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説教 「体質改善」 (マルコ 2:1-12) 2014/2/23

 今日の聖書の箇所は、イエス様が「中風の人をいやされた」というお話であります。このお話は、マタイ福音書とルカ福音書にも載っておりますが、今日はマルコ福音書のお話を取り上げてみたいと思います。

 先ず、今日のお話は、こんな言葉で始まります。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。」

 これは、状況説明というのでしょうか、イエス様のうわさが広まって大勢の人たちがイエス様のところに集まって来た。家に入りきれない程、大勢の人がやって来たという、そういう状況を物語っている言葉であります。

 ところで、今日のお話は、そこに「4人の男の人が中風の人を運んで来た」というお話でありますが、このお話で面白いのは、なかなかイエス様の所にたどり着けないということであります。人がいっぱいいたものですから、なかなかイエス様の所まで行けない。

 私たちは、誰でも皆すぐイエス様の所に行けると思っています。心を開けば、誰でもすぐイエス様を受け入れることができる。そんなふうに思っている。でも、現実は必ずしもそううまくは行かない。親の反対や周囲の反対があって教会に行けないという人もいるでしょうし、また、イエス様を信じるまでには、様々な誘惑があったり困難があったりもする。そう簡単にイエス様の所にたどり着けないという現実も、またある訳であります。

 でも、今日のお話を読みますと、そのあたりの解決策がなんとなく記されているようにも思える訳であります。今日出てくる4人の人は、なんとしてでもイエス様の所に行こうとするのであります。彼らは、屋根をはがし、穴をあけてまで、イエス様の所までたどり着こうとする。この屋根をはがし、穴をあけてまでという、この行為。この屋根は自分ちの屋根ではありません。人んちの屋根であります。人んちの屋根に穴をあけてでもイエス様の所に行こうとする、このようなあり方。ここに、いろいろな困難があっても、イエス様の所にたどり着く道が一つ、示されているようにも思えるのですが、どうでしょうか。

 ところで、今日のお話は、今申しました4人の人が、「イエス様がおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床(とこ)をつり降ろした」というお話でありますが、そのとき、イエス様は、「その人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われました。」

 イエス様は「その人たちの信仰を見て」とありますが、「その人たち」とは誰のことでしょうか。これは、先程申しました、屋根をはがしてまでも、中風の人をイエス様の所まで運んで来た4人の人たちのことなんでしょうか。それとも中風の人もいれて5人の人たちということなのでしょうか。私は5人の方が正解に思えるのですが、どうでしょうか。

 4人の人たちが、「一人じゃイエス様の所に行けないから、中風の人を運んで行ってやろうぜ」ということで連れて行く。そして屋根まではがし吊り降ろす。その熱心さ、それはよく分かるんであります。でも、中風の人だって、なんとかしてイエス様の所に行きたかった。イエス様の所に行けばきっと病気を治してもらえるという、そういう確信があったのではないでしょうか。だからこそ、床(とこ)のまま、寝たまんまであっても、「とにかくイエス様の所へ連れてってくれ」ということで連れて行ってもらった。そういう意味では、4人+中風の人ということで5人。こんなふうにも考えられる訳であります。

 でも、こんなことよりも、イエス様は 「その人たちの信仰を見て」とありますけれども、彼らの信仰、それは、本当に「信仰と言えるような信仰」だったのでしょうか。病気を治してもらいたいから、イエス様の所にやってくる。なんとしてでも治してもらいたいから屋根をはがすことさえする、その熱心さはよく分かります。しかし、熱心さ=信仰ということになるのでしょうか。

 御(ご)利(り)益(やく)宗教というものがありますけれども、病気を治してもらいたいからやってくるというのは、これはまさに御(ご)利(り)益(やく)を求める御(ご)利(り)益(やく)信仰とそう変わらないのではないでしょうか。

 しかしながら、たとえそうであっても、イエス様は「その人たちの信仰」を見られたのでありますね。信仰とは呼べないような信仰、信仰の名に値しないような、そんな信仰でも、イエス様は「信仰」と見てくださる。もう少し言えば、信仰とは呼べないような、そんな信仰でも、イエス様は「信仰」に変えてくださるのであります。

 だとするならば、私たちは、この人の信仰はちょっとおかしいのではないかなんて、簡単には言えない。例えば、病気を治してもらいたいから教会に来たというような人がいたとしても、あるいは、経済的な問題や家族関係などでつまずいて教会に来たというような、そういう人がいたとしても、あなたの信仰はちょっとおかしいのではないかなんて、そう簡単には言えないのではないかと思います。むしろ、私たちは、そういう人たちの問題が早く解決されるよう、一緒になって祈ってあげるべきではないでしょうか。

 私たちの信仰だって、それが正しいものかどうか、それは「神様のみぞ知る」で、本当のところはよく分からないのであります。でも、どんな信仰でも、イエス様はそれを「信仰」に変えてくださる。信仰とは呼べないような、そんな信仰でも、イエス様は「信仰」に変えてくださる。これは本当にありがたいことだと思います。

 とにかく、イエス様は、彼らの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われました。でも、これも、この表現も、よく考えますと、少しおかしいのではないでしょうか。

 中風の人が求めていたのは、いやしであります。病気がよくなることであります。でも、イエス様が言われたのは、「あなたの罪は赦される」という「罪の赦し」。ちょっとちぐはぐしているのではないでしょうか。

 でも、当時、病気というものは、罪の結果与えられる、要するに、罰(ばち)が当たって病気になるという、そういう考え方もありましたから、「病気がいやされる」ということを、イエス様は「罪が赦される」という表現で言われたのかも知れません。

 しかしながら、このあとイエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」なんてことも言っておりますから、イエス様が「あなたの罪は赦される」と言われたのは、単に病気が癒されるということだけではないようであります。やはり、イエス様は「罪を赦す権威」を持っておられたのではないでしょうか。

 それでは、イエス様が言われる「罪」とは何でしょうか。イエス様は、「主の祈り」の中で、「私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」と教えられました(マタイ6:12)。ルカ福音書には、「私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから」とあります(ルカ11:4)。

 私たちの「主の祈り」では、マタイ福音書とルカ福音書を一緒にして「我らに罪をおかすものを、我らがゆるすごとく、我らの『罪』をもゆるしたまえ。」としておりますが、「負い目・罪」。それは、神様の前に果たすべきことを果たしていない、そういう人間の姿を謳っている言葉であります。

 神様の前になすべきことをしていない負い目。神様が望んでいることを行っていない、否、行い得ない負い目。それが「罪」という言葉でも語られるのであります。私たち人間のことで言えば、1万円借りたのに1万円返していない、返せない、返さない。なすべきことをなしていない。それが負い目・罪なのであります。

 「罪」という言葉は、ギリシア語では「ハマルティア」という言葉がよく使われます。今日の所に出てくる「罪」、「あなたの罪は赦される」、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という所に出てくる「罪」、そして先程のルカ福音書にありました「私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから」という言葉。みんな「ハマルティア」という言葉が使われております。

 この「ハマルティア」(罪という言葉)は、もともと「的外れ」という意味の言葉であります。神様の前に、なすべき事をしていない、あるいは、「これが神の御心だ」と信じて行っていることであっても、「的外れなことをしている」、そういう人間の姿。それが聖書では「罪」ということで語られているのであります。

 この「罪」「負い目」。神様の前に、果たすべき事を果たさないで的外れな生き方をしている私たち。罪と罰という原則から言えば、当然私たちは神様の罰を受けなければならないということになる訳であります。でも、そんな私たちでさえ赦される。なぜならば、イエス様が私たちの罪のために、私たちに代わって神様の罰を受けられたからであります。それが、イエス様の十字架ということになる訳ですが…。まあ、これはもっと先のお話になるのですけれども…。いずれにいたしましても、イエス様は、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と、こんなふうに言われたというのであります。

 ところが、ここに律法学者がおりまして、彼らはイエス様のこの言葉に対して反感を抱きます。そして、心の中でこんなことを言う訳であります。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

 それに対して、イエス様は、彼らの心を見抜き、このように言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床(とこ)を担(かつ)いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。そして、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人に、「起き上がり、床(とこ)を担(かつ)いで家に帰りなさい」と言われました。

 「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易(やさ)しいか。「起きて歩け」と言うのは、要するに、中風という病気がいやされるということであります。これも非常に難しいことですけれども、「あなたの罪は赦される」というのは、もっともっと難しい。律法学者も言っているように、これは「神様だけにしか出来ないこと」だからであります。しかも、罪を赦すというのは、私たちの本質を変える出来事でもあるのであります。

 先程、当時は「罪の結果、病気になる」という、そういう考え方もあったというお話をしましたけれども、そういう考え方からすれば、「罪を赦す」というのは、原因を治療するということになります。よく「元を絶つ」というようなことが言われますけれども、それを引き起こしている原因、根本を治さなければ、いくら表面的な治療だけしたって駄目であります。一時的には、良くなったように見えても、しばらくすればまた、別の形でそれが表面化することもある。そういう意味では、やはり元を絶つ、根本を治さないと駄目なんでありますね。

 イエス様が、「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易(やさ)しいか、と言われたのは、どちらがより大切なことなのかという、そういう問題提起でもあったのではないでしょうか。

 しかし、多くの人は、目に見える結果を期待します。罪が赦されるという、より根本的なことよりも、今、病気にかかっていれば、その病気が治るということの方を期待する訳であります。イエス様も、そのことは十分よく分かっておりましたので、中風の人に、「起き上がって床(とこ)を担(かつ)ぎ、家に帰りなさい」と言われました。そうしますと、その人は起き上がって、家に帰って行った。中風の人はいやされた訳であります。

 しかし、問題は、単にイエス様が奇跡を起こして病人をいやされた、病気が治ったということだけではないのであります。問題は、先程から申し上げております「罪を赦す権威」をイエス様が持っておられたということであります。中風の人がいやされ、人々はびっくりして、神様を賛美したと、最後にはありますけれども、病気をいやすことだけが、イエス様の力ではありません。イエス様は「地上でも罪を赦す権威を持っておられたお方」なのであります。私たちは、やはりそのことに注目しなければならないと思います。

 確かに、目に見える現象が良くなる、それも大切なことですけれども、イエス様は私たちの根本を、良くしてくださるお方なのであります。「体質改善」という言葉がありますが、イエス様は私たちの体質を改善してくださるお方なのであります。アトピー性皮膚炎なんかで、皮膚がボロボロになることがあります。確かに、皮膚の表面を治す薬も必要かも知れません。でも、体質を改善して根本的に治すことは、もっと大切なのではないでしょうか。

 イエス様は、私たちの体質を改善し、私たちの罪を赦し、根本から私たちをいやしてくださるお方であります。私たち、イエス様によって、体質を改善していただき、罪赦され、根本的に新しくされて、新しい歩みへと導かれて行くものでありたいと思います。

 キリスト教では、古い自分に死んで、新しく生まれ変わる、「新生する」ということをよく言います。罪赦され、根本的に新しくされるというのは、新しく生まれ変わることであります。私たちの体質を改善してもらって、元を変えてもらって、私たち、新しく生まれ変わり、神の子とされ、光の中を、イエス様に導かれて歩んで行きたいものであります。

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