3月の5日の水曜日から「レント(受難節)」に入りまして、今、レントの期間を過ごしている訳ですが、レントと申しますと、イエス様が受難の道をたどられ、ついには十字架につけられて殺されるという、イエス様の受難・苦難の道を覚えながら守るのが「レント(受難節)」であります。私たちも、この期間、イエス様の十字架までの出来事を思い起こしながら、歩んで行ければと思っております。
さて、今日の所ですが、今日の所には、「イエスを殺す計略」という恐ろしい小見出しが付いております。イエス様は、十字架に付けられて殺される訳ですけれども、それは、「祭司長たちや民の長老たち」という当時のユダヤ教の指導者たちの「計略」によって殺されたんだということが暗示されているようであります。
ところで、今日のお話は、過越祭の前の出来事であります。イエス様は「あなた方も知っているとおり、二日後は過越祭である」と、こう言っています。「二日後が過越祭」。もうすぐ過越祭になるのであります。その過越祭を前に、イエス様はご自分が十字架に付けられて殺されるということを予告される訳であります。「あなた方も知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」。
人の子、それはイエス様のことであります。イエス様は「十字架につけられるために引き渡される」。「引き渡される」というのは、捕まって十字架につけられ殺されるということでありますね。
イエス様の十字架、それは、聖書によれば「神様のご計画」でありました。使徒言行録の2章23節には、このような言葉があります。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。
イエス様の十字架、それは「神様のご計画」。しかも、それは「私たちの罪のため、私たちの罪を贖い、私たちを救うため」でもありました。ペトロの手紙一2章24節には、このような言葉があります。イエス様は、「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」
私たちが罪から解放され、神様の前に義とされて生きて行けるように、イエス様は私たちに代わって十字架の道を歩まれたのであります。そして、そのイエス様の十字架の時が、過越祭の時。厳密に言えば、過越祭のあと続けて守られた「除酵祭」の時でありました。
「過越祭・除酵祭」というのは、紀元前13世紀に起こった、あの出エジプトの出来事、イスラエル民族がエジプトで奴隷生活をしていた時、神様によってエジプトから導き出されたという、あの出エジプトの出来事から始まりました。
彼らは、エジプトを脱出する際、羊の血を門口(かどぐち)に塗って災いを免れ、無事エジプトから脱出することが出来たんでありますね。神様の使いが、エジプト人の長子と家畜の初(うい)子(ご)(最初に生まれたもの)を滅ぼしにやって来たとき、門口(かどぐち)に羊の血を塗っていたイスラエル人の家だけは「通り越した、過ぎ越した」ということで、「過越祭」というお祭りが始まった。
「除酵祭」というのは、その出エジプトのとき、急いで出発したものですから、食事の準備も十分できず、パン種(酵母菌)の入っていないパンを食べて出発したものですから、「除酵祭」というお祭りも一緒に守るようになりました。要するに、イスラエルの人たちが神様によってエジプトから救い出された、そのことを覚えて守るお祭り、それが「過越祭・除酵祭」なのでありますね。
今でも、ユダヤ教の人たちは、パン種の入っていないパンと苦菜、そして小羊の肉を食べて、この過越祭・除酵祭を守っておりますけれども、忘れてならないことが一つあります。それは「羊の血」であります。「羊の血」によって彼らは助かった、門口に羊の血を塗っておいたおかげで、彼らは救われたのであります。
新約聖書では イエス様のことを「過越の小羊」と呼ぶ場合があります。(1コリント5:7) それは、イエス様が、この「過越祭・除酵祭」のときに、実際に十字架の上で血を流されたからであります。あの出エジプトのとき「羊の血」がイスラエル民族を救ったように、イエス様の血もまた私たちを救ってくれるのであります。そういう意味合いで、イエス様は「過越の小羊」とも呼ばれる。
確かに、イエス様は、あの過越祭・除酵祭のときに十字架につけられました。でも、これは偶然そうだったということなんでしょうか。たまたま過越祭・除酵祭の時に、イエス様は十字架に付けられたのでしょうか。確かに、偶然、たまたま、という、そういう言い方も出来るかも知れません。
でも聖書によれば、これは「神様のご計画だった」んでありますね。というのは、イエス様の十字架、それは人間の計画では、過越祭、そして続いて守られた除酵祭のあとの予定であったからであります。それが、今日の後半部の所に記されていることであります。今日の後半部には、このようにあります。26章3節以下
「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。」
どうでしょうか。彼らはイエス様を捕らえ、殺す相談をしたのであります。しかし、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と、こんなことを言っていた。
過越祭、そして続いて守られる「除酵祭」(過越祭に続いて7日間守られた)、そのときには、大勢の人たちがエルサレムにやって来る訳であります。一説によりますと、エルサレムの人口は通常の3倍くらいに膨れあがったと言われております。
とにかく、過越祭になりますと、沢山の人たちがエルサレムにやって来る。そんな中で、イエス様を捕まえ、殺そうなんてことをすれば、騒ぎになるのは当たり前。お祭りも混乱してどうなるか分からない。
しかも、当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあって、ローマから総督まで派遣されてきていた訳であります。そんな中で騒動が起これば、ユダヤの立場はますます苦しくなる。当時のユダヤ教の指導者だった「祭司長たちや民の長老たち」にしてみれば、わざわざ祭りの時に問題を起こしたくはなかったのであります。ですから、彼らは「祭りの間はやめておこう(イエス様を殺すのは祭りのあとにしよう)」と、こんなふうに申し合わせをした訳であります。
しかしながら、彼らのこのような計画、それは失敗致しました。失敗したというのは、彼らの「イエス様を殺す計略」が失敗したということではありません。「祭りの間はやめておこう」という計画が失敗したということであります。
ご存知のように、イスカリオテのユダの裏切りがあり、彼らの計画は、むしろトントン拍子に進んで行ってしまった訳であります。そして、結局、彼らの思いとは逆に、祭りの間に、過越祭、そして除酵祭の期間中に、イエス様を十字架に付けるはめになってしまった。これは人間の計画よりも、神様の計画の方が先行したと言ってもいいかも知れません。
彼らは、確かに「イエス様を殺す計略」を立てたのであります。それは人間主導の計画でありました。しかし、イエス様の十字架は、神様ご自身のご計画に基づくものでありました。先程「神様は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、(イエス様を)あなたがたに引き渡された」という使徒言行録の言葉を紹介しましたけれども、まさにその通りなんでありますね。神様が、その計画を、イエス様を十字架に付けるという計画を導かれたのであります。人間主導の計画が、いつの間にか神様主導の計画になっていたのであります。
「祭りの間はやめておこう」というのは、人間の思いであります。しかし、祭りであれ何であれ、神様のご計画は、人間の思いをはるかに越えて進められて行くのであります。人間の思いと神様の思い、人間の計画と神様の計画、そこには違いがあるのでありますね。
少しニューアンスは違うかも知れませんが、サムエル記上16章7節には、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル上16:7)という言葉があります。これは、人間の見る見方と神様の見る見方とは違う。人間は、見かけで物事を判断してしまう所があるけれども、神様はその本質を見るという、そういう意味合いの言葉ですが、いずれにせよ、人間の思いと神様の思いは違うのであります。そしてまた、人間の計画と神様の計画も、そこには違いがある。
私たちも、時々、神様の計画と人間の計画、「違うな~」と感じさせられることがあるのではないでしょうか。もう大部前の話ですが、ある教会で、教会堂が古くなり、10年前位から会堂建築のための献金をみんなでささげておりました。で、資金もそれなりに出来て来ましたので、いよいよ具体的な建築計画を建てようとした。でも、教会員の人数や年金生活者等の現実などを見るとなかなか最後の決断が出来なかったといいます。でも、思い切って建築計画を立てた。
資金面でどうなるか本当に不安だったそうであります。最初、教会員の予約献金の目標額1,500万円、外部献金500万円を設定し、総予算3,800万円で計画したそうですけれども、思いもかけず、外部献金が8,614,825円も集まり、総収入は39,628,225円にもなったそうであります。外部献金なんか360万円以上オーバー。おかげで借入もせず、ステンドグラスのある立派な教会堂と牧師館が完成しました。そんな教会も実際あるのでありますね。
人間の思い、人間の計画。私たちは精一杯、一生懸命考え、一生懸命計画する訳ですけれども、神様の思い、神様の計画は、私たちの思いを越えて、更にすばらしいものにしてくれることもあるんでありますね。
勿論、反対のことだってあります。私たちが一生懸命考え、一生懸命計画しても、それがうまく行かない、途中で挫折してしまう、そういうことだってある。そういう時は、やはりそれは神様のご計画ではなかったのではないかと反省することも必要なのかも知れません。
いずれにせよ、私たちの思いと神様の思い、あるいは、私たちの計画と神様の計画、それは必ずしも一致しない。そういうことも往々にしてあるということであります。このことはやはり知っておいてもいいのではないでしょうか。
祭司長たちや民の長老たちが「祭りの間はやめておこう。民衆の中に騒ぎが起こるといけないから」と、いくら話し合っても、神様のご計画は止められませんでした。神様には、神様のご計画があるのであります。それは誰にも止められない。
だとするならば、私たちは、その神様のご計画にそった歩みをしていかなければならないと思うのであります。現実はこうだからこうだ、ということが先行するのではなくて、神様のご計画はどこにあるのかということを祈り求めながら、積極的に、神様のご計画に参与していく、そういう姿勢が大切ではないでしょうか。
神様の計画、その最終目標は、神の国をこの世にもたらすことであります。私たちもそのために「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りつづける訳ですけれども、でも、私たちの日々の生活の中で、何が神様のご計画なのか、どうすることが神様の御心にかなうことなのか、実際のところ、私たちにはよく分からないことだってある訳であります。
しかしながら、祈り続けていくとき、必ず光が見えて来ると思うのでありますね。私たちは、その光を信じて、これからも歩んで行きたい。そして、「御心のままに」と、神様のご計画が成し遂げられるよう、祈り求めながら、神様と共に歩む者でありたいと思います。
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