今日は、燕教会創立83周年の記念礼拝を皆様とご一緒に守っております。
83年の歴史を持つ燕教会。創立当初はどうだったのか、また、教会はどんな歩みをして来たのかな、と思いまして、とりあえず、燕教会の創立50周年記念誌と60周年記念誌を読ませていただきました。
大発見がありました。創立60周年記念誌の中に、なんと私の名前が2回出てきました。1回目は、田中徹夫先生が「燕の五年間」と題して書かれた文章の中に、「1982年、5年目です。五泉教会も小鮒實牧師を迎えることが出来ました」ということで、私の名前が出ています。
それから、もう一つは、やはり60周年の記念誌ですが、後ろの方の年表の、1982年(昭和57)の1月10日の所に、説教 小鮒 實牧師(倉敷教会)と記されているのであります。1982年と言いますと、今から32年前です。これは私が五泉教会の下見というのでしょうか、お見合い説教に来たときのことなんでしょうが、この燕教会でも私は説教をしている。
当時は、田中徹夫先生が五泉教会の代務を引き受けていたときですから、午前中燕教会の礼拝で説教をし、午後2時半から五泉教会でまた説教をしたのだと思います。どんなお話をしたのかは、さっぱり覚えておりませんが、とにかくこの燕教会で説教もしている。不思議なご縁ですね。その私が今この燕教会の牧師をしている訳ですから、神様のご計画というのは、計りがたいものがあります。
ところで、今日はこういうお話ではなくて、教会創立記念のお話ですから、この教会のことについて少しお話したいと思いますが、先程申しました「教会創立50周年記念誌と60周年記念誌」、読めば読むほど分からない所が沢山あります。
例えば、久保田重松さんが、私財を投じて、この会堂・建物を建てられ、1階を喜久保育園として使用し、2階を礼拝堂として用いたというのはよく分かるのですが、久保田重松さんが、なぜ「ホーリネス教団の牧師・塚本米治さんを招き、伝道の補助活動に当らしめ、奥様の「フク夫人」には保育に携わらしめた」というのがよく分かりません。
久保田重松さんは、長岡の組合派の浅田又三郎牧師から洗礼を受け、新潟組合教会に属しておりました。ご令息の久保田重雄さんなんかも、わざわざ新潟組合教会まで行って洗礼を受けておられる(1922.8月)。
当時の燕教会は、新潟組合教会の傘下にあり、1931年(昭和6)の2月、この会堂を献堂したときも、新潟組合教会の燕支教会というかたちで発足しました。洗礼を受けた者は皆、新潟組合教会の会員になりました。まだ独立した「燕教会」というものがなかったからであります。新潟組合教会の燕支教会が発足し、その年の10月に今泉隼雄牧師が赴任して来ますけれども、状況は全く同じでありました。
付け加えて言えば、献堂式が行われた翌年、1932年(昭和7)には、燕教会の土地・建物はすべて、日本組合基督教会(正式には、財団法人日本組合基督教会維持財団と言っていたようですが)、新潟教会の母体である日本組合基督教会の方に寄付しております。
にもかかわらず、なぜ久保田重松さんは、会堂を建てたとき、ホーリネス教団の牧師・塚本米治さんご夫妻を招いたのか。よく分かりません。奥様の「フク夫人」を保育者として招いたところ、ご主人がたまたま牧師だったので、伝道の補助活動に当らしめたのか。それとも、当時は、あまり教派なんかにはこだわっていなかったのか。
多分両方なのではないか、なんて想像もされ得る訳ですが、そのあたりの所がよく分からない。多分真相は、もう誰にも分からないのでしょうが、燕教会のその後の「聖十字教会」の問題などを考えると、どうも燕教会は、その発足当初から、いろいろ問題があったように思います。
そもそも、この燕教会は、自分たちで教会を造ろう、会堂を建て、礼拝を守り、伝道して行こうという、そういう教会ではなかったようであります。久保田重松さんという一人の人がお金を出して会堂を建て、みんながそれを利用して行く。活用していく。そういう教会であったように思います。
その典型が、1946年4月から始まる小高の村長さんだった方のお孫さん・土田昭彦氏(信徒伝道者)の、この会堂を借りての伝道活動と言ってもいいのではないでしょうか。戦後、みんなドタバタの中で過ごしていた時代。燕教会で礼拝が守られていたのかどうかはよく分かりませんが、郷里伝道を志しておられた土田氏は、この燕教会の会堂を借りて伝道を始めるのであります。
最初はよかったのであります。土田先生も一応は新潟教会に籍をを移し伝道を開始されました。しかし、段々と問題がこじれてまいります。土田先生は、伝道した人たちを東中通教会の向井芳男牧師から洗礼を受けるようにも勧める訳であります。それは、土田先生が、もともと東中通教会と同じような「長老派」の教会の人だったからであります。
本来ならば、新潟教会の中井佐一郎牧師から洗礼を受けるべきなのに、自分たちの集会集まった人たちを東中通教会の向井先生から洗礼を受けるようにも指導する。これは新潟教会や旧組合派の人たちにとっては、面白くなかったでしょうね。
しかも戦後、多くの人たちが教会に足を運ぶようになった時代であります。伝道集会をすれば沢山の人たちが教会に集まって来た、そういう時代。ですから、もともと新潟教会の燕支教会ということで歩み出した燕教会ですから、燕教会としては、なんとしてでも自分たちの教会形成をしたいということで、1年と4ヶ月後、1947年7月、土田さんたちのグループを教会から追い出すことになる訳であります。要するに、燕教会の礼拝堂はもう貸せません、ということになる。
勿論、だからと言って、燕教会に専任の牧師がいた訳ではありません。中井先生が代務者として新潟から日曜日の夜、礼拝には来られていたようですが、専任の牧師はいませんでした。佐藤茂見先生が、燕教会に来られたのは、1951年(昭和26)の10月。それまでは、先程申しましたように、新潟教会の中井佐一郎牧師が兼牧というかたちで関わっておりましたが、でも、中井先生は、燕に在住していた訳ではありません。
ですから、どうしても力不足、力が足りない。当時、中井牧師はあちこちの教会の責任も負っていたようですから、土田さんたちの働きにはかなわない。でも、会堂は自分たちのものだから、自分たちで自由に使いたい。そんなことから、土田さんたちのグループに、教会から出て行ってもらったのではないかと思います。
まあ、詳しいことはよく分かりませんので、当時のことをよく知っておられる方々に、またあとで詳しくお聞きしたいとは思いますが、とにかく、このようにしてこの会堂を借りられなくなって、燕教会から出ていかざるを得なくなった土田照彦さんたちのグループ。
彼らは、そのあと、先程申しました、ホーリネス教団の塚本夫妻の所を借りて、そこを伝道所とし、聖十字教会を発足させる訳であります。それが先程申しました1947年(昭和22)7月のことであります。そして、そのあと、ボナール服装学園を借りたりして伝道活動を続けて行く。
一方、燕教会はどうしていたのでしょうか。先程から何度も繰り返して申し上げているように、中井佐一郎牧師が新潟からやってきて、日曜日の夜、細々と礼拝を守っていただけであります。でも、幸いにして、1951年(昭和26)10月、先程申しました佐藤茂見先生が燕教会にお出でくださいまして、伝道牧会に当たられます。
こうなりますと形勢は逆転。燕教会は、佐藤牧師を中心に、着実に勢力を回復して行きます。一方、土田先生のグループ、聖十字教会は、ボナール服装学園を間借りしての礼拝ですから、限界がある。
そして、1953年(昭和28)5月、指導者の土田昭彦先生が東京に移住されるということで、聖十字教会に集まっていた人たちは、同じような系列の「新潟の東中通教会」に転会する訳であります。資料によれば、22名の方々が、東中通教会の会員になったということであります。
聖十字教会、その後どうなったのでしょうか。土田先生が去られた後も、しばらくは集会を守っていたのでしょうか。それとも指導者がいなくなってパタッと集会をやめてしまったのでしょうか。これもよく分かりませんが、とにかく、残された人たちは、一時、東中通教会の会員になる訳であります。
でも、神様のお導きと言うのでしょうか、4年後、1957年(昭和32)1月、かつての聖十字教会の人たちが、燕教会に帰ってまいります。東中通教会の会員から燕教会の会員になる訳であります。で、これで一応、聖十字教会の問題は「めでたし、めでたし」という事になる訳ですけれども、これで本当に「めでたし。めでたし」、一件落着だったのでしょうか。あとに「しこり」は残らなかったのでしょうか。このあたりのこともよく分かりませんが、とにかく、これで「聖十字教会の問題」は一応の決着が付く訳であります。
で、このように教会の歴史をひもといていくと、本当にいろいろなことがありまして、おもしろいのですが、分からないことも沢山あります。ですから、是非ゆっくりと当時のことをお聞きする機会を持ちたいと思いますけれども、創立当初から、いろいろ問題があった、この燕教会。私は、印象としてですが、この燕教会というのは、もともと教派とか教団ということには、あまり関心がなかった、そんな教会の一つだったのではないかと思うのであります。
久保田重松さんが、組合教会の人間なのに、ホーリネス教団の牧師・塚本米治さんに、伝道のお手伝いをさせた。戦後しばらく礼拝堂を使っていなかったので、長老派の土田昭彦師に会堂を貸し与えた。それはみな久保田重松さんの独断によるものが強くあったとは思いますが、基本的には、教派や教団に捕らわれない、そういう姿勢があったのだろうと思います。
教派や教団が問題ではない。キリストを宣べ伝えることが、教会の一大事。イエス様のことを宣べ伝える、キリストを宣べ伝える。教派とか教団のことは二の次。大切なのはキリスト教の福音を宣べ伝えること、昔は、そんなふうに考える人たちも多かったようであります。
牧師にして見れば、教派や教団のことも気になります。でも、一般信徒にして見れば、イエス様を信じる者は皆同じ。そういう感覚が強かったのではないでしょうか。ですから、ホーリネスであれ、長老派であれ、何でも受け入れた。イエス様をキリスト・救い主と信じる者は、みんな同じだと考えたのであります。そして、これはとても大切なことを私たちに教えているのではないかと思うのであります。
初代教会には「魚の信仰」というものがありました。「魚の信仰」と言っても、鯛やマグロを信じる信仰ではありません。ましてや「いわしの頭も信心から」というような、そういうものではありません。「魚の信仰」。それはイエス様を信じる人たちの信仰であります。
ギリシア語では、「魚」のことを「ΙΧΘΥΣ」(イクスース)と言います。そして、初代教会では、魚の絵がキリスト者のシンボルとして、よく使われました。それは、ギリシア語の「魚」「ΙΧΘΥΣ」(イクスース)の文字が、イエスース、イエス様は、クリストス、キリスト・メシア)、セウー ヒュイオス、神の子)、ソーテール、救い主、という言葉の頭文字になるからであります。
「イエス様はキリスト・メシアであり、(生ける)神の子、(私たちの)救い主」。「ΙΧΘΥΣ」(イクスース)。これは、今日お読みいただきましたペトロの信仰告白と基本的に同じであります。
ペトロは、イエス様から「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と聞かれたとき、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた訳であります。前の聖書は、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と訳しておりました。メシア・キリストというのは、「救い主」を意味しますから、このペトロの信仰告白は、「イエス様はメシア・キリストであり、生ける神の子、私たちの救い主」。要するに、その頭文字をとれば「ΙΧΘΥΣ」(イクスース)「魚」ということになるのであります。
これが初代教会の信仰だったと言ってもいいと思います。ですから、このように信じていた人たち、キリスト者を、当時はよく魚の絵でもって表わした訳であります。
「魚(イクスース)の信仰」、これは教会が教会として成り立つ基盤であります。そして、燕教会には、この「魚(イクスース)の信仰」がありました。教派や教団に捕らわれない、こだわらない、「イエス様をメシア・キリスト、生ける神の子、私たちの救い主」と信じる者は、皆同じだという、そういう信仰があったのだと思います。
だからこそ、組合派だとかホーリネスだとか長老派だとかといった、そういう教派にこだわらないで、イエス様のことを宣べ伝えるのならば、なんでもOKということで、他教派の牧師を招いたり、礼拝堂を貸したりもしたのではないでしょうか。
今日の聖書の所で、イエス様は、ペトロに「わたしはこの岩(ペトゥラ)の上に、わたしの教会を建てる」とおっしゃいました。この岩(ペトゥラ)というのは、先程申しました「イエス様をメシア・キリスト、生ける神の子、私たちの救い主」と信じるペトロの信仰・私たちの信仰のことだと思います。
教会は、このような信仰の上に建てられて行くのであります。このような信仰があってこそ、教会は教会として成り立って行くのであります。これからも「魚(イクスース)の信仰」を教会の基盤として、神様の栄光を現す教会を造り上げて行きたいものであります。
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