先程、お読みいただきました聖書の個所は、イエス様たちがガリラヤ湖を舟で渡っておられた時の出来事を記している所であります。イエス様たちが舟で沖に漕ぎ出した所、突然、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」というのであります。要するに、舟が沈みそうになる訳であります。
しかし、イエス様は艫(とも)の方(舟の後ろの方、船尾)で、枕をして眠っておられた。相当疲れていたのでしょうか、イエス様は、舟が激しく揺れ動き、沈みそうになっているにもかかわらず、平然と眠っていた。
一方、弟子たちは、舟が沈むかも知れないという不安と恐怖の中で、あわてふためき大騒ぎをしておりました。そして、イエス様が平然と眠りこけているのを見て、腹を立て、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったというのであります。
ところで、この「あらしの海上」での出来事。同じようなお話が、旧約聖書のヨナ書にもあります。ヨナ書のお話は、こんなお話であります。(ヨナ 1:1-10)
ヨナは、神様から「ニネベの町が悪に満ちているので、神様はニネベの町を滅ぼそうとしている」ということを、ニネベの町の人たちに伝えるよう言われる訳であります。しかし、ヨナはそんなめんどくさいな事はいやだと思ったのでしょうか、舟に乗って逃げ出そうとする。
しかし、「神様が大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、ヨナの乗っていた船は今にも砕けんばかりとなった」と言います。当然、乗組員たちはみんな大慌て。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫び声をあげたり、積み荷を海に投げ捨てたりしました。「しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた」というお話であります。
あらしの海上で、船乗りたちが恐れおののいているにもかかわらず、平然と熟睡しているヨナの話。どことなく今日のお話と似てはいないでしょうか。みんなは、あわてふためいているのに、主人公たちは平然と寝込んでいる。
確かに、同じようなお話なんですけれども、設定は大分異なります。ヨナの場合は、神様のみ旨に従おうとせず(ニネベに行って神様の言葉を伝えよという命令にもかかわらず)、逃げようとするヨナ。神様から逃れようとしていた時の出来事でありますけれども、一方、イエス様の場合は、神様のみ旨に従い、福音を宣べ伝えるという宣教への旅路での出来事であります。方向性が全く違う訳であります。
しかし、、ヨナもイエス様も「あらしの海上で共に眠りこけていた」というのは、これは面白いお話であります。まわりの者がドタバタしている時でも、不安と恐怖の中にいる時でも、平然と熟睡していられるというのは、どこかに「安心感」というようなものがあるからかも知れません。ヨナには「神様から逃れ得た」という安心感があったんでしょうか、また、イエス様には「インマヌエル」(神、共にいまし給う)という安心感があったんでしょうか、とにかく、安心感がある時、人は熟睡する事が出来るのかも知れません。
ところで、ヨナ書では、「神様が大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなった」(1:4)とありますけれども、今日のテキストの所では、イエス様が風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われると、風がやんで、大なぎになったとあります。大風を起こすのが神様であるとするならば、その大風を静めるのもまた神様。ヨナ書と比較して考えてみますと、こんなふうに言うことも出来るのではないでしょうか。
今の時代は、嵐でも台風でも、これは突然起こるのではなくて、ちゃんとした原因があると考えます。雲の動きや高気圧や低気圧の位置、そういうものである程度分かる。台風なんかでもいつ頃上陸するか天気予報でちゃんと教えてくれる訳ですけれども、昔は、そんなこと分かりませんでした。なんせ2000年も前のことであります。大風が吹いて海が荒れれば、それは神様の仕業、そんなふうに理解したとしても驚く必要はありません。
で、神様が大風を起こすのだとするならば、その大風を静めるのもまた神様、そんなふうにもなる訳であります。イエス様が「湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われると、風がやんで、大なぎになったというのは、結局、イエス様こそ、神様の権能・力を持っているお方であるということを暗に示そうとしているのではないでしょうか。
弟子たちは、イエス様のなさったことを見て、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と驚いておりますけれども、この問いこそ、実は聖書が私たちに問いかけている問題なのでありますね。
「いったい、この方はどなたなのだろう。」。「イエス様って一体何者なのか?」。
ペトロは、イエス様から「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と聞かれたとき、「あなたは、メシア(キリスト)、生ける神の子です」(マタイ16:16)と答えたというお話。前に「魚の信仰」ということで学びましたけれども、このような答が出来るようになるまでには、それなりの時間もかかったのだろうと思います。イエス様に出会ったとき、すぐ「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と答えた弟子もいたようですが(ヨハネ1:49)、一般的には、このような答が出来るまでには、それなりの時間もかかるのではないでしょうか。
聖書は、イエス様こそ「神から遣わされた神の独り子である」と教えています。そして、このことを分かってもらうために、いろいろなお話を取り上げ、訴えております。例えば、「私たちに父なる神様を示してください」と言ったフィリポに、イエス様は「私を見た者は、父なる神様を見たのだ」と答え、「私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業(わざ)そのものによって信じなさい」と言われました。(ヨハネ14:8以下)
イエス様は、すばらしい教えを沢山語られましたが、様々な「業(わざ)」も沢山行なわれました。病気の人をいやされたり、悪霊を追い出したり、そして今日のお話のように「あらしを静める」というようなことも行われた。勿論、イエス様の働きの中心は、神の国の福音を宣べ伝えることにありましたけれども、イエス様は口で教えるだけではなく、実際にいろいろな業(わざ)も行い、「神から遣わされた神の独り子である」ことを証しされたのであります。
イエス様が「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われるとき、そこには、業(わざ)によって裏打ちされた真実があります。言葉でいくら語っても納得しない人もいます。たとえそれが本当のことであっても、信じられないという人も多いのであります。しかし、業(わざ)によって裏打ちされる時、信じられないようなことでも信じざるを得なくなるのではないでしょうか。
聖書の中には、洗礼者ヨハネが、一時イエス様に躓いて、弟子たちに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせる場面が出てまいります(マタイ11:3)。その時、イエス様はこのように答えられました。
マタイ福音書の11章4節以下、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。ここには、「あらしを静めた」ということは挙げられておりませんけれども、このことも含めてもいいのではないでしょうか。
いずれにせよ、イエス様は、言葉だけではなくて、その業(わざ)、働き、活動によっても、ご自身が神様から遣わされた「神の独り子、キリスト」であることを証しされたのであります。「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われたイエス様。イエス様につまずかないで、イエス様を信じる者でありたいと思います。
ところで、今日学びました「あらしの海上での出来事、イエス様が突風を静めた」という、このお話。これはよく私たちの人生になぞらえられる事があります。私たちの人生も、言ってみれば舟で航海するするようなもの。順風の時もあれば、あらしにもまれることもある。全てが順調にうまく進んで行く時もあれば、どうしてこんな事が起こるのかと、戸惑い悩むこともあるのであります。それが私たちの人生であります。しかし、どんな時でも、イエス様が共にいてくださるならば、舟は決して沈むことはない。
日本福音連盟から出ております「聖歌」、私たちの言う讃美歌ですけれども、その「聖歌」の472番に「人生の海のあらしに」という歌があります。ご存知の方もおられるとは思いますが、紹介したいと思います。こんな歌詞であります。
1.人生の海のあらしに もまれきしこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き 我は今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し
人生の海のあらし、その中でもまれて来た私たちですけれども、不思議なる神様の御手によって守られ、導かれてきた。舟が沈みそうになり、もうだめかと諦めかけた時でも、不思議と守られてきた。私たちは何度命拾いをして来たことでしょうか。そういう不思議な信仰者の人生。思い当たる方も、きっと多いと思うのであります。
そして、「いと静けき港に着き 我は今安ろう。救い主イエスの手にある 身はいとも安し」。この言葉は繰り返しになりますけれども、今、私たちは「いと静けき港」、神様、イエス様の所に着き、受け入れられて、安らぎ、平安を与えられている。救い主イエス様による平安、それは何ものにも変えられない心の平安、魂の平安であります。
もしかしたら、現実の問題は、まだ残っているかも知れません。人生の海のあらしは、そう簡単におさまる訳でもありませんし、一時的におさまっても、また嵐になることだってあるのであります。しかしながら、神様に守られている事が分かる時、イエス様が共にいてくださる時、私たちは、その嵐を乗り越えて行くことが出来る。なぜならば、心の奥深くに、何ものにも揺れ動かされない平安があるからであります。現実には、いろいろな問題があっても、心に安らぎがあれば、どんな問題でも乗り越えていくことが出来る。そして、安らかな人生を送っていくことが出来るのではないでしょうか。
時々、宗教というのは「人生に挫折した者が、逃れていく所だ」なんて非難されますけれども、キリスト教は、ただ逃れていくだけではないのでありますね。確かに、逃れるという要素もあるかも知れません。でも、ただ逃れるだけではない。人生の海の嵐を堂々と乗り越えていく、それに打ち勝っていく、そのためにあるのであります。そのための信仰と言ってもいいかも知れません。この世がどんなに変わり、すさんでまいりましても、しっかりとした土台の上に立って、何ものにも動かされず、平安な歩みをしていくことが出来る。それは心に、魂に平安があるときではないでしょうか。
イエス様は「なぜ怖がるのか」と弟子たちを叱られましたけれども、イエス様がおられるならば、私たちは何も怖がる必要はないのであります。神様を信頼し、イエス様を信頼して歩めばいいのであります。その時、必ず道は開けて行くのであります。
先程の聖歌の2番と3番、ついでですから、紹介だけしておきます。
2.悲しみと罪の中より 救われしこの身に
いざないの声も たましい ゆすぶることえじ
いと静けき港に着き 我は今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し
3.すさまじき罪のあらしの もてあそぶまにまに
死を待つはたれぞ 直ちに 逃げ込め港に
いと静けき港に着き 我は今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し
私たち、神様・イエス様に守られ、人生の海のあらし、荒海(あらうみ)の中にあっても、平安を与えられ、力強く歩んで行きたいものであります。
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