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説教 「イエスの洗礼」 (マルコ 1:9-11) 2014/1/12

 今日は、「イエス様が洗礼(バプテスマ)を受けられた」という事について、少し考えてみたいと思います。
 
 「イエス様が洗礼(バプテスマ)を受けられた」というお話は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されておりますが、先程お読みいただきましたマルコ福音書、それからルカ福音書には、イエス様が洗礼を受けられたということと、天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が聞こえたということだけしか記されておりません。

 でも、マタイ福音書には、このときのことが結構詳しく記されておりますので、マタイ福音書の所も見ていただければと思います。マタイ福音書では3章の13節以下の所に「イエス様の洗礼」のお話が載っています。

 ところで、「イエス様の洗礼」、これはイエス様が「罪人の受けるべき悔い改めの洗礼(バプテスマ)をお受けになった」という出来事ですから、これは、理屈から申しますと、ちょっとおかしいということになるのではないでしょうか。

 聖書によれば、イエス様は、罪のない神の独り子であると言われております。どうして罪のない神の独り子が、罪人の受けるべき洗礼をお受けになられたのでしょうか。イエス様は洗礼を受けられるまでは、ご自分も罪人の一人だと考えておられたのでしょうか。今日は、先ずこの問題から考えてみたいと思います。

 で、この問題を解く鍵ですけれども、イエス様が語られた言葉をヒントにして考えることが一番いいと思いますので、先程申しましたマタイ福音書の3章13節以下を見ていただきたいと思います。

 イエス様は、洗礼者ヨハネが「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか」と言った時、このように答えられたとあります。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。(マタイ3:15)

 イエス様が洗礼を受けようとして、洗礼者ヨハネの所にやって来た。ヨハネは、自分こそイエス様から洗礼を受けるべきなのに、どうしてイエス様が罪人の受けるべき洗礼を受ようとされるのか、分からないのであります。私たちの問いと同じであります。そのとき語ったイエス様の言葉が、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」という、この言葉であります。

 イエス様は「今は」ということを言っています。「今は、止めないでほしい」。これは、このあとのこと、すなわち「将来」を見据えての発言であります。それでは、イエス様の将来には何があるのでしょうか。イエス様の将来、そこには、あの「十字架の出来事」がありました。イエス様は、あの「十字架」のことを念頭におきながら、「今は」ということを言っているのではないでしょうか。

 それでは、イエス様が受けようとしておられる洗礼、罪人の受けるべき洗礼と十字架、どんな関係があるのでしょうか。イエス様の十字架、それは私たち罪人の身代わりとしての十字架であります。イエス様は、私たち罪人の身代わりとして十字架におかかりになったのであります。もっと正確に言えば、イエス様は罪人の代表として十字架に付けられた。イエス様は、罪人の一人になったのでありますね。聖書には、『彼は罪人の一人に数えられた』(ルカ22:37、口語訳)という言葉もあります。

 罪のないお方、神の独り子が罪人になる。普通は「そんな馬鹿げたこと、あるもんか」と思うのであります。でも、もしイエス様が罪人にならなかったとしたら、イエス様の十字架の出来事というのは、観念的なものになってしまうのではないでしょうか。

 イエス様の十字架、それは私たちの罪を贖うものであるとか、神の愛を示すものであるとか、いろいろ言われます。でも、ただ聖書にそう書いてあるということだけであるならば、それは、単なる教え、観念的なものになってしまうのではないでしょうか。しかし、イエス様の十字架、それは決して観念的なものではありません。現実の私たちのあり方とかけ離れた所の出来事ではないのであります。それはキリスト教の歴史が証明しております。

 イエス様の十字架によって救われた人たちがどの位いるでしょうか。キリスト教2000年の歴史の中で、十字架の恵みに触れ、救われた人は数限りなくいるのであります。イエス様の十字架は、正に私たち人間の生き方と深い関わりを持っているものなのであります。

 そして、その原点にあるのが、イエス様の人間性、イエス様が罪人の立場までへりくだられた、罪人の代表になったという事であります。勿論、ここで言う罪人というのは、何か悪いことをしたという意味での罪人ではありません。神様から見捨てられた所の孤独な人間のことであります。

 イエス様は十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と大声で叫ばれました(マタイ27:46、マルコ15:34)。これが罪人の代表者の叫びであります。イエス様は神様からも、また人間からも見捨てられて、孤独な罪人として、罪人の代表者として息を引き取られたのであります。イエス様は、私たちと同じ罪人になったのであります。この世的な罪は犯しませんでしたが、神様の前にあって、私たちと同じ罪人の立場に立たれた。それがイエス様なのであります。

 で、このような所から「イエス様の洗礼」というものを考えて見れば、その意味は明らかであります。罪のない神の独り子イエス様が、罪人の受ける洗礼を受けられたのは、イエス様ご自身、「罪人になった」、罪人の立場に立たれたということを語っているのであります。

 勿論、常識的に考えれば、罪のない者が「罪人になる」、罪人の立場に立つなんて、おかしな話であります。しかし、聖書は常識の世界を語っているのではありません。神様の世界のことを語っているのであります。

 私たちが聖書を読んで躓(つまず)くのは、聖書のお話を私たちの常識で理解しようとするからであります。私たちの常識で聖書を読む時、分からない事が沢山あるのであります。それは当然であります。神様の世界のことを教えている聖書を、私たちの常識の世界に引き下げて理解しようとするからであります。

 聖書は、私たちの常識で理解すべきものではありません。そうではなくて、逆に聖書の世界に私たちが引き上げられて読むべき、そういう性格のものであります。ですから、聖書に記されている事柄が分からないからと言って、聖書はおかしいと決め付けてしまうのはどうかと思います。

 いずれにせよ、先程の「今は、止めないでほしい(今は洗礼を受けさせてもらいたい)」というイエス様の言葉、ここから教えられること、それは「イエス様ご自身、罪人になった、罪人の立場に立たれた」という、そういうことを語っている言葉、そんなふうに理解してもいいのではないでしょうか。

 ところで、「今は、止めないでほしい」と言われたイエス様。続けてこのようにも言われました。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。イエス様が洗礼を受けられること、そしてまた、ヨハネがイエス様に洗礼を授けること、それは「正しいこと、ふさわしいことだ」と言うのであります。これはどういうことを意味しているのでしょうか。

 イエス様が洗礼を受けられることについては、先程も申しましたように、十字架を見据えての発言と言ってもいいと思います。イエス様は、罪人が受けるべきべき洗礼をお受けになり、罪人の代表として十字架につけられたのであります。そして、それは神様のご計画でもありました。使徒言行録の2章23節の所には、こんなことが記されております。

 「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのです。」 そして、十字架につけて殺してしまった。

 神様の計画。そんなもの、私たちには分かるはずはないのですが、でも、聖書は、こういう視点を大切にしているのであります。イエス様が十字架に付けられたのは「神様の計画によるもの」。そんなふうに理解しますと、すべてが見えて来るのではないでしょうか。イエス様が洗礼を受けられること、そしてまた、ヨハネがイエス様に洗礼を授けること、それは、神様の計画から言えば、「正しいこと、ふさわしいこと」、そんなふうにも言えるのだと思います。

 私たちは、普通自分の視点から物事を見ています。私はこんなふうに思う。こんなふうに考える。それも確かに大切なことですけれども、それだけではなくて、私たちは「上から目線」も持つべきではないでしょうか。

 「上から目線」なんて言いますと、普通は人を見下(みくだ)すような、そんな意味合いがありまして嫌われる訳ですれども、ここで言う「上から目線」というのは、私たちそのもの、人間そのもの、私たちの生きている世界、そして聖書に語られている事柄も含め、物事を「上から見る」ということであります。

 「こどもさんびか」に、「ロケットにのって」という歌があります。「ロケットに乗って、地球を見たら、地球は青い星でしたって、するとみんなは星の国の子どもたち」。こんな歌が「こどもさんびか」にありますが、正に、ロケットに乗って、上から、ずっと上から地球を見るような、そんな見方、視点。それが「上から目線」であります。

 私たちは、このような「上から目線」というものをもっともっと持つべきではないでしょうか。先程、私たちの常識で聖書を読むと分からないことが沢山あるというお話をしましたけれども、私たちは、自分の常識に捕らわれるのではなく、もっともっと広い視点、「上から目線」から物事を見るべきではないかと思います。「上から目線」で見れば、見えて来るものが沢山あるのであります。

 神様の計画。確かに、私たちには神様の計画なんてそう簡単に分かる訳はありません。でも、イエス様の十字架が「神様のご計画」によってなされたものだとするならば、そういう視点から、イエス様の出来事を理解していくことも大切なのではないでしょうか。

 いずれにせよ、イエス様が洗礼を受けられたこと、そしてまた、ヨハネがイエス様に洗礼を授けたこと、それは、神様のご計画から言えば「正しいこと、ふさわしいこと」だったのであります。そして、この「正しい」ということを証明する言葉が、天から聞こえて来たという、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声ではないでしょうか。

 イエス様は、神様の愛する神の独り子なんであります。神様の御心に適うお方なのであります。なぜならば、イエス様は神様のご計画に従って、神様の御心を行っていかれるからであります。そして、その最終目標が、あの十字架。イエス様の十字架は、私たちの罪を赦すために必要不可欠なものなのであります。それなくしては、私たち罪人を救うなんてできないのであります。

 イエス様が、「あなたはわたし(神様)の愛する子、わたし(神様)の心に適う者」という声を聞いたというのは、単にイエス様に、そういう声を聞こえたということだけではなく、私たちもまた、その声を聞かなければならないということではないでしょうか。

 私たちは、イエス様が、神様のご計画に従って、神様に愛され、神様の御心に適うお方として、神様の御心を実際に行っていかれたということを是非覚えたいものであります。

 今日は、イエス様の受洗、イエス様が洗礼を受けられたというお話の所を取り上げましたが、最後にもう一つだけお話させていただきたいことがあります。それは、私たちの洗礼・受洗ということであります。

 イエス様は神様のご計画に従って、「正しいこと」として洗礼をお受けになられました。勿論、このイエス様の洗礼と私たちの洗礼とを同一視することは出来ませんけれども、イエス様が正しいこととしてお受けになった洗礼は、そのまま私たちにも当てはまるのではないでしょうか。

 ペトロの手紙一2章21節には、「キリストは、その足(あし)跡(あと)に続くようにと、模範を残された」という言葉があります。イエス様が模範を残されたということは、このイエス様の洗礼ということにも当てはまるのではないでしょうか。しかも、復活されたイエス様は「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28:19-20)とも語られました。

 私たちが洗礼を受けるというのは、あのイエス様の十字架によって成し遂げられた「罪の赦し」を信じ、「新しく生まれ変わって、神様の御心に適う歩みをしていく」という、そういう「けじめ」の儀式ですけれども、それは「正しいこと」であり、神様の御心に適うことでもあります。

 イエス様を信じ、イエス様に従って歩んで行こうと思う者は、洗礼を受けるということも考えて見ては如何でしょうか。勿論、時というものがありますから、今すぐ受けなさいというようなことではありませんが、これからイエス様に従って歩んで行こうと思われる方は、「正しいこと」として、洗礼を受けるべきだと思います。

 また、既に洗礼を受けた私たちは、一人でも多くの人が、イエス様を信じ、救いにあずかることが出来るように、祈り、そしてまた、励まして行ければと思います。

 イエス様が洗礼をお受けになった。それは、私たちにも洗礼を受けるようにと勧めている、そんな言葉としても受け止めて行きたいものであります。

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