 また、このお話を聞いた弟子たちが、お墓に行ってみると、イエス様のお墓は確かにからっぽだったというようなお話(ルカ24:12,ヨハネ20:1f.)。それから、復活されたイエス様がいろんな所で、弟子たちに現れたというようなお話もあります。

 例えば、弟子たちが、ユダヤ人を恐れて(イエス様のように十字架につけられたら大変だということで)、自分たちのいた家の戸に鍵をかけてじっとしていたら、突然イエス様が彼らの真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と語られたというようなお話(ヨハネ20:19f.)。

 しかし、その時、そこにいなかったディディモと呼ばれていたトマスという弟子。彼は「自分の指をイエス様の釘跡や脇腹に入れてみなければ決して信じない」と言った。釘跡(くぎあと)というのは、イエス様が十字架に付けられた時、大きな釘で手や足を打ち付けられた訳ですね。その釘跡(くぎあと)があるはず。また、イエス様は脇腹を槍で突かれたので、その傷跡もあるはず。

 トマスは、そういうものを実際に見なければ、そして、自分の指をそういう釘跡や脇腹に実際に突っ込んで見なければ、「決して信じない」と言ったのであります。しかし、そのあと、イエス様はこんなトマスの前にも現れ、「私の手を見なさい。脇腹にも手を入れてみなさい」と言って、トマスを信じる者へと変えてくださった。そんなお話もあります(ヨハネ20:24f.)。

 また、二人の弟子がエマオという村に向かって歩いていると、突然イエス様が現れ、彼らに話しかけて来た。最初、弟子たちは、それがイエス様だとは分かりませんでしたけれども、エマオで一緒に食事をしていた時、彼らはその人がイエス様だと気づいたというお話もあります(ルカ24:13f.)。

 そして今日の所でありますけれども、今日の所は、今申しましたエマオでの出来事、そのことを、帰ってほかの弟子たちに話している時、突然イエス様が、彼らの真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言われたというお話であります。

 これは、先程の家の戸に鍵をかけていた時に、突然イエス様が彼らの真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と語られたというお話と同じお話なのかも知れませんが、今日の所には、このイエス様を見た時の弟子たちの反応が面白く語られております。

 弟子たちは、イエス様を見た時「亡霊を見ているのだと思った」というのでありますね。亡霊、聖書には「幽霊」(マタイ14:26,マルコ6:49)というような表現も出ていますので、昔から、亡霊とか幽霊というものを信じていた人がいたようで面白いんですけれども、いずれにせよ、弟子たちは、復活されたイエス様を見た時、「亡霊を見ているのだと思った」というのであります。

 これは、イエス様を見ても、すぐにはイエス様を信じることが出来なかったということでありますね。一旦死んだ人間が、突然目の前に現れる。亡霊じゃないか、そんなふうに思う。これは当たり前かも知れません。

 しかしながら、その時イエス様はこのように言われました。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなた方に見える通り、私にはそれがある」。こう言って、イエス様は「手と足をお見せになった」といいます。

 確かに、亡霊には、肉も骨もない。しかし、イエス様には肉も骨もあったんでありますね。しかし、それでもまだイエス様を信じられないという、そういう人たちもいたようで、イエス様は、このあと今度は焼いた魚さえ食べてみせたというのが、今日のお話の所でおります。

 確かに、聖書には、イエス様が復活されたというお話が沢山記されております。しかしながら、どのお話を読んでも、みんながすぐイエス様の復活を信じたというふうには書かれていない。むしろ、みんなイエス様の復活がなかなか信じられなかったという、そういうお話になっております。

 これはある意味において当たり前のことではないでしょうか。一旦死んだ人間がよみがえる。これは不思議体験ゾーンであります。私たちの経験から言えば非常識な出来事であります。だから、なかなか信じられないのであります。

 しかし、復活されたイエス様と出会った人たちは、最初はなかなか信じられなかったけれども、最終的には信じる者となり、イエス様から力を与えられ、勇気を与えられ、希望をもって歩み出して行ったのであります。そして、キリスト教という宗教を生み出して行った。

 キリスト教は、復活の宗教であります。イエス様の復活、そして、私たち一人ひとりもまた新しくよみがえることが出来るという宗教。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。どんな人間でも古い自分に死んで、新しく生まれ変わる事が出来る。そう聖書は証ししているのであります。誰でも、イエス様を信じるならば、新しい人生を歩み出すことが出来る。そう教えているのがキリスト教であります。

 キリスト教には「洗礼」という儀式があります。それは、古い自分に死んで、新しく生まれ変わる儀式。イエス様の十字架によって罪赦され、神様によって新しい人間として、新しい出発をして行くという儀式。クリスチャンは「洗礼」を受けることによって新しい人生を歩み出して行くことが出来るのであります。

 ところで、復活されたイエス様。今どこにおられるかと言いますと、聖書は「天に帰っておられる」と教えている訳であります。イエス様は弟子たちの見ている前で天に昇られた、「昇天された」と教えている。ということは、今、イエス様はこの世にはいない。確かに、そんなふうにも言えるかも知れません。

 しかしながら、今日の聖書の所には、こんなお話も書いてあります。イエス様は「亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われてから、「ここに何か食べ物があるか」と言われ、弟子たちが「焼いた魚を一切れ差し出すと、(イエス様は)それを取って、彼らの前で食べられた」というお話。

 このお話は、確かにイエス様は肉体をもって復活されたんだという、そのことを証しするために「焼いた魚さえ食べられた」というお話になっておりますけれども、このお話を象徴的に理解しますと、イエス様は私たちの日常生活の中にいてくださるということを語っているお話と言ってもいいのではないでしょうか。

 天に帰られたイエス様は、今直接、私たちの目で見ることは出来ません。でも、聖書の御言葉を通し、また、信仰をもってイエス様を見上げるとき、イエス様はいつでも、またどこにいても、私たちと一緒にいてくださる。そして、私たちが差し出す「焼き魚」を食べてくださる。要するに、イエス様は私たちの日々の生活の中に、いつも共にいてくださるという、そういうお話でもあると思うのであります。

 イエス様の復活、それは「今もイエス様は生きておられる」ということを教えているだけではなく、イエス様は、いつも、私たちの日々の生活の中に共にいてくださるということを教えている聖書の大切な教えであります。

 イエス様は「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださいました。よみがえられたイエス様は、いつも私たちと一緒にいてくだるのであります。私たちと一緒に歩んでくださり、また、私たちを守り導いてくださる。ですから、私たちは、そのことを信じ、イエス様によって力を与えられ、希望を持って、これからの人生も、力強く歩んで行きたい、そんなふうに思います。
 

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