今日はクリスマス礼拝を皆様とご一緒に守っております。クリスマス、それはイエス様のご降誕、イエス様がお生まれになった日をお祝いする日ですが、最初に一つ申し上げておきたいことがあります。それは、「クリスマス、12月25日は、イエス様の誕生日ではない」ということであります。
まあ、牧師がこんなことを言うと、不謹慎だとか、不信仰だというような、そんな声も聞こえてきそうですけれども、歴史的事実という視点から申しますと、12月25日が「イエス様の誕生日である」とは、言えないのでありますね。
12月25日がクリスマスになったのは、これは一般的には4世紀のローマから始まったと言われています。一年で昼が最も短い日、要するに、冬至ですけれども、今は昼が最も短いけれども、これから少しずつ昼が長くなっていく、太陽がよみがえって行くということで、その日を、旧約聖書のマラキ書3章20節にある「義の太陽」、キリストを象徴する「義の太陽が昇る」という言葉にかけて、キリストの誕生日(クリスマス)ということにしたのであります。
それまでは、1月6日の「公現日」(Epiphany)に、クリスマスを守っていたということもありますけれども、これも、神様が、イエス様という人間の形をとって、私たちの前に出現した(エピファネイアした)ということを祝う日ということだけで、必ずしもイエス様の誕生日を示すものではありません。要するに、本当のイエス様の誕生日は誰も知らない、誰も分からないのであります。
ちなみに、今年は2013年、来年は2014年ですが、これはキリストが生まれて2013年、あるいは、2014年になるという言い方ですが、これも厳密に言いますと、正確ではありません。
先程お読みいただきましたイエス様誕生の出来事。ルカ福音書の2章1節には「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という記事がありましたが、この住民登録の勅令、これは歴史的には紀元前7年に出されたものであります。また、マタイ福音書の2章1節には、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」とありますが、この「ヘロデ王」は、紀元前4年に亡くなっておりますから、聖書のお話が正しければ、イエス様がお生まれになったのは紀元前4年よりも前ということになります。
イエス様が生まれたとされる年を紀元元年とする「キリスト紀元」、いわゆる「西暦」。しかし、イエス様は少なくともその4年以前に生まれている。おかしいということにはならないでしょうか。実は、このキリスト紀元・西暦というのは、これは、イエス様が亡くなってから500年以上も経ってから、ディオニシウス・エクスィグウス(497頃-550)という人が考案したものでありまして、必ずしも正しいとは言えないのであります。イエス様が亡くなってから500年以上も経てば、正確な年月日を計算するなんてことは出来ません。しかも、1500年も昔のことですから、誤差が生じても仕方ないのでありますね。
でも、今でも、私たちはキリスト紀元・西暦を用いています。そして、キリストが生まれる前は、B.C.(Before Christ)、要するに、キリストが生まれる前何年というような言い方をしておりますし、キリストが生まれてから何年経ったということで、Anno Domini (主の年、A.D.何年)というような言い方もしています。
本来の意味から言えば、今使っている「B.C.」も「A.D.」も正しくはありませんが、キリストの誕生によって、歴史を見る見方が変わったということは言えそうです。キリストの誕生の前と後では、歴史を見る見方が変わった。でも、肝心のキリストの誕生日、イエス様がいつ生まれたのかということは分からずじまい。要するに、何年何月何日にイエス様が生まれたのかという、そういう正確な日にちは、未だに分からないということであります。
なぜ、こんなお話を最初にするのかと申しますと、「クリスマスというのは、これは単なるイエス様の誕生日ではない」ということを、申し上げたかったからであります。クリスマスは、単なるイエス様の誕生日ではない。そうではなくて、クリスマスというのは、「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)とあるように、主メシア・キリスト・救い主がこの世に来られた、そのことを覚え、記念し、お祝いする日なのであります。
ですから、私たちは、イエス様がいつ生まれたかという「誕生日」にこだわるのではなくて、私たちのために「救い主が来られた」、神さまは、私たちのために「神の独り子・イエス様を救い主としてこの世に遣わしてくださった」という、そういうことを覚え、クリスマスをお祝い出来ればと思います。
ところで、今日はクリスマス礼拝ということですから、あまり難しいお話ではなくて、簡単なお話を一つ取り上げたいと思います。
昔、アメリカのある村に、白い十字架の、小さな教会があったといいます。その教会には鐘があって、日曜日の朝になりますと、その教会の鐘が鳴るんだそうであります。「カン、カン」と鳴るのか「クァーン、クァーン」と鳴るのか、どんな音色なのかは分かりません。でも、とにかく教会の鐘が鳴る。
そうしますと、あっちの家からも、こっちの家からも、聖書と讃美歌をかかえた人たちが教会にやって来るんでありますね。おじいちゃんもおばあちゃんも、また、小さな子どもたちも、赤ちゃんまでも、白い十字架の教会にやって来る。
で、ある年の12月はじめ、その教会では、クリスマスの日に「イエスさまの降誕劇(ページェント)をやることになっておりまして、ちょうどその年は、子どもたちが、その「ページェント」(イエス様の降誕劇)をすることになりました。
そこで早速、教会学校の先生たちは、子どもたちを全員集めて、その劇の相談をしました。そして、役割を決めました。マリアさんが決まりました。ヨセフさんも決まりました。羊飼いさんたちも、東の博士さんたちも決まりました。それに、牛や馬、羊たちの役も決まりました。天の使い、天使たちの役も決まりました。こうして、子どもたちはみんな、それぞれ自分の役をもらったといいます。
ところが一人、役をもらえなかった男の子がいました。その子は、発達障害のある「知恵おくれの子」でした。教会学校の先生たちは、そのことに気づいて、すぐに相談して、その男の子のために、一つ役を作りました。それは、馬小屋のある宿屋の子どもの役でした。セリフはーつだけです。「だめだ。部屋がない」。そして、うしろの馬小屋を指さす、そういう役でありました。
その知恵おくれの男の子はとても喜びました。「ぼくもイエスさまの劇に出るんだ。ぼくだって、劇に出るんだ」と言って、とっても喜んだといいます。
「だめだ。部屋がない」。この一言、厳密に言えば、二言なのでしょうが、「No Room」(満室だ)。男の子はー日に何回も、何十回も、繰り返し練習しました。くる日もくる日も練習しました。
そして、いよいよ待ちに待ったクリスマスの日がやってきました。教会の鐘の音が村のすみずみにまで、クリスマスの礼拝の時間を知らせました。白い十字架の教会は、たちまち人でいっぱいになりました。
クリスマスの礼拝が始まり、プログラムが進んで、いよいよ子どもたちのクリスマスの劇(ページェント)の番になりました。そして、劇は順調に進み、後半になりました。長旅で疲れ果てたヨセフとマリアが、とぼとぼと歩いて、ベツレヘムにやってきました。もう陽はとっぷりと暮れています。そして、あの男の子が立っている「宿屋」にたどり着きました。「すみません。私たちを今晩、ー晩とめてください」。さあ、男の子の番です。おとうさんも、おかあさんも、教会学校の先生たちも、思わず手を組んで、神さまにお祈りをしました。「神さま、うまくやれますように、うまくできますように…」。
男の子は、大きな声で言いました。「だめだ。部屋がない」(No Room)。それから、うしろをむいて、馬小屋を指さしました。
「よかった。よかった。じょうずにできた」。みんなは胸をなでおろしました。でも、その時です。 馬小屋にむかって、肩を落として歩いていくヨセフとマリアをじっと見送っていたその男の子が、突然「ワァッ」と声をあげて泣き出しました。その男の子は走って行って、泣きながらマリアさんとヨセフさんにしがみついて言いました。
「マリアさん、ヨセフさん。馬小屋に行かないで。馬小屋は寒いから。イエスさまが風邪を引いちゃうから、馬小屋に行かないで! 馬小屋に行かないで!」。
教会学校の先生たちが舞台にとびあがりました。そして、マリアさんとヨセフさんにしがみついて泣いている男の子を引き離しました。劇は、だいじなところで、しばらくの間、中断してしまいました。でも、この村の長い歴史の中で、これほど感動的なクリスマスの劇は、あとにも先きにもなかったといいます。
知恵遅れのこの子は、劇を台無しにしてしまいました。でも、多くの人に感動を与えました。どうしてでしょうか。この子は、本当にイエス様がかわいそうだと思ったんでありますね。
馬小屋で生まれることになっているイエス様。馬小屋は寒いのであります。いくら「わらの寝床は温かい」なんて言っても、やはり馬小屋は寒い。だから風邪を引いてしまうかも知れない。この子は、イエス様がかわいそうだと思ったのでありますね。だから、「マリアさん、ヨセフさん。馬小屋に行かないで! 行かないで!」と、泣きながら止めたのであります。
私たちは、イエス様は馬小屋で生まれたと簡単に言います。それは、「宿屋がいっぱいで、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」と、いとも簡単に言う訳であります。でも、この男の子は、イエス様が風邪を引いてしまう、イエス様がかわいそうだと、本当にそう思ったのでありますね。だから、泣きながら「マリアさん、ヨセフさん。馬小屋に行かないで。馬小屋に行かないで!」と、止めたのであります。
私たちに、このような「感性」というのでしょうか、こういう思いやり、やさしい気持ちがあるでしょうか。イエス様に対して、「イエス様がかわいそうだから」という、そういう豊かな気持ち・感性があるでしょうか。
イエス様に対する「信仰」ということを、私たちはよく言います。神の御子イエス・キリストを信じる信仰。これは、とっても大切であります。でも、この子のように、「イエス様がかわいそうだから」という、そういうやさしい思いやりのある気持ち、そういう感性が私たちにあるでしょうか。
知恵遅れのこの子のとった行動、劇は一時中断してしまいましたけれども、劇を見ていた人たちに、そして、私たちに、私たちが忘れかけていた大切なことを思い起こさせてくれたのではないでしょうか。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
イエス様は、ルカ福音書6章36節の所で、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と勧めております。
「憐れみ深い者」。それは、先程お話した「知恵遅れの子」の「やさしい思いやりのある気持ち」、そういう豊かな感性を持つ者のことではないでしょうか。
クリスマスは、単に2000年前、神の御子イエス様が生まれた、この世に来られたということだけではなくて、私たちにまた、人のことを思いやるやさしい気持ちを思い起こさせてくれる、そういう時でもあるように思います。
いずれにせよ、クリスマス、私たちも、こういう「人のことを思いやるやさしい気持ち」をもって、イエス様のお誕生をお祝いできたらと思います。
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