説教集 本文へジャンプ
説教 「救いを待ち望んでいた人たち」 (ルカ 2:21-40) 2013/12/29

 今日は、今年最後の聖日礼拝であります。この一年間、いろいろなことがありましたけれども、神様に守り導かれてまいりましたことを感謝しながら、この礼拝を守りたいと思います。

 ところで、先週はクリスマスでしたけれども、世界で最初のクリスマスは、馬小屋、家畜小屋から始まりました。それは宿屋がいっぱいだったから、ということもありますが、同時に、これはイエス様の家族が貧しかったということを語っているお話でもあります。

 当時の一般大衆は、下層階級に属しておりまして、みんなが貧しかった。お金持ちの上流階級は、ほんの一部で、大多数の民衆は貧しい下層階級に属しておりました。イエス様の家族も、決して例外ではなく、貧しかったのであります。それは今日のテキストの中にも出てまいります。イエス様の両親は、「清めの期間が過ぎたとき、すなわち、出産後40日が過ぎたとき、エルサレムの神殿に行った」ということですが、そのことをルカ福音書はこんなふうに書いています。

 「両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛(ひな)二羽をいけにえとして献げるためであった」。

ここに「山鳩一つがいか、家鳩の雛(ひな)二羽」とありますが、これはレビ記12章にある掟に従ったものであります。レビ記には、こんなふうにあります。

 「男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。
 なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。」(レビ12:6-8)。

 もうお分かりだと思いますが、イエス様の両親は、貧しくて、小羊に手が届かなかったのであります。それ故、ルカは、小羊のことには触れずに「山鳩一つがいか、家鳩の雛(ひな)二羽」とだけ書きました。さりげない書き方ですけれども、私たちはこのような表現の中にも、イエス様が貧しい一般大衆と共にそのご生涯を始められた、という事を知ることが出来るのではないでしょうか。

 イエス様は王の王(King of Kings)として、この世に来られましたが、決して立派な宮殿に生まれたのではありません。きたない、異臭のする貧しい馬小屋・家畜小屋で生まれたのであります。彼の両親は、貧しくて、略式の献げ物しか献げられませんでした。しかし、イエス様はイエス様。その貧しい両親に抱かれ、神殿に連れてこられた幼な子・イエス様の中に真(まこと)の救い主の姿を発見した人たちがおりました。一人は「シメオン」という老人。それから、もう一人は「アンナ」という女預言者であります。

 シメオンは、25節によりますと「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」とありますから、この人も預言者のような人だったと言ってもよいと思います。とにかく、このシメオンは、幼な子イエス様を見つけると、腕に抱き上げ、神様をほめたたえて、このように言いました。29節からですが…

 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」

 このシメオンの賛歌は、ラテン語の最初の二文字をとって「Nunc Dimitis」と呼ばれていますが、(cf.マリアの賛歌(マグニフィカト、マニフィカート)ここには長い間待ち望んで来た救い主誕生の喜びが語られております。

 今まで、ただ一筋に救い主が生まれるのを夢見て待ち望み、生き甲斐としていた事が、今かなえられ、それを目(ま)の当たりにしている。シメオンの心は、本当に喜びに満たされたのであります。もうこの世に未練はない。安らかに神様のみもとに行ける。そういう満たされた気持ち。この賛歌を「Nunc Dimitis」(今こそ、汝は去り行かせ給う)と呼ぶのは、本当に適切な呼び方ではないでしょうか。

 ところで、ヨセフとマリアは、このようなシメオンの言葉を聞いて驚きました。どうしてでしょうか。彼らは、すでに御使(みつかい)・天使からイエス様の事について聞いていたのであります。マタイ、ルカの1章の所には、そういう天使のお告げの事が記されているのでありますね。にもかかわらず、今、目の前の老人から、直接に、イエス様が救い主である事を知らされて、彼らは驚いた。なぜでしょうか。

 多分、彼らは、夢や幻の中で語られた言葉を、今現実に目の前に立っている人から直接聞かされたので驚いたのではないでしょうか。人間には弱さがあります。いくら夢や幻の中でお告げを受けても、一年も前の事なんて、いつの間にか記憶がうすれ、ぼんやりしてしまうものであります。でも、今それを目の前の人からもう一度聞かされたらどうでしょうか。今までぼんやりとしていたものが、鮮やかによみがえってくる。あれはやはり本当だったのかと驚くのは、これは当然ではないでしょうか。

 ところで、このように驚いている両親を、シメオンは祝福し、また予言して、このように言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」。

 ここには、イエス様の働きと運命が語られております。イエス様は、多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするのであります。しかし、最後には、みんなから反対を受け、捨てられてしまう。

 私たちは、イエス様の前に立つとき、一つの決断を迫られます。それは「信じるか否か」という、そういう信仰の決断であります。神様がお遣わしになった方によって、イスラエルの道は大きく二つに分けられる。多くの者は、イエス様に躓き、その足下に倒れる。彼らは、イエス様に触れることによって、かえって自分の罪の中に堅く閉じこもるからであります。しかし、イエス様によって立ち上がる者もいる。イエス様によって力を与えられ、励まされるからであります。

 人間というものは不思議なものでありまして、すばらしいものだと分かっていればいる程、かえってそれに反対してみたくなるような、そんな人もおります。特に、インテリになればなる程、屁理屈などを言って、正しいものでさえ、間違ったものにしてしまう、そんな傾向もある。彼は一歩退いて自分を抑(よく)制(せい)する事を知らず、常に自己正当化の上に立とうといたします。彼は自分の罪を知ってはいるのですが、それを暴かれる事がこわくて、かえって自己防衛的に自分の殻の中に閉じこもってしまうのであります。しかし、真(まこと)の光の前では、自分では隠していると思っているものでも照らし出され、真偽が明らかにされるのであります。

 私たちは、イエス様の前に立たされるとき、信じるか否か、イエス様を救い主として受け入れるか否かの二者択一しかないのではないでしょうか。どうしても、自分の殻を捨てられず、自分を否定できない人は、イエス様を十字架にかけなければ気が休まりません。それは「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」であります。

 イエス様を信じ、神の側につく者がいれば、必ずその反対に神に背く者も出てくる。それが現実ではないでしょうか。とにかく、イエス様の前では、全人類は大きく二つに分けられてしまうのであります。確かに、イエス様の最後は十字架の死でありました。それ故、母マリアも、「剣(つるぎ)で心を刺し貫かれ」る程苦しんだのでしょうが、今や、イエス様は復活され、再び私たちに語りかけてまいります。「あなたは私を信じるか、あなたは私を愛するか」と。

 イエス様の「あなたは私を信じるか、愛するか」という問いに対して、私たちは何と答えたらよいのでしょうか。Yesでしょうか、Noでしょうか。二つに一つなのであります。

 ところで、次に、幼な子イエス様の中に救い主を洞察した、もう一人の人、「アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者」についても考えてみたいと思います。彼女もシメオンと同様非常に年をとっておりました。彼女は「若いときに結婚し、七年間夫と共に暮らしましたけれども、その後、夫に死に別れ、八十四歳になっていた」とあります。ですから、人生の花盛りはとうの昔に過ぎ去り、心にあたためていた望みも枯渇し、なるがままに身をまかせていたのではないか、なんて思われますが、さにあらず。37節の所を見ますと、彼女は「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」とあります。

 人生の晩年について、私たちは、このアンナという老婦人から学ぶべき事が沢山あるように思います。彼女は早くしてやもめになり、人生の無常観というか、人間の悲しみをよくよく知っていた人であります。しかし、彼女は、その悲しみのために、ひがんだり、愚痴を言ったり、神様に反抗的になったりすることはありませんでした。

 今、年を取り、身内もいない独りぽっちの身ですから、なすがままのうつろな日々を過ごしていたのかというと、決してそうではない。彼女は神様の家である神殿を離れず、絶えず礼拝を守り、断食と深い祈りをもって神様に仕えていたのであります。アンナは、敬虔な信仰者だったのであります。そして、彼女はただひたすら待っていた。何を待っていたのでしょう。シメオンと同じように、救い主が生まれるのを待っていたのでありますね。ですから、幼な子イエス様を見つけると、彼女は「近づいて来て神様を賛美し」、この方こそ救い主であると証ししました。

 38節には、彼女は「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。ただこのことのためだけに生きてきたと言っても過言ではないアンナの心境、それは、シメオンが「今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と歌った、あの心境と同じだったのではないでしょうか。

 さて、私たちは、今まで、シメオンとアンナという二人の預言者を通して、救いを待ち望んでいた人たちの姿を見て来ました。おおよそ「待ち望む」ということが出来るのは、そこに何らかの約束があり、その約束に対する確信があるからではないでしょうか。もし、約束も何もないのでしたら、待ち望むなんて、これは全くの無意味であります。

 シメオンにしても、アンナにしても、聖書で預言されていた神様の救いの約束というものがあったればこそ、年老いても、望みを捨てることなく待ち望むことが出来たのであります。約束というものがあってはじめて待ち望むことが出来る。でも、約束があっても、それを信じなければどうでしょう。信じなければ、待ち望むというような事もしないのではないでしょうか。結局、待ち望むということは、これは信仰の問題と言ってもいいと思います。
 ヘブライ人への手紙の11章1節の所には、有名な、このような言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

 今日出てきましたシメオンにしろ、アンナにしろ、彼らは神様の救いの約束を待ち続けました。「望んでいる事柄を確信し、まだ見ていなくても」、彼らは「その時が、必ず来る」と信じて待ち続けたのであります。待って待って、待ち続けました。もう先がないというところまで来ていました。でも、そんな彼らのために、神様は、ちゃんと「その時」を用意してくださっていました。彼らはイエス様にお会いすることが出来たのでありますね。

 「終わり良ければすべて良し」。彼らの人生、いろいろなことがあったと思いますが、結局は「祝福された人生だった」と言ってもいいのではないでしょうか。

 私は、このシメオンとアンナのお話を見るとき、私も、「このような人生の終わりを迎えることが出来ればなあ」なんて考えさせられます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」 すばらしい言葉ではないでしょうか。

 今年も、もうすぐ終わりです。この一年の歩みを振り返りつつ、神様の豊かな恵みを思い起こし、感謝しながら、そして、平安なうちに、この年を終えることが出来ればと思います。そして、新しい年も、聖書の約束を信じて、希望をもって、主の恵みと導きを待ち望むものでありたいと思います。

このページの先頭へ
説教集目次へ
三条教会トップ゜ページへ
燕教会トップページへ