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説教 「人の知恵、神の知恵」 (1コリント 2:1-10) 2014/2/16

 今日の聖書の箇所には「知恵」という言葉が、繰り返し出ております。1節の所には「兄弟たち、私たちもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」とありますし、4節の所には「私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、”霊”と力の証明によるものでした」とあります。それから、5節には「それは、あなた方が人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」とある。

 6節以下にも「知恵」という言葉がたくさん出ています。6節以下もう一度読んでみますと「しかし、私たちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。⑦私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。⑧この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」。

 このように、今日のテキストの所には「知恵」という言葉が繰り返し出てきている訳ですけれども、これらの知恵を大きく分けますと、二つに分けることが出来ると思います。一つは「人の知恵・この世の知恵」というもの、それからもう一つは、7節の所にあります「隠されていた、神秘としての神の知恵」であります。

 2月14日は「バレンタインデー」でありました。多くのチョコレートが売られ、買われました。最近は手作りチョコも流行っておりますが、材料はやはり買わなければなりません。昔は、バレンタインデーだからと言って、チョコレートをあげるなんて、そんな習慣はありませんでした。「バレンタインデーにチョコレートをあげる」。これはチョコレート・メーカーが金儲けのために考え出した「人間の知恵・この世の知恵」であります。

 人間の心理を分析し、ある特定の日を大々的に宣伝し、お客をうまく乗せてチョコレートを買わせようとする「人間の知恵・この世の知恵」。クリスマスに、クリスマス・ケーキを食べるというのも同じであります。

 「この世の知恵・人間の知恵」も大切であります。この世の知恵・人間の知恵がなければ、進歩・発展はありません。いろいろな企業が発展するのは、この世の知恵のおかげ、人間の知恵のあかげと言ってもいいかも知れません。知恵を出し合うことによって、人間社会は進歩・発展して行くのであります。

 でも、聖書は「神の知恵」ということも言うのであります。「神の知恵」。それは人間の知恵ではありません。ですから、私たちには分かりようがないということにもなりますが、でも、聖書はその「神の知恵」を私たちに教えようとしているのであります。

 今日のテキストの2章の最初の所には「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」という小見出しがついておりますが、パウロは、コリントに行って、「神の秘められた計画」を宣べ伝えました。それは「(今まで)隠されていた、神秘としての神の知恵」であります。そして、それが、一言で言えば、小見出しにある「十字架につけられたキリスト」のことなのであります。

 「十字架につけられたキリスト」。これがなぜ「神の知恵」なのでしょうか。十字架につけられた人なら沢山おります。聖書にも、イエス様と一緒に二人の強盗も十字架につけられたとあります(マタイ27:38)。なぜ「イエス様の十字架、キリストの十字架」だけが、「神の知恵」と呼ばれるのでしょうか。

 それは、「イエス様の十字架、キリストの十字架」が、「神様の本質」を示す出来事だったからであります。「神様の本質」なんて申しましても、分かりにくいかも知れませんが、これも一言で言えば、「正義と愛」と言い換えてもいいかも知れません。聖書の神様というのは、「正義と愛の神様」であります。

 聖書には「神の義」という表現がよく出てまいります。例えば、あの有名な「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と言って思い悩むな」というイエス様の言葉がありますが、イエス様は、このように語られたあと、「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と教えられました。

 神の国と神の義を求める。神の国は、イエス様が宣べ伝えた福音ですが、「神の義」というのは、神様の正しさ、神様の正義を示す言葉であります。神様が正しいお方でなければ、それは神様とは言えません。神様が間違ったことをする。そんな神様ならば神様とは言えません。神様は正しいお方なのであります。

 と同時に、神様は「愛のお方」でもあります。「神は愛なり、神は愛である」(1ヨハネ4:16)という言葉は有名ですが、聖書の神様は愛の神様でもあるのでありますね。「愛と正義の神様」。これが神様の本質を示す最もふさわしい表現と言ってもいいと思います。

 その神様の愛と正義が同時に示された出来事、それが「イエス様の十字架、キリストの十字架」の出来事だったのであります。具体的に言えば、神様は、あのイエス様の十字架によって罪人を裁かれました。神様の正義を示されたのであります。と同時に、イエス様の十字架によって、神様は私たちの罪を赦してくださいました。そして、私たちの罪を赦すことによって神様の愛を示されたのであります。

 「イエス様の十字架、キリストの十字架」。それは、「神様の本質」、「神様の愛と正義」を私たちに具体的に示してくださった出来事なのであります。

 確かに、十字架というのは、マイナスイメージがあります。もともと犯罪者が処刑されるときに用いられるものですから、十字架そのものには良いイメージはありません。聖書にも「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです」なんて言葉もあります(ガラテヤ3:13)。

 呪いを象徴する十字架。マイナスイメージを与える十字架。しかし、神様は、そのマイナスイメージの十字架をプラスに変えてくださったのであります。神様の愛と赦し、神様の恵みと祝福を現す十字架に変えてくださった。それは「神の知恵」によるものでした。

 パウロは、今日の7節以下の所で、こんなことを言っています。「⑦私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。⑧この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を(神の知恵)理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」。

 一見「マイナス」と見える十字架です。呪いを象徴する十字架です。しかし、そこには「神秘としての神の知恵」が隠されていたのであります。そして、それは繰り返しますけれども、神様の愛と正義を示すものであり、私たちに神様の限りない恵みと祝福を与えるものだったのであります。

 人間の目から見れば、あの十字架ですべてが終わってしまったかのように見えるイエス様の働き。多くの病人を癒し、様々な奇跡を行い、素晴らしい御言葉をいっぱい語り、人の道を教えられたイエス様。でも、最後は十字架につけられて殺されてしまった。普通の人は、そんなふうにしかイエス様のことを見ません。

 でも、聖書は、あのイエス様の十字架の中に、実は「神の知恵」が隠されていたと教えるのであります。それは「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」そういう神様の知恵であります。「隠されていた、神秘としての神の知恵」なのであります。

 自分の考え、自分の知恵でしか物事を考えられない私たち。でも、神様は「神の知恵」でもって、あの「マイナス」と見える出来事、イエス様の十字架の出来事を「プラス」に変え、新しい世界を私たちに開いてくださったのであります。それが「十字架による救いの世界、恵みと祝福の世界」であります。

 イエス様を十字架で殺してしまうような私たちでも、イエス様の十字架と復活を信じさえすれば、無条件で、神様は私たちを赦して下さる、「良し」として下さる。すべての罪が赦され、祝福された世界へと招いてくださるのであります。

 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)とありますが、神様は、私たちを「救い」へと招いておられます。イエス様を信じさえすれば、神様の恵みをいただけるのであります。私たちの罪を赦していただけるのであります。そして新しくされ「神の子」として歩んでいくことが出来る。祝福された神の国へと進んで行くことが出来るのであります。

 「十字架につけられたキリスト」、それは見た目はマイナスのイメージがあるかも知れません。しかし、実は、そこには神様の限りない愛と赦し、神様の恵みと祝福の世界があるのであります。たかが十字架。されど十字架なのであります。神様は、あの「イエス様の十字架・キリストの十字架」の出来事の中に、神の知恵をいかんなく発揮されたのであります。

 しかし、このような「神の知恵」。それが分かるためには、人間の知恵だけではダメであります。理屈で分かるだけでは、本当の神様の恵みと祝福をいただくことは出来ません。このような「神の知恵」が本当に分かるためには、聖霊の力、御霊の働きが必要なのであります。

 5節には「それは、あなた方が人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」とあります。神の力によって信じるようになる。神の力、すなわち聖霊の働きによって、私たちは「神の知恵」を教えられ、恵みと祝福の世界へと導かれるのであります。

 今日のテキストの最後の所にも、こんな言葉があります。「”霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」 ここにあります”霊”というのは、聖霊のことであります。御霊の働き、聖霊の働きによって、すべてが明らかになるのであります。そういう意味においては、私たちは聖霊の助けを真剣に祈り求めなければなりません。聖霊こそが、神様の知恵を、そして神様の恵みと祝福を、本当の意味で私たちの心に届けてくれるからであります。

 さて、今日は「人の知恵、神の知恵」という事で、この世の知恵・人間の知恵というものと神様の知恵というものを考えてみました。私たちがこの世の中で生きていくためには、この世の知恵・人間の知恵も必要であります。しかし、「この世の知恵」だけが全てではありません。「神様の知恵」もあるということを、是非覚えたいと思います。

 ところで、聖書には、この世の知恵・人間の知恵について、こんなことも教えていますので、参考までに、蛇足かも知れませんが、少しばかりお話したいと思います。

 コヘレトの言葉1章18節の所に、こんな言葉があります。「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増(ま)せば痛みも増す」。人間の知恵、あれこれ考え、知恵を深めていく。すばらしいことであります。でも、知恵が深まれば、同時に悩みも深まっていく。思い当たるふしはありませんでしょうか。

 また、「知識が増(ま)せば痛みも増す」。これも面白い言葉であります。確かに、知識は私たちの人生を豊かにしてくれるということもあります。でも、知識があれば、人は幸せになれるのでしょうか。いくら知識があっても、それだけでは人間幸せになれるとは限らない。むしろ、知識が増せば痛みも増す、そういうこともあるのではないでしょうか。

 また、聖書には、こんな言葉もあります。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭(さと)しをも侮(あなど)る」。これは、箴言1章7節にある言葉であります。

 「主を畏れることは知恵の初め」。有名な言葉であります。「主を畏れる」。それは「主を畏れ敬うということ」、神様を神様として畏れ敬うことであります。

 目に見えない神様、しかし今や、目に見える形で私たちに神様のことを明らかにしてくれた、あの「十字架につけられたキリスト」を畏れ敬う。イエス様を信じる。そこから私たちの知恵は始まっていくべきではないでしょうか。

 聖書には「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方(神様)を知ることは分別の初め」(箴言9:10)。また「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る」というような言葉もあります(詩編111編10節)。そして「主が望まれるのは、主を畏れる人(主を畏れ敬う人)」(詩147:11)なんて言葉もあります。

 「十字架につけられたキリスト」を通して、まことの神と出会い、まことの神様を畏れ敬いながら、思慮・分別を与えられて、この一週間も歩んで行ければと思います。

 人間の知恵も大切。されど、先ず聖霊の働きによって「神の知恵」を知り、神様の恵みと祝福を豊かにいただくものでありたいと思います。神様が望まれるのは、主を畏れ敬う人。神様の恵みを素直に受け入れる人であります。主を畏れ敬い、神様の恵みを感謝しながら、この一週間も力強く歩んで行ければと思います。

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