イエス様は「時至って」公の伝道活動に入られました。そして、その伝道活動の極めて早い時期に、弟子たちをお召しになりました。今日の箇所は、その弟子たちの中でも、特に有名な弟子たち、後ほど教会の指導者となるシモン・ペトロとその兄弟のアンデレ、またゼベダイの子のヤコブとヨハネ、これら4人の弟子たちの召命の事が取り上げられている所であります。
ところで、14節の所には、イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後(のち)、ガリラヤへ行って神の福音を宣べ伝えた、という事が語られております。これは、これからいよいよイエス様の活動が大々的になされて行くという「前置き」と考えてもよいと思いますが、ここで一つ考えておきたい事は、15節の所にあります「時は満ちた」という表現であります。
イエス様が公生涯に入られたのは、ルカ福音書によれば、だいたい30歳位の時だと言われておりますが(ルカ3:23)、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って福音を宣べ伝えて行ったのでありますね。
この「時は満ち、神の国は近づいた」というのは、単に「その時が来た」という、そういう意味だけではなくて、神様のご計画に基づいた、神様が定められた、そういう「時」がやって来たという意味であります。ギリシャ語では「カイロス」という言葉が使われておりますが、この「カイロス」という「時」は、私たち人間によって左右されるような「時」ではなくて、むしろ神様が定められるところの「時」という、そういう意味合いの言葉であります。
旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)の3章の所には「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という事で、いろいろな時があるという事が述べられております。「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、まあこのあとも、いろいろと記されておりますけれども…、そして11節には、このような「時」というものを総括する形で、「神様はすべてを時宜にかなうように(その時々にちょうどぴったり合うように、その時というものを)造られた」とあります。
「神様はすべてを時宜にかなうように造られた」。この箇所は、前の口語訳聖書では「神のなされる事は、皆、その時にかなって美しい」と訳しておりますが、神様はすべての時というものを定め、その時を美しい時として用意して下さっているのでありますね。
私たちはこの世の生活の中で、「たまたまこうなった」「偶然こうなった」というような事をよく申します。確かに、私たちの目からすれば「たまたま、偶然」というふうに見える事も沢山ある訳ですけれども、しかしながら、聖書は「神様の導き」という事を言うのであります。
神様が、その「時」を備え、神様が「その時」を導いて下さる。私たちには「たまたま、偶然の出来事」と見えましても、そこに「神様の導き」というものを信じて生きていくのが、私たちクリスチャンのあり方というものではないでしょうか。
普通、私たちが「時」と言えば、一秒単位に刻まれる「時」というものを考えます。いわば、機械的な「時」、何時何分に起きてご飯を食べ、そして何時何分に出勤し、何時何分に帰宅するという、そういう機械的な「時」というものを考える訳でありますが、聖書は、単に、過去、現在、未来へと流れていく、そういう機械的な時というものだけではなくて、その「時々」の一コマ一コマ、一瞬一瞬がかけがえのない大切な意味を持ち、価値を持っているんだ、という事を教えているのであります。
「時」は、神様の御手の中にあって、神様がご支配されている。それが、聖書の「時」(カイロス)の概念であります。私たちは、このような聖書的な「時の概念」を大切にして行きたいと思います。自分では無意味であると思われるような時でも、その一瞬一瞬が、本当は大切な意味を持ち、また価値を持っているんだという、そういうことを信じて歩むものでありたいと思います。
という事で、今日はこのような聖書的な「時の概念」を前提にしながら、これから、少しばかりイエス様の弟子たちの召命のお話を学んで行きたいと思います。
で、先ず、16節からですけれども、イエス様はガリラヤの海辺を歩いて行かれ、そこで漁をしていたシモンとシモンの兄弟アンデレに出会います。この出会いは、先程の「時の概念」から申しますと、たまたま出会った、偶然出会ったという事ではなくて、「神様によって備えられた出会い」であったと言ってもいいと思います。
確かに、シモン・ペトロやアンデレにとっては、たまたまイエス様に出会った、ガリラヤ湖で網を打っていた時に、偶然、イエス様がそこを通られたので「出会いが生じた」と思ったかも知れません。しかしながら、「神様のなされる事は、皆その時にかなって美しい」という「時の概念」から言えば、この出会いも神様の導きであった、そんなふうに言えると思うのであります。
ところで、イエス様は、シモン・ペトロやアンデレに出会って、そして言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。今日の説教題は、このイエス様の「わたしについて来なさい」という言葉からとったものでありますが、ここで少しこの「わたしについて来なさい」という言葉について考えて見たいと思います。
「わたしについて来なさい」。英語では「Follow Me」(フォロー ミー)ですが、この言葉は、確かに、招きの言葉でありますけれども、「わたしについて来なさい」というと、何となく「俺について来い」というような、そんな感じもするのではないでしょうか。
しかし、この「わたしについて来なさい」というのは、原文では、Deu'te ojpivsw mou.(デウーテ オピソー ムー)という事でありまして、直訳すれば「さあ、いらっしゃい。私のうしろへ」という事であります。「さあ、おいで、さあ、いらっしゃい。私のうしろへ」。こうなりますとニューアンスもだいぶ変わってくるのではないでしょうか。
私たち現代人は、あまり命令口調のものにはついて行けないと言った、そういう風潮があります。学校でも、家庭でも、また一般社会においても、あまり命令的なものは好(この)まれない。昔の軍国主義の時代ならばいざ知らず、今は命令調のものはあまり好(す)かれない。まあ、人によっては、「はっきり命令された方がいい」という人も中にはおられるかも知れませんが、一般的な傾向としては、やはり上からの一方的な命令に対しては拒否反応を起こすといった、そういう人の方が多いように思います。
昨年(2013)の6月4日、サッカー日本代表がワールドカップへの出場を決めた夜、渋谷駅周辺に集まった群衆を、「日本(にっぽん)代表のように、サポーターの皆さんもチームワークを見せてください」などと言って、渋谷のスクランブル交差点の群衆を誘導した警察官のお話(DJポリス)。有名になりました。テレビやネットなどでも流されましたからご存知の方も多いと思いますが、彼が、もし命令調で「話なんかするな、さっさと渡れ」なんて言っていたら、暴動になっていたかも知れません。
要するに、今の時代は、命令調のものは流行らない。上からの一方的な命令に対しては拒否反応を起こすといった、そういう傾向が強いということであります。
ですから、今日の聖書の所も「わたしについて来なさい」という言葉を「俺について来い」という、そういうニューアンスで読みますと、あまりいい気持ちにはなれない。確かに、イエス様は「人間をとる漁師にしよう」なんておっしゃったかも知れません。また、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。一緒に神の国の福音を宣べ伝えよう」なんて言われたかも知れません。でも、だからと言って、生活必需品である大切な魚(さかな)をとる網を捨ててまで、イエス様に従って行くでしょうか。
ペトロたちは、イエス様が選んだ弟子だから、そうする事が出来たんだと言う人もいるかも知れません。あるいは、イエス様から選ばれた人間だから、この言葉で十分だった、と言う人もいるかも知れません。また、ペトロはおっちょこちょいだったから、あまり考えもしないで素直に従って行ったんだろうという人もいるかも知れません。
でも、突然「わたしについて来なさい」と言われ、大切なものをみんな捨てて、素直に従って行くなんて人が、どこにいるでしょうか。少なくとも、自分にはそんなこと出来ない、そんなふうに思う人がほとんどではないでしょうか。
しかし、この「私について来なさい」という言葉を、先程も申しましたように、原文の直訳のように「さあ(おいで、いらっしゃい)、私のうしろへ」というふうに理解しますとどうなるでしょうか。事情は大部変わってくると思います。なぜならば、「さあ(おいで、いらっしゃい)、私のうしろへ」というのは、何となく、母親が自分の子供に呼びかけているような、そんな感じもするからであります。
カルガモの親子。お母さんのカルガモが先頭に立って、子どものカルガモがそのあとをちょこちょことついて行く姿。なんと愛らしい姿でしょうか。ときどき迷子になりそうな子どものカルガモ。お母さんカルガモが、「さあ、私のあとに、ちゃんとついて来なさいよ」とやさしく声をかけている、そんなイメージ。そんなイメージを思い浮かべることは間違いでしょうか。私は、イエス様のこの言葉の中に、そんなイメージを感じるのであります。
イエス様が「わたしについて来なさい」と語られた、この言葉、呼びかけ。これは「愛の呼びかけ」だったのではないでしょうか。「私のうしろについていらっしゃい。一緒に歩んで行こう。神の国を目指して一緒に歩んで行きましょう」。そんな意味合いで、この言葉を受け止めれば、ペトロたちが全てを捨ててイエス様に従って行ったという、その行為もなんとなく分かるような気もするのであります。
ペトロたちは、イエス様の言葉の中に、あるいは「イエス様のまなざし」の中に「愛を感じた」のではないでしょうか。イエス様のやさしさ、思いやり、何かほのぼのとした温かさを感じたのではないかと思うのであります。だからこそ、全てを捨ててまで、イエス様に従って行くことが出来た。そんなふうにも思われるのですが、皆さんはどう思われますでしょうか。
殺伐とした現代社会の中にあって、私たちは誰でも皆、愛に飢え乾いております。特に、機械化が進み、全てがオートメーション化されるような、そういう中にあって、心と心がなかなか通じ合わない、そういう社会の中にあって、私たちは愛に飢え乾き、心の安らぎを求めております。
そんな私たちに、イエス様は、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と声をかけてくださいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)。イエス様は、やさしく招いておられるのであります。
イエス様は、確かに「私について来なさい」と言われました。しかし、このイエス様の言葉は、決して上から目線の言葉ではなかった。「俺について来い!。これからお前たちを人間をとる漁師にしてやるぞ」というような、そういう命令口調のものではなかったように思います。
ペトロたちは、イエス様の言葉の中に「愛の呼びかけ」を聞いたのであります。彼らは、イエス様の中に、イエス様という人格の中に、愛を見い出したのだと思います。「さあ(おいで、さあ、いらっしゃい)、私のうしろへ」。
私たちは「愛の呼びかけ」を聞く時に、振り向かざるを得ません。なぜならば、私たちは愛に飢え乾いているからであります。弟子たちが、イエス様について行ったのは、イエス様の愛に捕らえられ、引きつけられたからではないでしょうか。
すばらしい教えや理論も大切かも知れません。でも、本当に人の心を引きつけるのは、温かな、豊かな愛なのであります。イエス様は愛のお方であります。私たちのために、自分の命さえ差し出されたお方。それがイエス様であります。そのイエス様が呼びかけてくださるのであります。「さあ、おいで、さあ、いらっしゃい、私のうしろへ」と。
私たち、今日も、このイエス様の「愛の呼びかけ」を聞きながら、イエス様に従って歩んで行くものでありたいと思います。
イエス様は、決して私たちを見捨てません。いつも先頭に立って、私たちを守ってくださいます。私たち、イエス様に守られ導かれて、イエス様と一緒に、神の国を目指して、これからも力強く歩んで行きたいと思います。
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