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説教 「慈しみ深い神さま」 (ルカ 1:57-66) 2013/12/8

 先週は、ザカリアに「洗礼者ヨハネの誕生が知らされた」というお話を学びました。今日は、そのヨハネが実際に誕生するというお話であります。

 で、ルカ福音書には、先週のお話から今日のお話の間に、マリアにも「イエス様の誕生」が知らされたというお話、また、マリアがエリサベトのところを訪問したというお話。それから、マニフィカートと呼ばれるマリアの賛歌が入っておりますけれども、お話の流れから言えば、先週の「洗礼者ヨハネの誕生が知らされる」というお話から、今日の「洗礼者ヨハネの誕生」という、このお話の所に飛んでも、少しもおかしくありません。むしろ、洗礼者ヨハネの誕生ということに注目すれば、この方がずっと自然だと思います。

 ということで、今日のお話ですけれども、いよいよエリサベトの出産の日が近づいてまいりまして、そして、「月が満ち、エリサベトは男の子を産む」訳であります。エリサベトは、もういい年をしておりましたから、今で言えば、超高齢出産ということになります。ですから、相当難産だったんではないかなんて想像もされ得る訳ですけれども、そういうことは聖書には一切書かれておりませんので、よく分かりません。とにかく、エリサベトは男の赤ちゃんを産みます。

 で、「赤ちゃんが生まれた」ということで、エリサベトも、また、夫のザカリアも本当に喜んだと思うのですけれども、聖書には「近所の人々や親類の人たちも、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」とあります。

 長い間、子供が出来なかった訳ですから、近所の人たちや親戚の人たちも本当に心配していたのではないかと思います。もしかしたら、あきらめていた人たちも多かったのではないでしょうか。でも、やっと「赤ちゃんが産まれて」、みんな「よかった、よかった」と言って、喜び合ったのでありますね。

 ところが、赤ちゃんが産まれて8日目、名前のことで問題が起こります。当時は、そして今もそうですけれども、ユダヤの社会では、子供が生まれて8日目に、男の子には割礼を施し、そして、そのときに名前も付けるという、そういう習慣がありました。

 で、赤ちゃんが産まれて8日目、割礼式・命名式の日がやって来ましたので、先程出て来ました「近所の人々や親類の人たち」が集まってまいりました。そして、彼らは、こんなことを言ったといいます。「この子の名前は、父親の名を取ってザカリアと名付けよう」。

 人の家(ち)の子供に勝手に名前を付ける。今で言えば、まあ余計なお節介ということになるのでしょうが、当時は、これは別におかしなことではありませんでした。なんとか一族というようなことを、よく言いますけれども、昔はこの「一族」ということをとても大切にしておりました。マタイ福音書やルカ福音書には、イエス・キリストの系図というものが書かれておりますけれども、こういう「系図」、一族というものを大切にする、そういう考え方が当時の社会にはあった訳であります。ですから、名前についても、親戚の者が「ああでもない、こうでもない」といろいろと口を出したんだと思うのでありますね。

 で、みんなで協議した結論は、「父親の名を取ってザカリアと名付けよう」ということでありました。まあ「ザカリア Jr..」というところでしょうか。ところが、お母さんのエリサベトは、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と、こう言いました。突然、エリサベトが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」なんて言い出したものですから、みんなビックリしました。そして、彼らは、「あなたの親類には、そんな名前の人はだれもいない」と言ったのであります。

 ヨハネという名前、それは「ヤハウェ(神さま)は慈しみ深い」という意味の名前ですけれども、そういう名前の人は、一族には誰もいない。エリサベトの家系は、名門アロン家の家系。モーセの兄アロンから来ているあの有名な家系でありました。でも、ヨハネなんて人物は一人もいない。勿論、ザカリアの家系にも、そんな名前の人物は一人もいない。なぜ突然「ヨハネ」なんて名前を持ち出すのか、周りの者には理解できなかったのではないでしょうか。ですから、「あなたの親類には、そんな名前の人はだれもいない」と、こう言ったのでありますね。

 でも、エリサベトが「名はヨハネとしなければならない」と言ったのには「訳(わけ)」があるんでありますね。先週学びましたように、ザカリアは、天使ガブリエルから、「産まれてくる子供の名前はヨハネと名付けなさい」と言われた訳であります。ザカリアは、自分たちがもう既に年をとっておりましたので、今更子供が出来るなんて素直には信じられない、しかも「その子をヨハネと名付けなさい」と言われたって、信じられなかった。だから、ザカリアは口が利けなくなってしまった訳であります。

 でも、彼は、そのことを家に帰って来てから奥さんのエリサベトに伝えたんだと思うのでありますね。勿論、口が利けませんから、書き板にでも書いて伝えたんだと思いますけれども、エリサベトは、夫のザカリアから天使ガブリエルのお告げのことを聞いて、そのことをしっかりと覚えていたんだと思うのでありますね。ですから、エリサベトは「名はヨハネとしなければならない」と、こうはっきりと言ったのではないでしょうか。

 しかしながら、当時の社会は、女、子供は、一人前に見てもらえない、男性中心の社会でありました。ですから、奥さんが何を言ったって、それほど重くは見てもらえない。要するに、女性の発言は「軽視」されていた訳であります。ですから、人々は、ご主人のザカリアに、「あんたはどうなんだい。それでいいんかい」と、身振り手振りで尋ねた訳であります。そうしますと、口の利けないザカリアは、字を書く書き板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書きました。

 ザカリアも、天使ガブリエルの言葉を覚えていたのでありますね。ですから、書き板に、「この子の名はヨハネ」とはっきりと書いた。これを見ていた人々は、皆大変驚きました。奥さんも「名はヨハネとしなければならない」と言うし、旦那のザカリアも「この子の名前はヨハネだ」と言う。親戚には、そんな名前の人は一人もいないのに、「ヨハネ」という名前にしなければならないと言う。驚くのは当たり前であります。

 しかし、もっと驚くことが起こりました。それは、ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いた瞬間、今まで口の利けなかったザカリアが話し出したというのであります。聖書には、このようにあります。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」。

 天使の言葉を聞いても信じなかったザカリア。それ故、口が利けなくなっていたザカリア。しかし、今や、彼の口は開き、神様を賛美するのであります。その賛美が具体的にどのようなものだったのか、それは分かりません。多分、待望の赤ん坊が与えられたという感謝。また、今まで口が利けず、不自由な生活を強いられてきたことから解放された喜び・感謝。そして、そういう恵みを与えてくださった神様に心からの感謝をささげ、神様を賛美したのではないでしょうか。

 しかし、これを見た人たちは、恐れを感じるくらいにビックリしました。聖書には、「近所の人々は皆恐れを感じた」とあります。「そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった」といいます。

 「このことすべて」というのは、ザカリアに天使が現れ、子供が与えられると告げたこと。そして、実際に、子供が与えられたこと。しかし、ザカリアは、天使の言葉を信じなかったので、子供が生まれるまでは口が利けなかったこと。でも、子供が生まれて「この子の名はヨハネ」と書き板に書いたときに舌がほどけて再び話すことが出来るようになったという、そういうことすべてなんだと思います。

 要するに、「不思議な事もあるもんだ」とみんなが言い合った訳であります。そして、「この子は一体どんな人になるのだろうか」と興味をもった。まあ、こんな不思議なことがいろいろあって産まれて来たヨハネ、将来、この子はどんな人になるのかと、みんなが興味を持ったとしても、少しもおかしくありません。

 で、ここまでが今日のお話なんですけれども、今日は、「この子の名はヨハネ」ということについて、少しばかり考えてみたいと思います。
「この子の名はヨハネ」。これは、もともと天使ガブリエルがザカリアに告げた言葉であります。神様が、このような名前を付けられたんでありますね。で、ヨハネというのは、先程も少し説明しましたけれども、それは「ヤハウェ(神様)は慈しみ深い」という意味の名前。それは、不妊の女と言われていたエリサベトに子供を授けた「神様の慈しみ」というものを象徴している名前と言ってもいいかも知れません。

 でも、それだけではなく、ヨハネをこの世に送り、そのヨハネを通して、人々の気持ちを神様の方に向けさせようとした、そういう神様の慈しみをも示している言葉と言ってもいいと思うのでありますね。でも、更に言うならば、「神様の慈しみ」、それは、私たちすべての者に向けられている、そういうことを示そうとしている言葉と言ってもいいと思うのであります。

 神様は、私たちに神の独り子・イエス様をお与えになったほどに、私たちを愛してくださいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。神様は、私たちに神様の限りない慈しみを示されたのであります。それがクリスマスの出来事であります。

 また、私たちは、イエス様のご生涯を思い起こしながら「いつくしみ深い、友なるイエスは」と、よく歌いますけれども(讃美歌21の493番、前の讃美歌312番)、あの慈しみ深いイエス様の姿は、まさに神様ご自身の姿でもあります。勿論、神様は目には見えません。でも、神様は、イエス様を通して、私たちに、神様御自身の慈しみ深さを示されたのでありますね。

 「この子の名はヨハネ(神さまは慈しみ深い)」、それはザカリアとエリサベトだけに語られた言葉ではありません。私たちすべての者に、神様の慈しみを示すために語られている言葉、そんなふうにも言えるのではないでしょうか。

 ところで、もう一つ、「この子の名はヨハネ」ということで教えられること。それは、神様が私たちの人生を導いておられるということであります。不妊の女と言われていたエリサベトに「ヨハネ」を与えたのは神様なのでありますね。

 昔から「子供は神様からの授かりもの」というようなをよく言いますけれども、本当に、子供は神様からの授かりものなんでありますね。ですから、その子の真の所有者は神様、そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。

 子供が生まれますと、親は、「これは私の子供、俺の子だ」というような、そういうことをよく言います。自分のお腹を痛め、大変な思いをして子供を産む。だから、「これは私の産んだ子・私の子」ということになる。確かに、そうであります。決して間違ってはおりません。

 しかしながら、一歩退いて、「この子は神様からの授かりもの」、神様から子どもを授かって、この子を育てるようにと神様から委ねられている。そんなふうに考えれば、大変だと言われる「子育て」も、大部変わったものになるのではないでしょうか。

 いずにせよ、私たちは、「子供は神様からの授かりもの」。神様がこの子を育てるようにと、私たちに委ねてくださっている。そんな思いを持って、子育てをして行ければと思います。

 話は戻りますが、エリサベトとザカリアは、「この子の名はヨハネ」と宣言いたしました。それは、単に天使からそう言われたからということだけではないと思います。彼らが「この子の名はヨハネ」と言ったのは、やはりこの子は神様のもの、神様から委ねられた大切な神の子なんだという、そういう意味で、「この子の名はヨハネ」(神様は慈しみ深いお方)と言ったのではないでしょうか。

 いずれにせよ、洗礼者ヨハネは、このようにして産まれ、そしてイエス様の道を整える者として、その使命を果たしてまいります。 神様がこの世に命を与えられたものには、一人一人にその使命、生きる意味があり、そして、神様は、その一人一人の人生を豊かに導いてくださるのでありますね。それがまた「神様の慈しみ」と言ってもいいのではないでしょうか。

 今日の最後の所には、「この子には主の力が及んでいたのである」とあります。「主の力、神様の力」。それは、私たち一人ひとりにも及んでいるのであります。繰り返しますけれども、神様は、私たち一人一人の人生を豊かに祝福し、そして、限りない慈しみをもって、私たち一人ひとりを守り導いてくださっておられるのであります。私たちは、そのことに気づき、神様の恵みを素直に受け入れるものでありたいと思います。

 クリスマスが近づいてまいりました。神様の豊かな憐れみ、慈しみ、そして、神様の大きな力、不思議な導きに思いを馳せ、良き準備をして、イエス様のご降誕、クリスマスをみんなでお祝いしたいと思います。

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