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説教 「イスカリオテのユダ(神様の計画2)」 
               (マタイ 26:14-25)      2014/04/13
(於・燕教会)
 今日のお話は、イスカリオテのユダのお話であります。イスカリオテのユダと申しますと、イエス様を裏切った人物として有名ですけれども、今日は、このイスカリオテのユダのことについて少し考えてみたいと思います。
 ということで、今日の所、先ずこのようなことが記されております。

 「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男(イエス様のことですね、イエス様)をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った」というのであります。そうしますと、祭司長たちは、ユダに「銀貨三十枚を支払うことにした」。

 銀貨30枚というのは、旧約聖書に出てまいりますシェケル銀貨のことで、奴隷一人分の値段だと言われております。ですから、イエス様は、奴隷を売ったり買ったりする値段と同じ金額で売り渡された、そんなふうに言ってもいいと思います。

 ちなみに、シェケル銀貨30枚の値段ですが、これはデナリオンで言えば、120デナリオン。1デナリオンを5,000円とすれば、120×5,000で 600,000円ということになります。とにかく、「銀貨三十枚を支払う」ということで、ユダと祭司長たちの交渉は成立しました。そして、この交渉が成立してから、ユダは「イエス様を引き渡そうと、良い機会をねらっていた」というのが、今日の前半部のお話であります。

 ところで、イスカリオテのユダ、彼はどうしてイエス様を裏切ろうなんて思ったんでしょうか。先程の所には、「イエス様を引き渡せば、幾らくれますか」なんて言葉も出てまいりますので、ユダはお金が欲しかった、そんなふうにも考えられます。

 しかしながら、ユダだって、イエス様に従う決心をしたときは、自分の持っている財産や仕事、そういうものをみんな捨ててイエス様に従って行ったのではないでしょうか。だとするならば、単なる「お金」だけの問題ではなかったとも思えるのであります。

 勿論、人間というのは時と共に変わって行くものですから、最初はすべてを捨ててイエス様に従って行ったとしても、次第にお金のことも気になって、お金が欲しくなった、そんなふうにも考えられます。ルカ福音書には、「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」(ルカ22:3)なんて言葉もありますから、急に魔が差してお金が欲しくなった。

 あるいは、ヨハネ福音書には、ユダは「金入れ(財布)を預かっていながら、その中身をごまかしていた」なんて言葉もありますから、ユダは、お金のことには人一倍敏感だった、そんなふうにも考えられます。しかしながら、お金だけのことで、ユダはイエス様を裏切ったのでしょうか。決してそれだけではないと思います。

 それでは、何が原因でユダはイエス様を裏切ろうとしたのか。いろいろなことが考えられると思いますが、一つは、やはりイエス様に対するつまずきということが考えられるのではないでしょうか。3年近くイエス様と共に生活してきたユダであります。最初は、確かに、この人こそ、イエス様こそ、神から遣わされた神の子、メシア・キリストに違いない、そんなふうに思っていたんだろうと思うのであります。でも、段々とイエス様のことが分からなくなってしまった。

 例えば、すぐ前の所に「ベタニヤでイエス様が香油を注がれる」というお話がありますけれども、マタイ福音書では「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と非難したのは「弟子たち」とありますが、ヨハネ福音書では、これはユダの言葉として記されております。ユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言ったというのであります。

 300デナリオン、今で言えば200万とか300万もする高価なナルドの香油であります。それをおしげもなくイエス様に注ぎかける。それを見たら、誰だってもったいない、なぜ、こんな無駄遣いをするのかなんて思うのではないでしょうか。これは決してイスカリオテのユダだけの思いではなかったと思うのであります。だからこそ、マタイ福音書では「弟子たち」、マルコ福音書では「そこにいた何人かの人たち」が、こう言った、ということになっているんだと思います。

 確かに、200万、300万もする香油、これがおしげもなくイエス様に注がれる。こんな無駄使いはない、もったいない、そんなふうにも思われるのであります。しかも、イエス様は、このように非難した人々を逆にたしなめて、こんなことを言います。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。これがイエス様の言葉であります。

 このイエス様の言葉、なんと身勝手なイエス様という、そういう感じもするのではないでしょうか。「わたしに良いことをしてくれたのだ」。イエス様に良いことをすれば、他の人、貧しい人はどうだってもかまわない、そんな感じのする言葉でもあります。勿論、最後まで、ちゃんと読めば、イエス様の言わんとしている意味は分かる訳ですけれども、カッカッしているとき、頭に血が上っている時などは、相手が何を語ろうとしているのか、冷静に判断出来ない。例えば、香油では何ですから、変わりに、みんなが集まっている所で、誰かが200万円とか300万円という、そういうお金をばらまいたとすれば、一瞬騒然となるでしょうし、パニック状態になるのではないでしょうか。そういう中で、真面目に何かを語ったとしても、正確にそれを理解することは難しいと思います。むしろ、話された言葉の一部だけを聞いて、それで判断してしまう。そういうことも多いのではないでしょうか。

 ベタニアでの香油注ぎの、この出来事も、多分、イエス様の言葉を、冷静に受けとめ、イエス様が何を語ろうとしたのか、それを本当の意味で理解できた弟子たちというのは一人もいなかったのではないでしょうか。多分、そのときは弟子たちには分からなかったんだろうと思います。そもそも「葬りの準備」なんて言葉を聞いても、現実的には、イエス様はまだピンピンしている訳ですから分かりようがない。むしろ、イエス様が最初に語った「わたしに良いことをしてくれたのだ」という、そういう言葉、そういう自分さえよければ良いというような、そういう言葉だけが、弟子たちの心に残ったのではないでしょうか。そして、この弟子たちの中に、イスカリオテのユダもいたのであります。

 ユダは、前々からイエス様に疑問を持っていました。神から遣わされたメシア・キリスト。しかし、イエス様はなかなかメシア・キリストらしいことをしないのであります。当時の人たちが持っていたメシア・キリストのイメージというのは、あのダビデやソロモンのような王様のイメージでありました。敵と戦い、人々を導く民族の指導者、政治的な指導者、王様としてのメシア・キリストなのであります。

 当時のユダヤはローマ帝国に支配されておりましたので、自分たちの国を独立させ、人々をローマから解放する、そういう民族の指導者・英雄としてのメシア・キリスト。みんながそういうメシア・キリスト像というものを考えていたのであります。

しかしながら、イエス様は、そういう動きを全く見せない。しかも、最近は、「自分は祭司長や律法学者たちに捕まり、十字架に付けられて殺される」とか「三日目に復活する」なんて、訳の分からないことを繰り返し言い始めている。イスカリオテのユダではなくても、弟子たちみんな「イエス様はどうなっちゃったんだい」なんて思っていたのかも知れません。

 しかし、それだけではありません。いつもは貧しい人たちのことを本当に親身になって憐れみ助けていたイエス様なのに、「200万も300万もする香油を注がれて」有頂天になっている。「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と言えば、逆に「私に良いことをしてくれたんだ」なんて言う。弟子たちにしてみれば、何がなんだかさっぱり分からない。みんながイエス様のことがよく分からなくなっていたのであります。そういう意味では、みんながイエス様を裏切る可能性を持っていた。そんなふうに言ってもいいかも知れません。

 今日のお話の後半部で、みんなが集まって「過越の食事」をしていたとき、イエス様は「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われました。そのとき、弟子たちはみんな「主よ、まさか私のことではないでしょうね」なんて言いました。この「まさか私のことでは」という言葉。これは、言い換えれば、弟子たちみんなに「その可能性があった、イエス様を裏切る可能性があった」、そういうことを示している言葉と言ってもいいと思います。実際、あの第一弟子と言われていたペトロだって、イエス様が逮捕された時「私はあんな人知らん、イエス様なんて知らない」と3度も言ってしまった訳であります。ですから、弟子たちみんながイエス様を裏切る可能性があった、そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。

 そういう中で、イスカリオテのユダがイエス様を裏切った。それは自明の事実でありますけれども、その理由はといいますと、いろいろ考えて見ましたけれども、本当の所はよく分からない。金入れ(財布)を預かっていて、その中身をごまかしていたユダ、魔が差して(サタンが入って)イエス様を売り渡したのか。あるいは、イエス様に対する誤解から、イエス様につまずいて裏切ってしまったのか。本当の所は誰にも分かりません。分からないのであります。

 しかしながら、このようなユダの裏切りを、イエス様はよく知っておられたようであります。「あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている」とイエス様が言われたとき、弟子たちは「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めました。そして、そのあとイエス様が「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る」と言ったとき、ユダは「先生、まさか私のことでは」と言ったといいます。それに対して、イエス様は「それはあなたの言ったことだ」と答えておりますけれども、この最後にある「それはあなたの言ったことだ」という言葉、これは前の口語訳の聖書では「いや、(それは)あなただ」と訳しておりました。原文のギリシア語を直訳すれば、今の聖書(新共同訳聖書)のような訳(やく)になる訳(わけ)ですけれども、文脈から言えば、口語訳のような「それはあなただ」というような、そういう意味になると言ってもいいと思います。要するに、イエス様はユダが裏切るということを知っていた。弟子たちみんながイエス様を裏切る可能性があった訳ですけれども、その中でも、イスカリオテのユダがイエス様を裏切る。それをイエス様は知っていたんでありますね。

 それでは、どうしてイエス様は、そんな自分を裏切るようなユダを、12弟子のひとりにしておいたのでしょうか。イエス様には、12弟子以外にも沢山の弟子がおりました。例えば、ルカ福音書には「イエス様は、ほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」(ルカ10:1f.)なんてことも書いてありますし、いわゆる女性の弟子たちなんかも入れますと、もっともっと沢山の弟子たちがいたと言ってもいいと思います。そんな沢山いた弟子たちの中でも、イエス様の働きを中心的に担っていたのが、いわゆる12弟子。ですから、12弟子というのは、特にイエス様によって選ばれた精鋭部隊。そんな精鋭部隊の中に、イエス様を裏切るような人物、イスカリオテのユダというような人物が入っていた。

 イエス様は、どうしてご自分を裏切るようなユダを、12弟子のひとりにしておいたのでしょうか。しかも、最後の晩餐、今日の過越の食事の時には、既にもうユタが裏切ることは分かっている。にもかかわらず、イエス様はユダを除名もせず、なすがままにさせておいた。なぜか。実は、これも一つの謎なんでありますね。

 確かに、聖書には分からないことがいっぱいあります。先程のイスカリオテのユダが、なぜイエス様を裏切ったのか。本当の所はよく分かりません。また、そんなユダを、イエス様は裏切ると分かっていながら12弟子の一人としておいておいた。しかも、最後の晩餐まで一緒に守った。これもなぜなのか、よく分かりません。

 ついでに言えば、今日の後半部の中で、イエス様は「人の子(イエス様)を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」なんてことも言っておられる。「生まれなかった方がよかった」なんて言葉、いくらイエス様だって、これはちょっと言い過ぎじゃないかなんて思う人もいるかも知れません。

 勿論、これはマタイが属していた教会の言葉として理解する人もおりますけれども、でも、こんな人を呪うような言葉が聖書に書かれているということ自体、違和感を感じる人もいるのではないでしょうか。私たちは、聖書を読んでいて、分からないことがいっぱいあります。だからこそ逆に言えば、聖書には尽きない宝物が隠されている、そんな言い方も出来るとは思うのですけれども、本当に分からないことは沢山あるのでありますね。

 しかしながら、一つだけ確かなことがあります。それは、イエス様が十字架の道を歩まれたのは、神様のご計画によるものだったということであります。繰り返しお話しておりますが、使徒言行録の2章23節には、こんな言葉があります。「神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、イエスをあなたがたに引き渡された」。そして「十字架につけて殺してしまった」(使徒2:23)。今日の後半部の所でも、イエス様は「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」と言っておられます。「聖書に書いてあるとおり」。これは多分イザヤ書53章の「苦難の僕」あたりのことを言っているのかも知れませんが、いずれにせよ、イエス様の十字架というのは、聖書の預言の成就、神様のご計画に従ってなされたものであるということを示している言葉であります。

 イエス様は、イスカリオテのユダが裏切ることを知っておりました。これから、十字架に付けられることも知っておられました。しかし、それでもイエス様は十字架行きをやめませんでした。なぜならば、それが神様のご計画だったからであります。私たちの罪を赦し、私たちを神様のものとするためには、イエス様の十字架はなくてはならないものだったのであります。

 イエス様は、そのことをよくよくご存知でしたから、自分がどんなにつらくても、苦しくても、その道を歩み続けました。神様のご計画を成就するために、イエス様は歩み続けたのであります。そして、十字架の上で「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言って、そのご計画を見事成就されました。

 イエス様の十字架は、ただ成り行き上、そうなったというものでは決してないのであります。ユダが裏切ったから、イエス様は捕まった、そして十字架に付けられた。ただそういうことだけでは決してない。イエス様は、神様のご計画に従い、私たちの罪を赦すために、十字架の道を歩まれたのであります。私たちはこのことを今日も覚え、残りのレントの期間を過ごして行きたいと思います。

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