今日のお話は、イエス様が「ベタニアで香油を注がれる」というお話。受難週のことで言えば、水曜日の出来事であります。
イエス様たちは、エルサレムから東の方に約3㎞位行った所にあるベタニアという村に行かれたようであります。ベタニアには、イエス様がよみがえらせたラザロとその姉妹マルタとマリヤの家がありました。今日のお話では、「重い皮膚病の人シモンの家におられたとき」となっておりますが、ヨハネ福音書には、ラザロも、またマルタもマリアもいたということですので(ヨハネ12:1-3)、もしかしたら、今日のお話は、ラザロの家での出来事だったのかも知れません。
ちなみに、今日のお話、それから同じお話が載っておりますマルコ福音書では、イエス様に高価な香油を注いだのは「一人の女」としか書かれておりませんが、ヨハネ福音書では、今お話ししましたラザロの姉妹マルタとマリアの、マリアの方だということになっております。
福音書というのは、イエス様が亡くなってから何十年も経ってから書かれたものでありますから、正確に、いつ、どこで、どういうことがあったのかということは、あまりはっきりとはいたしません。先程のヨハネ福音書の記事では、このベタニアでの香油注ぎは「過越祭の六日前」という事になっておりますので(ヨハネ12:1)、日にちもかなり違う訳であります。
聖書には4つの福音書があり、同じようなお話も沢山ありますが、厳密に比べて行きますと、いろいろな違いが出てまいります。それはやはりイエス様が亡くなられてから何十年も経ってからまとめられたという、そういう事情があるからであります。
しかしながら、イエス様がこういうお話をされた、こういう事をなさった、あるいは、こういうことが行われたということは、弟子たちの記憶にしっかりと残っていたんだと思うのでありますね。そして、それが後に福音書というかたちにまとめられた。ですから、日にちや、登場人物、あるいは、表現に多少の違いがあっても、聖書のお話は、それなりに信頼出来ると言ってもいいと思います。
で、今日は、先程申しましたように、イエス様が「ベタニアという村で香油を注がれる」というお話ですが、このお話で大切なこと、いろいろあると思いますけれども、今日は特に説教題にありますように「神様のための無駄使い」ということについて少し考えてみたいと思います。
「無駄遣い」なんて言いますと、「もったいないお化け」が出てきそうで、まあ、あまり良い印象を持たれない方もおられると思いますが、神様のためならば、無駄使いも必要、むしろ神様のためならば、無駄使いと思えるようなことであっても積極的にしていくべきではないかという、そういうお話であります。
ということで、今日のお話ですが、イエス様がベタニアという村で、重い皮膚病の人シモンの家におられたときのお話。「一人の女の人が、極めて高価な香油(マルコやヨハネの福音書では、ナルドの香油となっておりますが、極めて高価な香油)の入った石膏の壺を持って近寄って来て、食事の席に着いておられたイエス様の頭に、その香油を注ぎかけた」というんであります。
なぜ、こんなことが起こったのか。なぜ、女の人は突然イエス様に香油を注いだのか。聖書は何も言っておりません。ですから、これは本当は謎なんですけれども、イエス様と全く関係ない人ならば、突然こんなことをするはずはないとも思うのでありますね。だとすれば、この人は何らかのかたちでイエス様と関わりのあった人、そんなふうに考えることもまた出来ると思います。
で、そこで考えられるのが、先程申しました、死んでしまったラザロをよみがえらせてもらったマリアという人物、ヨハネ福音書ではそうなっている訳ですけれども、でもマリアだと考えれば、それなりに納得がいくと思うのでありますね。自分の兄弟であるあのラザロをよみがえらせてくださったイエス様に、最高の感謝の思いを表そうとして、イエス様に高価な香油を注いだ。それなりに意味が通るのではないでしょうか。
勿論、イエス様の頭に香油を注いだということで、どこの誰かは分からないけれども、イエス様こそメシア・キリストであることを示すために香油が注がれたという、そういう解釈・説明もあります。メシア・キリストというのは、もともと「油を注がれた者」という意味ですから、どこの誰かは分からないけれども、神様に導かれて、神様が女の人を使わして、イエス様の頭に香油を注がせた。それによって、神様は、イエス様こそメシア・キリストであることということを明らかにしたんだという、そんな解釈もまたある訳であります。
まあ、解釈は自由ですから、いろいろあっていいと思うのですけれども、とにかく、この女の人、突然、イエス様の所にやって来て、イエス様の頭に高価な香油、ナルドの香油を注いだというのでありますね。で、これだけのことであれば別に何も問題はない訳ですけれども、これを見ていた弟子たちがいた訳であります。
で、彼らは言わなきゃいいのに、こんなことを言ったといいます。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。これを高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」。聖書には、「弟子たちはこれを見て、憤慨して」、こんなことを言ったとあります。
なぜ弟子たちは憤慨したのでしょうか。それは、この香油があまりにも高価だったからであります。どのくらい高価だったかというと、マルコ福音書やヨハネ福音書には、こんなふうに記されております。 マルコ福音書には「300デナリオン以上に売って」、また、ヨハネ福音書には「300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」とあります。
当時、一日の労働者の賃金が1デナリオンだったということですから、大体1年分の給料。安息日には仕事はしませんでしたから、仕事をしない日を除くと、300デナリオンと言いますと、大体1年分の給料に相当する訳でありますね。 私たちの現代的な感覚で言えば、少なくても300万~500万という、そういう金額と言ってもいいと思います。
仮に、1日の賃金を5000円としても、300デナリオンだったら、3×5=15。150万円。それでも相当な金額であります。そんな高価な香油をおしげもなくイエス様に注いだということですから、これはただごとではありません。弟子たちが、憤慨して、「もったいない」「無駄遣いだ。それを売って、貧しい人々に施した方がずっと役に立つ」と言ったのも、うなずけるのではないでしょうか。
しかし、この時、イエス様は、こんなふうに言われました。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」と、こんなふうに言われたといいます。これは、イエス様の弁解の言葉とも受けとめることが出来ると思いますけれども、それだけなんでしょうか。確かに、「私によいことをしてくれた」なんて言葉、これは、イエス様のためにするのであれば何でも許される、無駄使いでも何でも許されるという、そんな感じのする言葉であります。
しかし、イエス様の言葉は、ここで終わっている訳ではありません。続けて、こんなふうにも言われた訳であります。「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれたんだ」と、こうも言われました。
イエス様は、「イエス様の葬りの準備」として、この香油注ぎというものを受けとめておられるのであります。勿論、このイエス様の言葉は、この女の人をかばうために言われた言葉かも知れません。折角、イエス様に高価な香油を注いだのに、弟子たちから「もったいない、無駄使いだ」と非難されたこの人。イエス様は、この人が困っているのを見て、「この人を困らせてはいけない」。「この人は、私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれたんだ」と、こう弁護されたのかも知れません。
しかしながら、この「私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた」という、この言葉は、とっても重い言葉だと思うのでありますね。というのは、イエス様はこれから十字架の道を歩んで行かれる訳であります。今日は水曜日。そして、あした、あさって金曜日には、イエス様は確実に十字架に付けられて殺されるんであります。それは神様のご計画として確かなことなんでありますね。
イエス様はそのことを充分よくわきまえて「私を葬る準備」と、こう語られたのではないでしょうか。だとするならば、この「葬りの準備」という、この言葉、これは単なる弁解の言葉ではない。香油を注いでくれた女の人、彼女をかばうためだけの言葉ではないと思うのであります。むしろ、私たちは、この言葉にもっと積極的な意味を見出し得るのではないでしょうか。
それでは、それは何かということになる訳ですけれども、私は、それは神様のご計画のために、イエス様が用いてくださるという、そういうことではないかと思います。この女の人が、どういう思いで、イエス様に香油を注いだのか、それは分かりません。感謝の思いからか、あるいは、神様に導かれて、イエス様こそメシア・キリストであることを示すためにそうしたのか、はたまた、それは単なるイエス様に対する愛情表現だったのか、それは分かりません。
でも、いずれにせよ、イエス様は、この人の行為を「イエス様の葬りの準備」として、受けとめてくれたのであります。「葬りの準備」。当時のユダヤでは、人が死んだ場合、葬る前に、遺体に香油を塗る習慣がありました。イエス様はまだ死んではおりません。でも、イエス様はこれから十字架の道を歩んで行かれるのであります。
先程も申しましたように、今日は水曜日、明日、明後日金曜日には、イエス様は確実に十字架に付けられて殺されるんであります。そのことは、「神様のご計画」なんでありますね。イエス様は死んで葬られるのであります。そのイエス様の葬りの準備として、この香油注ぎという出来事が行われた。少なくともイエス様はそう受けとめてくださったのであります。言い換えれば、イエス様はこの香油注ぎを神様のご計画のために用いられた。そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。
繰り返しますけれども、この香油を注いだ人が、どんな思いでイエス様に香油を注いだか、それは分かりません。しかし、イエス様はそれを神様のご計画のために用いられたのであります。否、用いてくださるのがイエス様なのであります。
しかも、この香油注ぎという出来事、それはイエス様の十字架と切っても切れない関係にある。イエス様の葬りの準備としての香油注ぎですから、十字架とは切っても切れない関係にある。だからこそ、イエス様は最後にこのように言われたのではないでしょうか。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。
キリスト教の福音が宣べ伝えられるところ、そこでは必ずイエス様の十字架と復活の出来事が語られます。十字架と復活なくして、キリスト教の福音はありません。その十字架と復活が語られるところではどこでも、そこでは必ず、この女の人のしたこともまた記念として語り伝えられる。これはイエス様の祝福の言葉と言ってもいいのではないでしょうか。そして、実際に、今も、この人のしたことは世界中、全世界で語り伝えられているんであります。
弟子たちは、この女の人のしたことを、見かけだけで判断し、「もったいない、無駄使いだ」と非難致しました。しかし、イエス様は違うのであります。どんなに無駄使いのように見えても、それを神様のご計画のために用いてくださるのでありますね。そして、その人を豊かに祝福してくださる。イエス様は「神様のための無駄使い」ならば、それを喜んで受け入れてくださる、そういうお方と言ってもいいのではないでしょうか。
「神様のための無駄使い」。私たちは無駄使いなんて絶対ダメ、もったいないとすぐ言います。もったいないお化けが出てくる。確かにそうであります。無駄使いなんかする必要ないのであります。しかしながら、神様のための無駄使いなら、むしろ喜んで無駄使いすべきなのではないでしょうか。問題は何のための無駄使いかであります。自分のために無駄使いするのは、それは慎まなければなりません。しかしながら、それがイエス様のため、神様のためならば、もっともっと積極的に無駄使いしてもいいのではないでしょうか。
こんなお話を聞いたことがあります。教会の礼拝に通っていたある人、毎週礼拝に出ていましたけれども、牧師の語る説教がよく分からない。だから、献金の時にも、なぜ献金なんかしなきゃならないのかと疑問に思っていた。あんなつまらない話で牧師にお金を払うなんてもったいないということで、今日のお話は10円、今日は少しまともだったから20円。そんな献金の仕方をしていたと言います。この人、長い間、献金というのは牧師のお話に対する謝礼と思っていたようで、神様にささげるという意味がよく分かっていなかった。
しかし、ある時、イエス様の十字架と復活の意味がパーと分かって来て、この人は変わったといいます。勿論、洗礼も受けましたけれども、彼は、献金というのが、牧師に対する謝礼ではなくて、神様に対するささげものであるということがよく分かったというのであります。「目からうろこ」という言葉がありますけれども、正に「目からうろこが落ちるように」、彼は変わった。そして、彼は彼なりに自分に出来る精一杯の感謝の気持ちを、神様にささげるようになって行ったといいます。それは人に言わせれば「無駄使いのようだった」ということですけれども、でも、彼はその姿勢を生涯変えなかったといいます。神様に対する感謝、神様に対するささげもの。それは決して無駄使いではありません。神様は、それをご用のために豊かに用いてくださるからであります。
訳が分からなければ無駄使いのように思ってしまう。教会の献金なんかもそう。訳が分からなければ無駄使いのように思ってしまう。それは仕方ありません。しかし、神様にささげる時、イエス様にささげる時、それは豊かに用いられる。そして、神様は豊かに祝福してくださるのであります。私たちは、献金を神様にささげる、イエス様にささげるという思い、そういう気持ちをもってささげて行きたいものであります。決して牧師や伝道師という人間にささげるのではない。また教会という組織にささげるのでもない。繰り返しますけれども、神様にささげる、イエス様にささげるという、そういう意識をもってささげていくことが大切なんだろうと思います。
弟子たちは、イエス様に注がれた香油、それをもったいない、無駄使いだと思いました。しかし、イエス様は、それを喜んで受け入れてくださいました。そして、「この人のしたことは後世にまで語り伝えられる」と言って、豊かに祝福してくださいました。私たちも、神様の祝福を豊かにいただくために、神様のために、イエス様のために、喜んでささげるものでありたいと思います。
勿論、これはお金、献金だけのことではありません。私たちの人生そのものが、そうだと思います。神様に喜ばれるような人生、それを神様に、イエス様にささげていく、それがまたクリスチャンの歩みでもあるのではないでしょうか。「神様のための無駄使い」。無駄使いと思えるようなことでも、神様のためならば、決して無駄使いではないのであります。
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