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説教 「少年イエス」 (ルカ 2:41-52) 2014/1/5
新年礼拝
 先程お読みいただきました今日の聖書の所は、イエス様が12才の時のことが記されているお話であります。このお話は、ルカ福音書にしかありません。

 実は、私たちが読んでいる聖書には、イエス様の誕生の出来事については記されておりますが、そのあと急に30才まで飛んでしまって、その間の事は、ほとんど記されておりません。例外として、12才の時の出来事が、このルカ福音書に書かれているだけであります。

 イエス様は偉大な人物でしたけれども、偉大な人物のお話を書くのであれば、子供時代の事をもっと書くべきではないでしょうか。なぜならば、人間の性格や才能は、子供時代の環境によって大きく左右されるからであります。「三つ児の魂、百までも」という言葉もありますが、子供時代、どのような環境の中で育ったか、お父さんやお母さんはどうだったか、友達関係はどうだったか、そういう子供時代の環境によってその人の生涯というのは大きく変わって行く訳であります。

 しかしながら、聖書には、イエス様の子供時代の事は、ほとんど書かれていない。実は、聖書の中に取り上げられなかった文書の中には、5才から12才までのイエス様のお話もあるのであます。例えば、「トマスによるイエスの幼児物語」という文書。これは「外典」と呼ばれておりますが、こんなお話もあります。(聖書外典偽典6、P、123f.)

 「少年イエスが5歳の時であった。雨が降って流れの浅瀬で遊んでいた折、流れる水を穴に集め、即座に清くしてしまった。しかも言葉で命じただけであった。

 また、柔らかい粘土をこね、それで12羽の雀を形作った。これを作ったのは安息日の時のことであった。そしてほかの沢山の子供たちが一緒に遊んでいた。

 するとあるユダヤ人が、イエスが安息日に遊びながらしたことを見て、すぐに行って彼の父ヨセフに告げた。「ご覧なさい。あなたの子どもは小川のほとりにいて、泥を取って12羽の鳥を作り、安息日を汚した」。

 そこでヨセフはその場所へ来て、それを見、大声をあげて言った。「なぜ安息日にしてはならないことをする」。するとイエスは手を打ってその雀に叫んで言った。「行け」。そうすると雀は羽を広げ、鳴きながら飛んで行ってしまった。」(2世紀の文書、聖書正典化は397年)

 このようにイエス様の子供時代を書いている文書もちゃんとある。しかし、これらは私達の聖書には取り上げられませんでした。どうしてなんでしょうか。

 このことを考える時、私達は、もう一度、聖書の性格というものを考えてみなければならないと思います。要するに、聖書というのは、単なる「伝記ではない」ということであります。

 マルコ福音書の最初は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という書き出しになって居りますが、これが福音書の、そして聖書の特徴なのであります。「神の子イエス・キリスト」、すなわち、神の子がこの世に来られ、その神の子がイエス様であって、そのイエス様がキリスト・救い主であるという事を証し、語ろうとしているのが福音書であり、聖書なのでありますね。ですから、ほかのことをこと細かく記す必要はない。

 人間の偉大さを証しするのであれば、その生涯を、伝記風に、子供時代の事も詳しく書かなければならないかも知れません。でも、救い主を証しするのであれば、聖書の書き方で十分なのであります。

 ところで、今日の聖書の所ですが、ここには、イエス様が12才の時の出来事が記されている訳ですけれども、このお話において、私達は、イエス様の少年時代、こういう事があった、エルサレムに宮詣(もう)でに行き、その帰りに両親とはぐれてしまって、捜したところ、神殿の中にいたというような、そういう出来事を学ぶだけでは十分ではないと思います。

 勿論、少年イエスはこうであった、学者たちと議論できるくらいに賢かった。また、不思議な事を語る少年であったという事を知っておくのも必要でしょうが、それだけではなく、むしろ、ここで学ばなければならないのは、この12才の少年イエス様の出来事の中に先程から申しておりますように、福音が語られているという事ではないでしょうか。

 それでは、ルカは、どのようにして、この物語を通し、福音を語っているのでしょうか。その事を少し考えてみたいと思います。

 先ず、今日の所ですが、このような書き出しから始まります、「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」

 「過越祭」というのは、ユダヤ人の三大祭の一つでありまして、春に行われたお祭であります。この過越祭には、多くの人達が神殿のあるエルサレムへやって来た訳ですが、イエス様の家族も例外ではなく、毎年過越祭には、エルサレムへ上って行ったんでありますね。

 で、ここまでは特別何も問題はないんであります。ところが、今日の所は、それがイエス様の12才の時であったとある訳であります。どうして、12才の時の出来事が記されているんでしょうか。12才という年令に特別な意味があるのでしょうか。そうなんです、12才という年令がここでは極めて大切なのであります。

 イエス様はユダヤ人ですけれども、ユダヤ人の男子は、13才になりますと、律法に対して責任をもたなければならない、律法を守る「成人」と見なされました。で、イエス様が12才の時というのはその一年前ということでありまして、これからいよいよ、一人前になって、大人と同じように律法を守らなくてはならない。律法に対して責任を負わなければならないという、そういう立場に立たされる、という事を語っている訳であります。

 ユダヤ人は、律法の民であるとよく言われますが、律法を守るという事は、言い換えれば神様の前に責任をもって歩んで行くという事ですから、当然、その責任を負いうる者でなければなりませんし、実際に責任を負わなければならなかった訳であります。13才という年令は、私達からしてみれば、ちょっと若すぎるという気もしないではありません。でも、ユダヤ人は13才になれば、みな、この律法の前に立たされ、その律法に従った生き方が要求されたのであります。

 で、そういう事情をふまえた上で、イエス様が、両親に連れられて、エルサレムの神殿に行かれたという事を考えれば、これは非常に大切な事を私達に示していると思うのであります。それは、イエス様が、これからいよいよ、公けに、神様に対して責任をもつ者となられるという事を語っているからであります。神様に対して公けに責任を持って歩んで行く。

 人間は本来、神様の前に、人間としての責任を果し、神様のみ旨に従った歩みをなすように創造されたのであります。その人間の立場に、今、イエス様は立たれようとしておられるのであります。

 神が人となってこの世に来られたというのがキリスト教の大きな秘義ですけれども、人間になられたというのは、単に人間として生まれたという事だけを意味するのではありません。神様の前に人間としての責任を負うという、そういう事があって始めて、人間になったと言える訳であります。

 日本には「成人式」というものがありますが、成人というのは「人になる」という事で、一人前の人間になるという事でありますね。選挙権が与えられたり、また、様々な責任が課せられ、大人になる訳であります。それまでは、人間ではありましても半人前というのでしょうか、未成年ということで十分な責任をとる事も出来ない、社会的にはまだ一人前として扱ってもらえないのであります。

 神が人となられたというのでも、ただ人間として生まれたという事だけでは、充分ではないのであります。神様の前に、人間としての責任を負う、そういう立場を与えられて初めて、人間になったと言える訳であります。

 ガラテヤ人への手紙の4章4節には、「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」という言葉があります。これは、女から生まれたという事だけではなく、律法の下に生まれ、その律法を守る責任を負う、そういう一人前の人間として、イエス様はこの世につかわされたという、そういう事を意味している言葉と言ってもいいと思います。

 ちょっと、ややこしい事を申し上げましたけれども、今日のテキストで、イエス様が12才の時に、両親に連れられてエルサレムの神殿に行かれたという事は、要するに、イエス様の人間性を語るものであるということであります。そして、ここにこそ、福音の証しがあると言ってもいいと思うのであります。
 私達は、神の子というような事を考えますと、それは、神様のように自由な者、何の束縛もなく、何の制限も受けない、全く、自由にふるまう事のできる者、また、聖(きよ)く、美しく、たくましく、と限りなくいいことづくめの事を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、もし神の子が、そのようなものであったとしたら、私達のような汚れた、罪のある、弱い人間にとっては、近づきがたい存在になってしまいます。そんな救い主ならば、私達の救い主になっていただくわけにはいかないんじゃないでしょうか。
 しかし、イエス様は、私たちと同じ人間となる事によって、私達の悩みや苦しみを実際に知り給うのであります。私達人間の弱さ、人間の悩み、苦しみ、そういうものを、同じ人間になる事によって、よくよく理解してくださるのであります。そういうイエス様であればこそ、私達は、私達の救い主として、イエス様を受け入れる事ができるのではないでしょうか。
 ヘブライ人への手紙には、このような言葉があります。
 「この大祭司(イエス様)は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ 4:15)

 「(イエス様)御自身、、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ 2:18)

 救い主が、もし私達人間の弱さや悩みや苦しみ、また痛みや悲しみなど、全く分からないお方であるとするならば、たとえ、その方がどんなに神聖なお方であり、また、どんなにすばらしい救い主であったとしても、私達は、その方を、素直に救い主として受け入れる事は出来ません。なぜならば、私達人間の弱さも分からないような、悩みや苦しみも分からないような、そんな救い主であれば、私達には関係のないものになってしまうからであります。

 私の救い主という時、それは、実際に私を救ってくれる救い主でなければなりません。観念的な、あるいは、抽象的な救い主、あるいは、第三者的な救い主、そういう救い主では、私の救い主にはならないのであります。

 イエス様が神様から遣わされた救い主、メシア、キリストであったとしても、それだけでは、私の救い主にはならない。イエス様が私たちと同じ弱い人間になり、また私たちと同じような試練に会われたが故に、イエス様は、私たちの弱さを思いやる事ができる訳ですし、また、そういうイエス様であればこそ、私たちは、イエス様を救い主として受け入れる事ができるのではないでしょうか。イエス様は「私の救い主」であります。あなたの「救い主」であります。それが先ず最初であります。それから「私たちの救い主」になるのであります。

 神の子イエス様が私たちと同じ人間になられた、という聖書のメッセージ。これは、イエス様こそ真の救い主であることを証しするものであります。そして、これこそ、福音の証しと言えるのではないでしょうか。勿論、イエス様が、本当の救い主として、私達の目にはっきりと写し出されるのは、あの十字架による、私達の罪のゆるし、私達の身代わりとして、十字架上で血を流されたあの出来事を通してでありますけれども、あの十字架も、イエス様が私達と同じ人間となられたが故に、効力を持つものであります。

 イエス様の人間性、それはイエス様が、人間のあるべき姿をそのご生涯を通して示されたということもあります。本来、人間というのは、こうあるべきだという、人間のあるべき姿、それもイエス様は私たちに教えてくださいました。でも、それは私たちがイエス様によって救われたあと、「キリストにならって」歩んで行く歩みであります。最初から「キリストにならって」歩むなんて私たちには出来ません。それよりも先ず、私たちはイエス様によって救われなければならない。救ってもらわなければならないのであります。そして、その出発点が、イエス様が、私たちと同じ人間になられたということであります。

 ルカが、今日の聖書の所で、12才の時のイエス様の出来事を取り上げているのは、正に、このこと、人間となられたイエス様のこと、このイエス様こそ、私達の救い主であるということを語っているのではないでしょうか。

 お宮まいり、過越祭が終わって、ナザレに帰られたイエス様が「両親に仕えてお暮らしになった」という短い文章、そしてまた、「イエスは、知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という文章にも、イエス様が徹底的に人間であられたという事が示されているように思います。イエス様は神様にも、また人からも愛された「人間」だったのであります。

 少年イエス。いよいよ、これから大人の仲間入りをしようというイエス様。それは神様に対して公けに責任を負って行くべき人間の立場にイエス様が実際に立たれるという事を示して居ります。と同時に神の子が、このようにして、真の人間になられ、人間としての責任を負い、神様の前に人間として責任をもって歩んでいくという、そういう人間そのものになる事によって、イエス様こそ、真の救い主であるということを証しているのではないでしょうか。

 イエス様、イエス様のイメージには、いろいろあると思います。赤ちゃんイエス様を想い浮かべる人もいるかも知れません。あるいは、今日のテキストに出て来たような、少年イエス様を想い浮かべる人もいるかも知れません。あるいは、みことばを語り、病人をいやして下さるイエス様、あるいは、十字架につけられているイエス様、いろいろなイエス様のイメージがあります。しかしながら、聖書が、私達に語りかけるイエス様のイメージ、それは、救い主としてのイメージであります。

 私達は、イエス様を、先ず「私の救い主」として、観念的な、抽象的な救い主でなく、「私の救い主」として心の中にお受けしたいものであります。イエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、また、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている私たちを助けることができるお方なのであります。

 繰り返しますが、イエス様は「私の救い主」であります。私にとっての救い主、あなたにとっての救い主。そこから始まって行きます。自分にとってのイエス様、自分にとっての救い主、それが分かりますと、私達の人生は変えられて行きます。聖書は、私達の人生の方向転換を教える書物であります。イエス様を自分の救い主として受け入れる時、私達は変えられて行くのであります。

 新しい年、イエス様を、先ず「自分の救い主」として、しっかりと、心の中に受け入れることから始めて行きたいと思います。

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