今日は、待降節(アドベント)の第3主日であります。ロウソクに3本火がつきました。来週はいよいよ「クリスマス礼拝」ですが、今日は「ヨセフのお話」を学んでみたいと思います。ということで、今日の所は、こんな言葉で始まります。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」
ここには先ず、マリアとヨセフの関係が記されています。「母マリアはヨセフと婚約していた」とあります。しかし、マリアのお腹には子どもがいました。それは少なくともヨセフの子ではありません。それでは誰の子でしょうか。誰の子なのかは分かりません。聖書は「聖霊によって身ごもった」とあるだけであります。聖霊によって身ごもった。それは「神様の力によって身ごもった」ということであります。神様の力が働いて、マリアは妊娠したのであります。
旧約聖書の創世記には、神様が「光あれ」と言うと「光があった」というお話があります。神様は何もない所から、いわゆる「無から有を創造されるお方」であります。何もない所から、ものを作られる、生み出す神様。そういう信仰から言えば、聖霊によって、神様の力によって、マリアが身ごもったとしても、それは決して不思議なことではありません。
ルカ福音書には、マリアが天使ガブリエルから「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられた時、「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と答えたあります。それに対して、天使ガブリエルは「神に出来ないことは何一つない」(ルカ1:37)と語りました。「神様に出来ないことは何一つない」。言い換えれば「神様は何でも出来る」ということであります。人間には出来なくても、神様に出来ないことはない。神様は何でも出来るのであります。とするならば、マリアが「聖霊によって身ごもった」としても、それほど驚くことはないのではないでしょうか。
よく、マリアの妊娠・出産の出来事、要するに、イエス様の誕生の出来事を「処女降誕」なんて呼ぶことがありますが、「処女降誕」の信仰というのは、単に、マリアが処女だったということを言っている訳ではありません。
カトリック教会では、処女降誕の出来事を強調し、「聖母マリア」ということを言い、「マリアさまの像」なんかを教会に置いていたり、また、マリアさまに祈る「アヴェ・マリアの祈り」なんてものもありますが、プロテスタント教会には、そういうものはありません。
聖書によれば、マリアは、イエス様を産んだ後、少なくても6人の弟妹(きょうだい)たち(ヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダ、姉妹たち)を産んでおりますし(マタイ13:55-56)、イエス様の宣教活動についても、あまり良い印象は持っていなかったようであります(マタイ13:57)。
マリアがイエス様を産んだということは確かでしょうが、そのマリアに対する評価、それはカトリック教会とプロテスタント教会では大きく違っています。でも、マリアが「聖霊によって身ごもった」という出来事、この出来事まで否定する必要はないと思います。
マリアはパンドラという人にレイプされ、イエス様を身ごもったというユダヤ教の伝説もあります。私たちの常識から言えば、こんなことあり得ない、おかしいということで、聖書に記されている不思議な出来事を、私たちの常識に合わせて理解しようとする。あるいは、こんなことおかしいということで聖書のお話を否定する。例えば、奇跡なんてものは一切存在しない。そんなふうに考える人もおりますが、それは「信仰」というものを否定する人たちの考えであります。
マリアが「聖霊によって身ごもった」と記している聖書のお話。私たちは、これを過大評価することなく、また、こんなことはあり得ないから、誰かにレイプされて身ごもったんだというような、そんな否定的な受け止め方でもなく、素直に聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。
「聖霊によって身ごもった」。それは、繰り返しになりますが、「神様の力によって身ごもった」ということであります。不可能を可能にする神様の力。「光あれ」と言えば「光が生じる」、そういう神様の力。「神に出来ないことは何一つない」、「神様は何でも出来る」という、そういう神様の力。そういう神様の力を信じることが出来れば、マリアが「聖霊によって身ごもった」という話くらい、簡単に信じることが出来るのではないでしょうか。
ところで、聖書には確かにマリアは「聖霊によって身ごもった」とありますけれども、ヨセフはそんなこと知る由もありません。ただ日毎にマリアのお腹が大きくなって行く。どうも妊娠しているらしい。そのことに気づいた時、ヨセフは婚約していたマリアと縁を切ろうと決心する訳であります。聖書には、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。
ここには「ヨセフは正しい人であった」とありますが、「正しい人」というのは、当時のことで言えば「律法に忠実な人」というような、そういう意味であります。ヨセフは律法の掟をよく知っていたのであります。夫が知らないうちに、妻が身ごもる。それは律法の掟から言えば「姦通の罪、姦淫の罪」であります。そして、姦淫を犯した者は、律法の掟によれば、石打の刑に処せられて殺されなければなりませんでした。
マリアとヨセフはまだ正式には結婚しておりませんでした。でも、姦淫ということについては同じ刑罰がくだされました。申命記の22章20節以下には、このような言葉があります。「もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない」。
マリアは律法の掟に従えば、石で打ち殺されなければならない、そういう「罪人」にも見えたのであります。特に、ヨセフにしてみれば、そうだったと思います。身に覚えがないのに、マリアのお腹が大きくなっていく。マリアは姦淫をしたのに違いない。ヨセフにはそう思われた。
しかし、ヨセフはこのことを公にしようとはいたしませんでした。彼は「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のであります。表ざたにすれば、とんでもない結果になる。先程の律法の掟に従えば、「石打の刑・死」が待っている。「正しい人」であったヨセフですから、そうすることも出来たかも知れません。厳しい預言者ならばそうしたかも知れません。しかし、ヨセフはそうしようとは思わなかった。それはヨセフの思いやりでしょうか、ヨセフのやさしさでしょうか、とにかく、彼は「マリアのことを表ざたにしようとはせず、ひそかに縁を切ろうとした」のであります。
そして、このことについて思い悩んでいた時、ヨセフは不思議な夢を見る訳であります。夢枕に主の天使が現れてヨセフにこう言うのでありますね。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。
ここにおいてはじめてヨセフは、マリアの胎の子が「聖霊によって宿った」ということを知らされるのであります。しかし、どうなんでしょうか。これは夢の中の出来事なのであります。私たちだっていろいろな夢を見ます。しかし、今の私たちは「夢は夢」ということで、ほとんどの人が夢の出来事が真実であるなどとは思っていないのではないでしょうか。勿論、正(まさ)夢(ゆめ)というものもあります。あるいは、心理学的に「こういう夢はこういうことを語っている」ということで、「夢を心理学的に説明する」ということもあります。でも、夢そのものが真実であるという発想は、ほとんどの人が今はもっていないのではないでしょうか。夢で「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と教えられても、それを信じるか信じないか、あるいは、それを受け入れるか受け入れないか、それはヨセフの受けとめ方次第なのであります。
確かに、ヨセフは、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」という言葉も聞きました。単純に考えれば、これは喜ばしい福音なのでしょうが、当のヨセフにしてみれば、そう簡単に喜べるメッセージではなかったのではないでしょうか。
しかし、ヨセフは「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」とあります。そして「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」と、マタイ福音書は記しております。
ヨセフは「夢のお告げ」を聞いて、それを受け入れ、その通り実行したのであります。これは「ヨセフの信仰」と言ってもいいと思いますが、でも、そこには大変な決断が必要でありました。先程も申しましたように、マリアを受け入れるということは、マリアから生まれてくる子供まで受け入れるということであります。しかも、それは自分の子供ではない。
確かに、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」という言葉を聞いた。でも、それは夢枕の言葉。本当かどうか分からない。ヨセフは混乱と不安でいっぱいだったのではないでしょうか。でも、彼は決心するのであります。決断するのであります。「彼はマリアを妻として迎え入れる」のであります。それは、まさに「ヨセフの信仰」。でも、その「信仰」は「決断を伴うもの」でありました。
「信仰とは決断である」。ある人はそんなことを言いました。確かに、信仰には決断が伴います。ヨセフの場合がそうでありますし、私たちが「洗礼」を受けるときだってそうであります。信仰には決断が伴うのであります。「信じない」ということで割り切るのでは無くて、「信じてみよう」と決断する。そういうことも大切なことではないでしょうか。
ある外国のテレビドラマ(IRIS)の「せりふ」の一つです。「神の存在を信じているように生きてみたらどうか。もし神がいるなら 得るものは無限である。でも、もし神がいなくても、失うものは何一つない。」 もし、「神がいなくても、失うものは何一つない」とするならば、決して損をすることはない。決断して「信じてみる」ということも一つの手ではないでしょうか。
ヨセフは、悩み苦しみながらも、決断して、マリアを妻として受け入れました。そして、イエス様の父親になりました。ヨセフの決断、これは大切なことを私たちに教えているお話ではないでしょうか。
ところで、今日の聖書の所には、イエス様の誕生の出来事について、それは「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」ということで、こんなふうに記されております。これはイザヤ書7章14節にある言葉の引用ですが、こんなふうにあります。23節。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」。
イエス様の名前は「イエス」、ヘブライ語では「ヨシュア」であります。その意味は「神は救い」という意味。そして、その名前の通り、イエス様は私たちの「救い主」になられました。しかし、聖書はそのイエス様が「インマヌエルと呼ばれる」と語るのであります。それは「神様が私たちと共にいてくださる」という、そういう意味の言葉であります。イエス様がインマヌエルと呼ばれる。その通りイエス様には、いつも神様が共におられました。しかし同時に、インマヌエル、これは、神様がいつも私たちと共にいて、私たちを守り、導いてくださるという、そういう意味でもあるのではないでしょうか。
この世に来られたイエス様は、いつも私たちと共にいてくださいました。イエス様は、見えない神様の見えるかたちとして、いつも弟子たちの前にいたのであります。「私を見た者は、神を見たのだ」と言われたイエス様。イエス様は、実際に、弟子たちと共に行動し、イエス様を信じる人たちの目の前にいた。まさに、「神は我々と共におられた」のでありますね。今は、天に帰られ、私たちは今イエス様を直接見ることは出来ませんけれども、でも、イエス様は、私たちに「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださいました。いずれにせよ、イエス様は、私たちに「インマヌエル」(神様が私たちと共にいてくださる)ということを身をもって示してくださった、そういうお方なのであります。
クリスマス、それは、神の独り子であるイエス様が、この世にやって来られたということをお祝いする日ですけれども、その中身は、「インマヌエル」(神様が私たちと共にいてくださる)ということが明らかにされた日、そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。
目に見えない神様。それ故、どこにおられるのかよく分からない神様であります。でも、その神様・イエス様がこの世に来られたことによって、私たちは、神様がいつも私たちと共にいてくださり、私たちと共に歩んでくださるということが分かるようになったのであります。これは本当にすばらしいこと、ありがたいことであります。
私たちの生きている今の時代、悩みや苦しみ、重荷、あるいは、いろいろな困難や難しい問題、沢山あります。しかし、どんな時でも、私たちは、「神様が共にいてくださり、いつも私たちを守り導いてくださる」という、この「インマヌエルの信仰」をもって、力強く歩んでいければと思います。
来週は、いよいよクリスマス礼拝です。インマヌエル(神様が私たちと共にいてくださる)ということが現実になったことを覚え、みんなイエス様のご降誕をお祝いできればと思います。
|