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説教 「最初のしるし」 (ヨハネ 2:1-12) 2014/2/9

 今日のお話は、婚礼・結婚式のお話であります。婚礼・結婚式と言いますと、人生の最も喜ばしい時、人生における喜びと祝福の時であります。

 で、今日は、この婚礼・結婚式にイエス様たちが招かれ、イエス様が「水をぶどう酒に変えられた」というお話。このお話は、私たちの人生というものは、神様によって祝福されているんだということを教えている、そんなお話と考えてもいいかも知れません。

 人生の最も喜ばしい時、結婚式。イエス様はそこに共にいてくださり、水をぶどう酒に変えることによって、私たちの喜びを祝福してくださるのであります。私たちの人生は祝福されている。そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。

 勿論、私たちの人生には、苦しいこともあり、つらいこともあります。でも、その根底において、神様は、いつも私たちと共にいてくださり、私たち守っていてくださり、私たちの人生を祝福してくださっているのでありますね。一言で言えば、「生きているってすばらしいんだ」と教えているのが、これがキリスト教の人生観。そんなふうにも言えるのではないでしょうか。

 神様、イエス様が私たちと共にいてくれる。だから、私たちは、たとえ挫折しても再び立ち直ることが出来るのであります。「七転び八起き」とよく言いますが、私たちは、こういう力強さ、こういうしぶとさをもって、私たちの人生、力強く歩んで行ければと思います。

 ところで、今日は結婚式のお話ですが、当時のユダヤの結婚式・婚礼、これはどのようなものだったのでしょうか。当時の一般的な習慣では、婚礼に際して、花婿が花嫁の家に迎えに行き、花嫁を連れて帰るということが一般的だったようであります(マタイ25:1-13)。そして、花婿の家で、友だちや親戚の人などを招いて披露宴をする。

 披露宴と言えば、まあどこの国でも同じように、ご馳走を食べ、お酒を飲んで喜びを分かち合う訳ですけれども、ユダヤでは、この披露宴は長くなりますと一週間も続けられたそうであります。まあ一生に一度のことですから、みんなで花嫁・花婿を祝福し、大いに飲み、語り合うということは分かりますが、そうなりますと沢山のお酒が必要になってまいります。

 お酒と言いましても、この場合は、ぶどう酒のことですが、このぶどう酒が必要になってくる。ユダヤでは、詩編104編15節に「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」とありますように、ぶどう酒は好んで飲まれたようであります。

 ところで、こともあろうに、このような披露宴もたけなわに達した頃、このぶどう酒がなくなってしまったというのが、今日のお話の発端であります。準備不足か、あるいは、予想以上に多くの人たちが集まったためか、それは分かりません。でもとにかく、肝心要(かなめ)のぶどう酒がなくなってしまった。足りなくなってしまった。

 人間によってなされる準備というものは、どんなに万全を期したものでありましても、思わぬ出来事や手違いのために破れが生じてしまう、そういうことがよくあります。いわゆる「ハプニング」が起こる訳でありますね。で、この「ぶどう酒が足りなくなってしまった」という、この現実、そのとき、イエス様の母マリアは、イエス様にこんなことを言ったといいます。

 「ぶどう酒がなくなりました」。

この言葉は単に「ぶどう酒がなくなった」から「ぶどう酒がなくなった」と言ったという、単にそういうことではないと思います。この言葉には、イエス様に、「ぶどう酒がなくなってしまった。大変だ、何とかして欲しい」という、そういう無言の訴えが込められているのではないでしょうか。

 ところが、これに対してイエス様は、母マリアにこのように言ったといいます。

 「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。

 母マリアの訴えに対して、このイエス様の答は何と空々しいものでしょうか。だいたい自分の母親に対して「婦人よ」なんて普通言うでしょうか。(婦人よ、グナイ←グネー、woman 母親の意味はない) 普通ならば「お母さん」なんて呼びかけるのが一般的ではないでしょうか。しかし、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのか」と、こう言われた。なんと空々しい言い方、冷淡な言葉でしょうか。

 でも、もっと不可解なのは「わたしの時はまだ来ていない」という、このイエス様の言葉であります。
これはどういうことなんでしょうか。「わたしの時、イエス様の時はまだ来ていない」。今日の文脈から言えば、これは「ぶどう酒の奇跡を行うべき時はまだ来ていない」ということにでもなるのでしょうが、ヨハネ福音書全体から見ますと、「私の時」というのは、これはやはり「イエス様の十字架の時」ということなんだと思うのでありますね。

 聖書では「イエス様の時」ということで、「十字架の時」を示す言葉が沢山あります。例えば、7章30節や8章20節には、イエス様の時がまだ来ていなかったので、「だれもイエス様を捕らえなかった」とあります。「イエス様の時がまだ来ていなかった」。それはまだイエス様が十字架につけられる時が来ていなかったという、そういう意味であります。

 また、17章1節では、イエス様は訣別の祈りの中で、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と、こう祈っておりますが、ここにあります「時が来た」というのは、イエス様が十字架につけられる時が来たということを示す言葉であります。

 今日の所も全く同じではないでしょうか。「わたしの時はまだ来ていない」。それはイエス様の血潮を象徴する「ぶどう酒」とも関係するとは思いますが、イエス様は、水をぶどう酒に変えるという、この奇跡を行うに当たって、まだその時ではない、十字架の時は来ていないということを暗に示そうとされたのではないでしょうか。

 もっと別の言い方をすれば、イエス様のこの言葉というのは、これを書いた作者の表現であって、イエス様の言葉の中に、教会の教えを書き込んでいる、そんなふうに言ってもいいかも知れません。

 そうすれば、先程の「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですか」というイエス様の言葉だって、単にイエス様の冷たい言葉というのではなく、「信仰というのは、たとえ親子であっても、一人ひとりのものである」という、そういう教えが見えてくるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、まだイエス様の時は来ていない。イエス様の十字架の時はまだであるという、そういう意味で、この言葉が語られているように思います。

 ところで、一見意味不明と思われる先程のイエス様の言葉に対して、母マリアは、召し使いたちに、このように言ったとあります。

 「この人(イエス様が)何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。こう言ったというのでありますね。

 この言葉は、先程の「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」というイエス様の言葉と比較してみますと、大切なことが語られているように思います。

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのか」というのは、いわばイエス様との関係さえ否定されているような言葉であります。しかし、「この人が(イエス様が)何か言いつけたら、そのとおりにしてください」という、このマリアの言葉は、たとえイエス様から否定されても、それでもイエス様を信頼し、イエス様に全てを委ねるという、そういう意味合いがあるようにも思うのであります。

 そして、それは、イエス様が、あの十字架の上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と、神様に見捨てられても、なお、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って、神様に全てを委ねて息を引き取られた、あのイエス様の姿とも重なってくるようにも思われる訳であります。

 ですから、そういう意味では、このマリアの言葉の中にも、信仰者のあるべき大切なあり方(神様・イエス様からはねつけられてもなお、神様・イエス様を信頼し委ねていく姿勢)というものが教えられているようにも思うのですが、どうでしょうか。

 とにかく、母マリアは召使いたちに「この人(イエス様)が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と、こう言ったというのであります。そして、お話が進んで行く訳ですが、6節の所には「水がめ」のことが出てまいります。

「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである」と説明がついております。いよいよクライマックスに近づいてまいりました。

 で、ここには「メトレテス」という単位が出てまいりますが、これは聖書のうしろの「度量衡および通貨」の表を見ますと、1メトレテスが約39リットルとあります。ですから、2ないし3メトレテスというのは、78リットルから117リットルということになります。相当量入る石の水がめが6つあった。そして、イエス様は、召使いたちに、このように言ったというのでありますね。

 「水がめに水をいっぱい入れなさい」。

 水がめに水をいっぱい入れてどうしようというのでしょうか。召使いたちは、何が何だかさっぱり分かりませんでしたけれども、マリアから「イエス様が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と、こう言われておりましたので、とにかくイエス様の言われたように、かめの縁まで水を満たしました。

 そうしますと、今度は、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と、こうイエス様は言ったといいます。

 水をくんで宴会の世話役のところへ持って行ったって仕方ない。問題はぶどう酒が必要な訳ですから、水ではどうしようもない訳ですけれども、でも、とにかく、召使いたちは言われるままに持って行きました。そうしますと、ただの水がぶどう酒に変わっていた訳でありますね。しかも、上等なぶどう酒に変わっていた。

 聖書には、世話役がそれを味見して確認し、花婿にこんなことを言ったとあります。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。要するに、これは「水が本当に立派な、上等なぶどう酒に変わっていた」ということを示す言葉でありますね。

 水がいつぶどう酒に変わったのか。また、どのようにして水がぶどう酒に変わったのか。そんなこと分かりません。これはイエス様の行った奇跡なんであります。奇跡というのは、神様の働きの秘義であって、その具体的なプロセスは隠されております。

 テレビなどでやっているマジック・手品には、必ずそのタネがあるものですけれども、奇跡にはタネはないのでありますね。ですから、合理的に説明することなんてことは出来ません。私たちは、ただこの「水がぶどう酒に変わった」という、この出来事そのものを見て満足しなければならないと思います。

 ところで、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」とありますが、「最初のしるし」とあるのですから、これからあともイエス様はいろいろな奇跡を行う訳であります。

 ついでですから第二のしるし(奇跡)を見てみましょう。これは、ヨハネ福音書のどこに書かれているのでしょうか。ずーと読んでいきますと、4章の43節以下の所に、「役人の息子をいやす」というお話があります。病気の息子を持つカファルナウムの役人が、イエス様からその息子の病気を治してもらったというお話。

 これがイエス様が行った第二のしるし(奇跡)であります。4章の最後54節には「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」とあります。

 ところで、私たちは今まで「しるし」というものを「奇跡」と同じように考えて来ました。
聖書で「しるし」と訳されているギリシア語は「セーメイオン」という言葉ですが、この言葉には確かに「しるし」(sign)という意味と「奇跡」(miracle)という意味があります。ですから、しるし=奇跡と考えても決して間違いではありません。でも、厳密に言いますと、「しるし」と「奇跡」、言葉が違うように、その意味内容も少し違ってくるのではないかと思います。

 奇跡(miracle)というのは、ありそうもない不思議な出来事、驚くべき出来事が起こるときに、それを「奇跡」とよく呼びます。一方、しるし(sign)というのは、ある出来事を通して、何かある特定のものを指し示すときに、それを「しるし」(sign)と呼ぶ。今日の所で、水がぶどう酒に変わったという出来事、それは確かに「奇跡」であります。でも、それは単なる奇跡ということだけではなくて、やはりそれは何かを指し示している「しるし」なんだと思うのでありますね。

 それではその「しるし」というのは何でしょうか。それは、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」という言葉がよく物語っていると思います。イエス様は、水をぶどう酒に変えるという出来事を通して、神の子の栄光を現したのでありますね。

 聖書が証ししようとしているのは、もう何度もお話ししておりますように、イエス様が神の独り子であり、私たちの救い主、メシア・キリストであるということなんでありますね。もう少し言うならば、そういうイエス様を信じて、私たちが永遠の命を得ること、救われること、そのためにイエス様のお話が聖書に記されている訳であります。

 繰り返しますけれども、聖書に記されているイエス様の奇跡、それは単にイエス様がこんなことを行ったということを示しているだけではないのであります。聖書がイエス様の奇跡というものを取り上げているのは、それによってイエス様がどういうお方なのかということを、私たちに示すためなのであります。

 今日取り上げましたヨハネ福音書に記されている「最初のしるし」。それは、イエス様が「水をぶどう酒に変えられた」という出来事を通して、イエス様が、はじめて神の子としての栄光を現わされたという、そういうお話なのであります。もう少し言えば、先程申しましたように、イエス様こそ神の子であり、私たちの救い主、メシア・キリストであるということを示そうとしている、そういうお話なんであります。

 ある出来事を、あるがままの事実として受けとめることも大切であります。でも、もっと大切なことは、その出来事の中に何が示されているか、ということを「読みとる」ことではないでしょうか。イエス様が行った数々の奇跡、そこには勿論いろいろなことが教えられているとは思いますけれども、私たちはそこに先ず「主の栄光」、主イエス様の栄光を「読みとる」ものでありたいと思います。

 イエス様は、ガリラヤのカナで「最初のしるし」を行なわれました。そして、神の子としての栄光を現されました。私たちは、今日の「水をぶどう酒に変えられた」という、このイエス様の出来事を通して、イエス様のすばらしさ、そして、イエス様は私たちの人生を祝福してくださっているという、その豊かな恵みを覚えたいと思います。

 そしてみんなで「ハレルヤ!主をほめたたえよ!」と言って、神様・イエス様を讃美するものでありたいと思います。ハレルヤ!

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