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説教 「屁理屈と御言葉」 (ルカ 11:14-23) 2014/3/16

 先程お読みいただきました聖書の箇所は、「ベルゼブル論争」と言われている所であります。イエス様が「悪霊」を追い出していた時のお話。

 今まで口が利けなかった人が突然ものを言い始めたので、群衆はビックリします。でも中には、「あの男は(イエス様は)、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者もいた。また、イエス様を試そうとして、「天からのしるしを求める者もいた」ということであります。

 当時は、口が利(き)けなかったり、耳が聞こえなかったり、あるいは、精神的な病いを負っている人は「悪霊に取り憑かれている」と、そんなふうに考えられていた時代。そんな時代の中で、今まで口が利けなかった人が突然ものを言い始めたというのは、それは、悪霊がその人から出ていったからと、そんなふうにも受け止められる訳であります。

 ても、問題は、「どうして悪霊は出ていったのか」ということであります。「何の力によって悪霊は出ていったのか」。

 ある人は、それは「悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力によるものだ」と言いました。「ベルゼブル」、聖書のうしろにあります「用語解説」には、ベルゼブルというのは「悪霊の頭(かしら)の名前。サタンと同じ意味にも用いられる」とあります。

 要するに、悪霊の親分、悪霊を取り仕切っている親分が、「この人から出て行け」と言ったから、子分は言うことをきいて、この人から出て行ったという「理屈」が、ここにはある訳であります。「悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」。確かに、一理あると思います。でも、本当なんでしょうか。

 この世には「屁理屈」というものがあります。一見、理に適(かな)っているようにも見える、しかし、どう考えても道理にあわないというような理屈、屁理屈。「あの人は屁理屈ばっかり言って困る」というような人もおります。確かに、屁理屈も理屈には違いないのですけれども、どこかおかしい。一見、理に適(かな)っているように見えるけれども、どこかひっかかる。

 例えば、こんな事を言う人に出会ったことはないでしょうか。
 「神様なんて目に見えないし、いるのかいないのかも分からない。そんな神様を信じるなんて、それは弱い者のすることだ」。こんなことを言う人、時々いるのではないでしょうか。

 確かに、神様というのは私たちの目には見えません。ですから「いるのかいないのか分からない」という事にもなってまいります。しかも、そういう「いるのかいないのか分からない神様を信じる」というのは、自分に自信がないから。何かに頼っていないと不安であり、心もとないから信仰をしているという事にもなってくる。

 よく「苦しい時の神頼み」というようなことが言われますが、結局、自分自身で問題を解決することが出来ないから神様に助けを求める。苦しみの中から、絶望のどん底から、何とか救われたいという事で、藁(わら)をもつかむ思いで、神様に助けを求める。要するに、そのようにして信仰を持つというのは、その人が弱いからだという事にもなってくる訳であります。

 そして、このような考え方もそれなりに理屈にかなっていると思いますし、また、実際そのようにして信仰を持つようになった人も、中にはいる訳であります。

 しかしながら、このようなことだけで信仰というものを考えますと、非常におかしな事になってまいります。例えば、クリスチャンというのは、みんな「主体性のない弱い人間」という事になってしまいますし、神様というのも、人間が自分に都合のいいように勝手に作り上げたものという事にもなってしまいます。例えば、私たちの苦しみや悩みを救ってくれたら、それは「本当の神様」。あるいは、御利益があれば、それは「本当の神様」。でも、そうでなければ、それは「ウソの神様」というようなことにもなってくる。

 理屈というのは、確かに大切なものでありますし、理に適(かな)わない議論というのは、これは耐え難いものであります。しかしながら、理屈に適(かな)っていればなんでもいい、屁理屈でもなんでもいいという事になりますと、これまた問題でありまして困ると思うのでありますね。

 「目に見えない神様、それ故、いるのかいないのか分からない神様。そういう神様を信じるのは弱い人間のすること」。確かに、一理あります。しかし、目に見えないからといって、いるのかいないのか分からないと割り切ってしまっていいのでしょうか。

 空気というのは、私たちの目には見えませんが、その存在、空気があるという事は誰だって知っております。また、空気が私たちに必要不可欠な大切なものであるという事も私たちはよく知っている訳であります。ですから、目に見えないから、いるのかいないのか分からないと割り切ってしまうこと自体、少しおかしいと思います。

 また、そういう神様、目に見えない神様を信じる人間は弱い人間なんだと「決めつける」ことも、ちょっと無理があるのではないでしょうか。弱い人間だから神様を信じる、信仰を持つという、そういう「決めつけ」は、裏を返せば、「自分は弱い人間ではない、だから信仰なんて持つ必要はない」という、そういう思い上がりがあるのではないでしょうか。

 屁理屈というのは、相手をやっつけ、自分を正当化するために用いられる詭弁であります。相手をやっつけることが出来れば、それでいいのであります。言っている事が真実であるか否か、そんなことどうだっていい。とにかく、相手を説得し、やっつける事、自分を正当化出来れば、それでいい。そのために用いられるのが屁理屈・詭弁というものであります。

 今日のテキストの所で、イエス様の事を「悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊どもを追い出している」と非難した人も、結局は、イエス様をやっつけようという、そういう魂胆から言ったのでありまして、これも「屁理屈」と言っていいと思います。

 確かに、悪霊の頭ベルゼブルが、子分の悪霊に「この人から出て行け」と言えば、出て行くかも知れません。しかし、悪霊というのはそもそも何なんでしょうか。当時の人たちの考え方によれば、人に取り憑いて、その人を悪い状態に陥れる、要するに、人間に取り憑いて悪いことをするのが悪霊のはずなんであります。それ故、悪い霊、悪霊と呼ばれる訳であります。

 しかし、イエス様は、口が利けなかった人をなおしてあげた、いやしてあげた訳であります。これは決して悪いことではありません。むしろ良いことであります。喜ばしいことであります。にもかかわらず、イエス様の行為を、「あれは悪霊の頭ベルゼブルによるものだ」と言うのは、イエス様をやっつけようという魂胆から出た「屁理屈」であります。ですから、イエス様は言うのであります。

 「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。

 「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果てて」しまう。「家も重なり合って倒れてしまう。立ち行かない」。内部分裂を起こす国、また、お家(うち)でも、内輪で争えば、荒れ果て、倒れてしまうのであります。それは当たり前ではないでしょうか。教会だって、会社だって、政党だって、何でもそうですけれども、内輪で争っていれば、いいことはありっこない訳であります。

 秩序を失い、内部で争っていれば栄えるはずはない。内輪もめをしていたら立ち行くはずはない。それは悪霊の世界、サタンの国でも全く同じであります。ですから、イエス様が悪霊を追い出しているからと言っても、それが悪霊の頭ベルゼブルによるものだというような事はあり得ない。悪霊だって自分たちが内部で争えば滅んでしまう事ぐらい知っているのであります。

それでは、イエス様は何の力で悪霊を追い出しているのでしょうか。イエス様は続けて、このように言っております。 「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」 (ルカ 11:20)

 イエス様は「神の指で」と言っております。「神の指で」というのは、「神様の力によって」という事であります。悪霊を追い出すには、その悪霊以上に力があるものでなければダメであります。21節以下の所で、イエス様はこんな「たとえ」を語っています。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」

 ちょっと物騒な「たとえ」ですけれども、当時はこういうこともよくあったようであります。とにかく、より強いもの、より力のあるものでなければ、悪霊を追い出すことは出来ない。そして、そのより強い者、より力のある者というのは、「悪霊の頭」というよりも、むしろ「神様の力」といった方が、より理に適っているのであります。

 屁理屈にも一見「理に適ったような所」があるのであります。しかし、屁理屈はあくまでも屁理屈でありまして、相手をやっつけよう、陥れようというような、そういう魂胆が見え見えですから、少し注意すれば、おかしな所がいっぱい見えてくる。

 しかも、屁理屈からは何も創造的なものは生まれてまいりません。もともと相手をやっつけようというような、そういう発想、あるいは、自己正当化・自己弁護的な発想から生まれてくる訳ですから、相手を生かすような、積極的に良いものを生み出そうというような、そういう創造的なものは何もない訳であります。

 しかし、イエス様の言葉は違います。イエス様は「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国は(すでに)あなたたちのところに来ているのだ」と、こう言われるのであります。悪霊が出て行くのは「神の国が近づいているから、神の国があなたたちの所に来ているから」だと、教えるのであります。

 神の国が来ている。これは、すばらしいことであります。「喜ばしいおとずれ」、福音であります。イエス様は福音を語っているのであります。

 私たちは、イエス様の言葉、また、聖書の言葉を「神様の言葉、御言葉(みことば)」として聞いております。御言葉(みことば)というのは、人を生かし、人に喜びをもたらすもの、そして、積極的に新しいものを生み出していく、そういうものであります。要するに、喜びのメッセージを与えるのが御言葉なのであります。

 勿論、御言葉には人の心の善し悪し、それを見分ける力もあります。何が正しくて、何が間違っているか、そういう善悪の基準をも私たちに教えてくれます。ヘブライ人への手紙4章12節には、「神の言葉(みことば)は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」とあります。御言葉は、私たちの心の奥深くにある思いや考えを明らかにし、見分ける、そういう力もあります。

 御言葉には、確かに、いろいろな面があります。しかし、それは全て私たちを本当の意味で生かし、正しい方向に導いてくれる神様の生きた力なのであります。

 旧約聖書の詩編には、このような言葉もあります。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯(ともしび)」(詩編119編105節)

御言葉は、私たちの歩むべき道を照らしだしてくれる光なのであります。御言葉は、私たちに、私たちの歩むべき正しい道を示してくれるのであります。神様の御心を教えてくれるのであります。私たち、御言葉に教えられ、導かれて、少しでも神様に喜んでいただけるような、そんな歩みが出来ればと思います。

 繰り返しますが、屁理屈からは積極的な人生は生まれてまいりません。創造的な人生も望めません。しかし、御言葉は私たちを本当に生かす「力そのもの」であります。勿論、時には厳しい御言葉もありまして、私たちにショックを与えることもあります。でも、そういう厳しい御言葉も、私たちに反省をうながし、私たちを正しい方向に導くものであるとするならば、私たちはやはり感謝しなければならないと思います。

 御言葉は、私たち一人一人の人生を積極的に導いてくれる神様からの手引き書・メッセージであります。御言葉は、私たちの人生を実りあるものとする「心の糧」であります。「人はパンのみによって生きるにあらず。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」。

 日々、御言葉に養われ、豊かな心を与えられ導かれて、それぞれに与えられている人生、その歩むべき道のりを、力強く歩んで行きたいものであります。

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