説教集 本文へジャンプ
説教 「生き生きとした希望」 (1ペトロ 1:3-9) 2014/1/26

 先程お読みいただきました聖書の所には、先ず「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」という言葉が出てまいります。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神様が、ほめたたえられますように」。

 神様がほめたたえられる。それは、私たちの心からの願いであります。でも、神様をほめたたえるためには、神様のことをよく知らなければなりませんし、神様の恵みがよく分からないと始まりません。訳の分からないものを、ほめたたえる訳にはいかないからであります。

 ということで、今日の所ですが、今日の所には、その神様のこと、そして神様の恵みが、このような言葉で記されております。

 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚(けが)れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。(1ペトロ1:3-4)

 ここには先ず「神の豊かな憐れみ」ということが語られております。神様の憐れみによって、私たちは新たに生まれ変わることが出来たというのであります。

 神様の憐れみ。それは既にイエス様の誕生の時から始まっておりました。ヨハネ福音書によれば、イエス様がこの世に来られたのは、神様がこの世を愛された結果であり、私たちに「永遠の命」を与えるためであったとあります。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

 神様がイエス様をこの世に送ってくださったのは「神様の憐れみ」なのであります。そして、この神様の憐れみは、あのイエス様の十字架によって頂点に達します。私たちの罪のために、イエス様が十字架の上で血を流された。死ぬべき私たちに代わって、私たちの身代わりとして、イエス様が死んでくださった。そこに「神様の憐れみ」は頂点に達したのであります。

 しかし、それだけなのかと申しますと、そうではありませんで、神様は、イエス様を死者の中から復活させられました。それもまた神様の憐れみでありました。人間死んだら、それでおしまい。復活がなければ、希望も何も無くなってしまいます。しかし、神様はイエス様を墓の中から復活させられ、私たちにも「復活の希望」を与えて下さったのであります。それが聖書の言う「生き生きとした希望」というものであります。

 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださった」のであります。

 希望、それは、信仰者であろうとなかろうと誰にでもあります。ある子供が言いました。「僕は立派な大学に入り、卒業したら、立派な会社に入り、お金を貯めて、立派な家を建て、かわいいお嫁さんをもらう。それが僕の夢であり、希望である」と。確かに、これも希望には違いありません。でも、聖書が教える希望というのは、このような類(たぐい)の希望ではありません。

 聖書が教える希望というのは、「復活の希望」であり、また、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」という、そういう希望であります。「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」。それは「永遠の命」と言ってもいいと思います。キリスト者の希望は、「復活の生命」「永遠の命」に生きることであります。

 先程のヨハネ福音書には「神様がイエス様を与えてくださったのは、私たちがイエス様を信じて、永遠の命を得るためである」とありました。イエス様を信じて永遠の命を得る、復活の生命、永遠の命に生きる。これこそ「生き生きとした希望」とはいえないでしょうか。

 「立派な大学に入り、立派な会社に入り、立派な家を建て、かわいいお嫁さんをもらう」、それも確かに「希望」とは言えるかも知れません。しかしながら、私たちがこの世でどんな希望を持っておりましても、死んでしまったら、それですべておしまいという事にはならないでしょうか。そのような希望であるとするならば、そのような希望にどれほどの価値があるというのでしょうか。

 聖書は「永遠の命」に生きる希望を私たちに教えております。それはイエス様の復活を根拠とした、神様の豊かな憐れみによって与えられるところの生き生きとした希望なのであります。

 ところで、このような希望を与えられている私たちですけれども、現実生活の中にあっては、いろいろな問題があります。様々な悩みがあり、苦しみがあります。それは、信仰者と言えども、決して避けられない現実であります。イエス様を信じれば、信仰を持てば、何もかも全てうまく行く、すべての悩みから解放されるということではないのであります。

 ある人がこういう事を言ったそうであります。「あんたは毎週教会にお参りに言っているけれども、なかなか病気がよくなんないねえ」。 その人は、教会を病気を治す所だと勘違いしていたようであります。

 教会に行けば病気が治るというのは、キリスト教もほかの宗教も同じだと考える「誤解」から来ています。勿論、教会に来て病気が治ったという、そういう人もおります。私もそういう人を知っています。でも、私たちが毎週教会に行くのは、神様を讃美するため、ほめたたえるために行くのであります。決して自分のためだけに行くのではありません。

繰り返しますけれども、キリスト教では、イエス様を信じ信仰を持てば何もかも全てがうまく行く、すべての悩みや苦しみから解放されるというので決してないのであります。誰もが経験するこの世の悩みや苦しみ、それは信仰を持っていようといまいと避けられない現実なのであります。否、聖書では、むしろ私たちは「この世では悩みがある、苦難がある」と、はっきり教えているのであります。

 「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とイエス様は言われました。(ヨハネ16:33) また、今日の6節の所にも、このようにあります。「(あなた方は)今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません」。ヘブル書にも、こんな言葉があります。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭(むち)打たれるからである」(ヘブライ12:5-6)。

 試練を受けて苦しむ、それはキリスト教ではむしろ当然のこととして受けとめるのであります。信仰者であるが故に試練を受ける。そして、そのような試練によって、私たちの信仰が本物であるかどうかが分かるようになると教えているのが聖書なのであります。

 「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明される」。試練というのは、私たちの信仰が本物となるかどうかのテストなのであります。試練にパスすれば、それは本物となるけれども、パスしなければ、それは偽物であったという事になる。いずれにせよ、私たちには試練がある。それが聖書の説く真理であります。

 私たちは、苦しいから信仰を持つのではありません。「苦しい時の神頼み」で信仰に入るというのではないのであります。勿論、「苦しい時の神頼み」で教会に来てはいけないと言うことではありません。ただ、自分にとってメリットがあるから信じる、そうじゃなければ信仰を捨ててしまうというような姿勢では、いつまでたっても「本物の信仰」にはならないという事であります。

 聖書は「私たちの信仰は、試練によって本物と証明される」と言っております。そして、そのような本物の信仰こそ「尊い」ものであり、イエス様の再臨の時に「称賛と光栄と誉れとをもたらす」ものであると教えております。

 7節「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには(イエス様の再臨の時には)、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。

 ところで、今「イエス・キリストが現れる時、イエス様の再臨の時」という言葉が出て来ましたけれども、これは「最後の審判」、すべての人間が裁かれる時であります。

 「最後の審判」。なんか恐ろしい感じのする言葉ですけれども、本物の信仰を持つ者にとって、それは喜びの時であり「称賛と光栄と誉れ」の時でもあります。ですから、何も恐れる必要はありませんし、むしろ、喜びをもって「最後の審判」を迎えることが出来るのであります。最後の審判を恐れる人は、本物の信仰がないからであり、救いの確信がないからであります。

 今日のテキストの5節以下の所には、このようにあります。「あなたがたは、終わりの時に現(あらわ)されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」。終わりの時、最後の審判の時、キリスト者は「真の救い」を与えられるのであります。その確信があるが故に、心から喜んで、それを待ち望むのであります。「主の再び来たりたもうを待ち望む」。それが私たちの信仰であります。

 ところで、信仰と申しますと、「分かった、そうか、信じよう」という信仰もあるかも知れませんけれども、キリスト教の信仰というのは、むしろ「分からなくても信じる」という、そういう所もまたある訳であります。

 まあ、このように言いますと、誤解される人もおられると思いますので言い換えますけれども、キリスト教の信仰というのは、必ずしも「見て、分かって、そして信じる」というのではなくて、「見なくても信じる」という、そういう所があるという事であります。

 8節の所には、こんなふうにあります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている」。

 キリストを見たことがないのに愛している。見なくても信じている。イエス様はトマスに「(あなたは)私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネ20:29)と言われましたが、見なくても、それ故よく分からなくても信じるというのが、キリスト教の信仰ではないでしょうか。私たちは目の前にそれを見ていなくても、心で信じられれば幸いと言うべきではないでしょうか。

 「喜び」は頭で分かって生まれてくるものではありません。心の中からわき上がってくるものであります。「あなた方は言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている」。喜びが満ちあふれて来るところに、聖霊の力、神様の豊かな憐れみが働いているとは言えないでしょうか。

 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」。

 「喜びに満ちあふれる」。そして「それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているから」。魂の救いを受けている者は、心の中から喜びが涌きあふれてくるのでありますね。

 キリスト教の信仰は、喜びの信仰であります。神様の豊かな憐れみによって、新しくされた私たちは、いつも神様に守られ、また魂の救いを与えられているが故にいつも喜びに満ちあふれているのであります。聖書には、「心から喜んでいる」、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている」とありますが、それがキリスト者の姿なのでありますね。

 確かに、信仰が本物とされるためには試練も必要でしょうし、苦しいこともあるかも知れません。しかしながら、キリスト者には「永遠の命」に生きる希望、「生き生きとした希望」があるのであります。ですから、私たちは、神様の豊かな憐れみのもとで、確信を持ち、喜びをもって生きていくことが出来るのであります。

 私たち、イエス様のよって与えられた救いの恵みを感謝しつつ、喜びに満ちた信仰生活を送って行ければと思います。そして、心から「神様をほめたたえる」ものとなりたいと思います。

このページの先頭へ
説教集目次へ
三条教会トップ゜ページへ
燕教会トップページへ