クリスマス、おめでとうございます。今日は、クリスマス・イヴ、みんなでキャンドルに火を灯して、礼拝を守りました。キャンドルに火が灯りますと、なんとなく厳かな雰囲気にもなりますね。
クリスマスは、厳かなときであります。なんと申しましても、神の御子が、この世にお生まれになったということを思い浮かべるときですから、厳かであっていいと思います。
ところで、クリスマスと申しますと、「愛」ということが一つテーマに挙げられると思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
クリスマスは、神さまがこの世を愛してくださった、否、今も私たち一人ひとりを愛してくださっている。そういうことが示された日であります。神さまは、私たち一人ひとりを愛してくださっているのでありますね。それ故、ご自身の独り子・イエス様を、私たちが住んでいるこの世にお遣わしになったのであります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。これがクリスマスの一つのテーマと言ってもいいと思います。
ところで、「愛」ということを申しますと、いろいろなイメージがあると思うのですが、聖書が教える「愛」、それはどんなものなのでしょうか。
1900年頃のアメリカに、オー・ヘンリーという小説家がおりました。彼は「賢者の贈りもの」(The Gift of the Magi)という短い短編小説を書きました。どんなお話かと申しますと、それは12月24日のクリスマス・イヴの日に起こったヤングさんという若いご夫婦に起きた、こんなお話であります。
ヤングさんという若いご夫婦。ご主人の名はジム(Jim)、奥さんの名はデラ(Della)といいました。ジムは貧しいサラリーマン。1900年頃のアメリカは、貧しい人々がいっぱいいた時代であります。ですから、ヤング夫婦が特に貧しかったという訳ではありませんでした。奥さんのデラも、その貧しさには慣れていました。でも、ヤング夫妻が迎えたその年は、特別に景気が悪く、給料まで減ってしまいましたから、いつもより厳しいクリスマスを迎えなければなりませんでした。
でも、デラはこのクリスマス・イヴの日を、なんとか楽しく、そして、夫のジムを喜ばせることが出来たらと考えました。そこで、デラは、お家にあるお金をみんな出して数えました。一ドル87セント。何度数えなおしても、一ドル87セント、これだけしかありません。これではジムに何も買ってあげられない。デラの目から涙があふれてきました。
でも、デラが気をとりなおし、泣くのをやめ、姿見の前に立ってお化粧を整えていたときです。デラは、すばらしいことを思いつくのであります。彼女には膝の下までとどく美しい髪の毛があったのであります。
デラは、早速「かつらのお店」に出かけて行きました。そして、その美しい長い髪の毛を売ります。20ドルになりました。そして、その20ドルと1ドル87セントの1ドルを足して、21ドルで、あるものを買いました。それは、ジムの金時計に付けるプラチナの鎖でした。
実は、ヤング夫妻には二つの大切な宝物がありました。一つは、ジムの金時計であり、もう一つは、デラの美しい長い髪の毛でした。ジムの金時計、これは、ヤング家に代々伝わって来た金の懐中時計です。ジムは、この時計がとても気に入っていました。誇りにも思っていました。でも、鎖はなく、革のストラップがついていただけでした。
それから、もう一つの宝物、デラの髪の毛。これはシバの女王も羨(うらや)むほどの美しいものでした。でも、もうその美しい長い髪の毛はありません。デラは、自分の髪の毛を売って、代わりに、ジムの金時計に付けるプラチナの鎖を買ったのであります。
そして、それをジムにプレゼントしようと、デラはジムの帰りを待っていました。ジムは定刻通りにアパートに帰ってきました。でも、ドアを開けて部屋に入って来たジムは、デラの顔を見て、ほとんど白痴のように突っ立ってしまいました。どうしてだかわかりますでしょうか。
そうなんです。あのデラの美しい髪の毛がなくなっていたからなんでありますね。でも、それだけではありません。実は、ジムは、自分の大切にしていたあの金時計を売って、デラの髪の毛に飾る高価な鼈甲の櫛セットを買って来ていたからなんであります。
ジムは、デラに喜んでもらおうと、クリスマス・プレゼントに、あの美しい長い髪の毛にピッタリあう縁(ふち)に宝石のついている鼈甲の櫛を買ったのであります。勿論、ジムもお金なんかありません。ですから、彼は、自分が大切にしていた金時計を売って、質に入れて、お金を工面したのであります。しかし、今、目の前に立っているデラには、あの美しい長い髪の毛はないのであります。
デラは、自分の大切にしていた美しい長い髪の毛を売って、夫ジムのために、ジムの金時計につけるプラチナの鎖を買い、クリスマスのプレゼントにしました。ジムはジムで、大切にしていた金時計を売って、妻デラのために、デラに喜んでもらおうと、あの美しい髪の毛にピッタリあう鼈甲の櫛を買い、それをクリスマスのプレゼントにしたのであります。
でも、今や、デラの美しい長い髪の毛はありません。ジムの金時計もありません。二人が買った物は共に無駄になってしまいました。長い髪がありませんから、櫛も役に立ちません。金時計がありませんから、それに付けるプラチナの鎖だけでは意味がありません。どちらも無駄な買い物をしたということになります。
この若いカップル(夫婦)、大馬鹿者なのでしょうか。お互いに自分の大切なものをなくしてしまったヤング夫妻。しかも、結果として、「何の役にもたたないものを買ってしまった」この二人。彼らのことを愚か者だと言う人もいます。現代は、「結果が全て」というような、そんな時代ですから、ヤング夫妻、とんでもない大馬鹿者、愚か者、そんなふうに言う人もいるかも知れません。
でも、作者のオー・ヘンリーは最後に、こんなことを言うのであります。「現代の賢者たちに言おう。贈りものをする人々の中で、この二人こそ賢い人々であったのだと。贈りものを与え、贈りものを受けとる人々のなかで、彼ら二人のような者こそが最も賢い人々なのだと」。
ということで、このお話の題は「賢者の贈りもの」(The Gift of the Magi)となっているのですが、題にこだわらずに、このお話、「愛」というものについて、大切なことを私たちに教えている、そんなお話と言ってもいいのではないでしょうか。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」 先程お読みいただきました聖書には、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。ここに、神の愛が私たちの内に示されました」とあります。神さまは、ご自身の一番大切なお方イエス様を、私たちのためにこの世に贈って下さったのであります。「本当の愛」というのは、そういう自分の一番大切なものさえ「惜しまない」、そういうところに「現れれるもの」なのではないでしょうか。
先程のヤング夫妻、ジムとデラは、お互いに「これこそは」というクリスマス・プレゼントを考え、自分の持っている一番大切なものさえ惜しまずに、プレゼントを買いました。結果的には、役には立ちませんでしたけれども、しかしながら、そこには「本当の愛があった」と言ってもいいと思うのでありますね。
一見、彼らの行動は、愚かにも見えるのであります。自分の大切なものを失って、しかも役に立たないものを買って、結局は何にもならない。確かに、そんなふうにも見える訳であります。でも、決してそうではないのでありますね。彼らは、お互いの愛を確認し合うことが出来たのであります。それは何ものにも代え難い、大切なものでありました。彼らは、互いの愛を確かめ合って、二人の贈り物を、そっと机の引き出しにしまいました。心温まるお話であります。
神さまが、その独り子イエス様をこの世に遣わしてくださったというクリスマスのお話。しかし、そのイエス様は、やがて十字架に付けられて殺されてしまうのですから、これも考えようによっては無駄なことのようにも思える訳であります。でも、その無駄と思える出来事の中に、実は真実が隠されている。本当の愛が隠されている。
これも、先程の聖書の中に出てくる言葉ですけれども、こんな言葉がありました。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
「私たちの罪を償(つぐな)ういけにえ」。「いけにえ」というのは、犠牲のことであります。本当の愛には「犠牲」が伴うのであります。自分の大切なものを犠牲にする。イエス様は、ご自身の命を犠牲にされました。神さまは、ご自身の独り子を犠牲にされました。ヤング夫妻は、それぞれ自分の大切なもの、髪の毛や金時計を犠牲にしました。本当の愛には「犠牲」が伴うのでありますね。一番大切なものが犠牲としてささげられるとき、そこに本当の愛が示されると言ってもいいと思います。
クリスマス、それは「神さまの愛」が私たちに「示された」日であります。神さまは、本当に私たちを愛してくださっているのであります。その神さまの愛が分かるならば、私たちもまた「互いに愛し合う」という、そういう歩みが出来るのではないでしょうか。
「愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は、神から出るもので、愛する者は、神から生まれ、神を知っているからです。」
イエス様がお生まれになったとき、天使は、神を賛美して次のように言ったとあります。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。
「地には平和、御心に適う人にあれ」。ここにある「御心に適う人」、それは、本当の愛を知っている人たちのことではないでしょうか。
クリスマス、「神に栄光、地に平和」。このすばらしいメッセージを聞きながら、私たち、少しでも「神様の御心に適う者」になれるよう祈りながら、そして救い主・イエス様のご降誕を心からお祝いできればと思います。
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