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説教 「喜ばしい知らせ」 (ルカ 1:5-25) 2013/12/1

 今日から、アドベントに入ります。教会では、アドベントといいますと、「待降節」とよく訳されますが、アドベントというのは、週報にも記しておきましたように、ラテン語の「アドウェントゥス(adventus)」:ラテン語の辞書には、approach,arrival,visit,等の言葉が挙げられておりますが、要するに、「近づいてくるとか、到着する、やって来る」という、そういう言葉から来ている言葉であります。

 私たちの教会では、この世にイエス様がやって来られた(降誕)。イエス様が再びこの世にやって来られる(再臨)。また、いつでもイエス様が私たちの心の内にやって来てくださる(インマヌエル)という、こういう三つのことを覚えて、アドベントの期間を守りたいと思います。

 ところで、今日は、イエス様の誕生の前に洗礼者ヨハネがこんなふうに生まれたんだというお話を学んでみたいと思います。イエス様が生まれる少し前のことであります。「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた」といいます。

 当時、パレスチナには、約18,000人の祭司がいたようでありまして、その祭司たちは、24の組に分かれ、順番にエルサレム神殿に仕えておりました。で、アビヤの組というのは、24組あった8番目の組(歴代誌上24:10)でありますけれども、ザカリアは、そのアビヤ組という所に属していた人物であります。

 その彼には「アロン家の娘の一人で、名をエリサベト」という奥さんがおりました。彼らは「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」とあります。要するに、家系的にも。また、信仰的にも模範的な人たち、それがザカリア・エリサベト夫妻であった訳であります。しかしながら、「エリサベトが不妊の女だったので、彼らには、子供がおりませんで、二人とも既に年をとっていた」といいます。

 最近は、結婚しても子供を作らないとか、産まないというような人たちもいる時代ですけれども、当時は、子供は、神様からの祝福のしるし、そんなふうにも考えられておりました。ですから、子供がいない、生まれないというのは、信仰的にも何か問題があるのではないか、そんなふうにも思われていた。そういう意味では、ザカリアもエリサベトも、相当肩身の狭い思いをしていたのではないかと思います。でも、そんな家庭にも転機が訪れます。それが今日のお話であります。

 ザカリアが、「自分の組(アビヤ組)が当番で、みんなで神様の御前で祭司の務めをしていたとき」のことであります。「祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、ザカリアが主の聖所に入って香をたくことに」なりました。「主の聖所に入って香をたく」というのは、エルサレム神殿の聖所の中に入って香をたくということですから、これは大変な光栄でありました。

 香は、毎日朝晩たかれたようですけれども、この務めは、組の祭司たちが「くじを引いて」当たった人だけに許された特別な務め、特権。しかも、その務めは一生に一度しか担当できない。祭司は当時沢山いましたから、もし、くじに当たらなければ、一生一度もその務めにつくことが出来ない、そういう人もおりました。

 ザカリアは、ラッキーにも、あるいは、信仰的には、神様のお導きによってということになるのでしょうが、とにかく、その「くじに当たり」、「主の聖所に入って香をたくことに」なった訳であります。そして、彼は、そこで不思議な体験をする。ザカリアが「主の聖所に入って香をたいていたとき」、天使が現れたというのであります。しかも、その天使は、ザカリアに、信じられないようなことを語りました。天使は、こんなことを語ったといいます。

 「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

 この天使の言葉は、一言で言えば、小見出しにありますように「洗礼者ヨハネの誕生が予告される」ということですけれども、これは単に「子供が産まれる」という事ではないのでありますね。エリサベトが不妊の女で、子供が生まれなかった。そのエリサベトに男の子が生まれる。それは確かに「喜ばしい知らせ」であります。しかし、天使が語ったのは、それだけではありません。その産まれる子供が、どういう子供になるのかということでもあったのであります。

 その子は「主の御前に偉大な人になる。ぶどう酒や強い酒も飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」、そういう働きをする。また、彼は「エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせる。そして、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

 エリヤというのは、旧約聖書に出てくる偉大な預言者、あのバアルの預言者たちと勇敢に戦い、最後まで神様に忠実に仕え、そして「火の車で天に上っていった」(列王記下2章)と言われている人物であります。そのエリヤの霊と力を与えられ、主に先だって行く、要するに、メシアの先駆者としての働きをする人が、これから生まれて来る洗礼者ヨハネだという訳であります。

 そして、彼は「父の心を子に向けさせる」。これは少し分かりにくい表現だと思いますが、リビングバイブルでは「大人には子供のような素直な心を呼び覚ます」と訳しています。要するに、洗礼者ヨハネは、大人にも子供のような素直な心を与えて、また、神様を信じない人たちにも分別を持たせて、みんなの心を、これから来られる救い主メシアに向けさせる、そういう主の道を整える者、「準備のできた民を主のために用意する」、そういう先駆者の働きをするという訳であります。

 親は、自分の子供が、将来どういうふうになるか、楽しみでもあり、また、心配もする訳ですけれども、ここまではっきり言われるとどうなんでしょうか。そんなこと信じられない、本当なのかとかえって疑うということもあるのではないでしょうか。それよりも何よりも、まだザカリアたちには子供がいないのであります。ザカリアは、自分も、妻のエリサベトも、もう年をとって子供が与えられるなんて半分あきらめていた訳であります。

 そんな自分たちに子供が与えられるなんて、そんなこと、それだけでもそう簡単に信じられることではない。ましてや、これから産まれる子供が「主の御前に偉大な人になる」なんて、どうしたら信じられるでしょうか。ですから、ザカリアは言うのであります。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。

 これはザカリアの素直な気持ちだったと思います。突然天使が現れて、「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子は、主の御前に偉大な人になる」。そんなこと言われたってそう簡単には信じられない。信じたいけれども信じられない。でも、もしそれが本当だというのであれば、それが確かだと分かるような「しるし」が欲しい。ザカリアはそんなふうに思って「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と答えたのであります。

 それに対して、天使は、このように言いました。
 「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

 この天使は、自ら「ガブリエル、神の前に立つ者」と名乗りました。ガブリエルという天使、旧約聖書では、ダニエルの見た幻を解くために使わされた天使として登場しますけれども(ダニエル9章-10章)、新約聖書では、この洗礼者ヨハネの誕生、そして、マリアにイエス様の誕生のことを知らせた天使としてもよく知られております。

 とにかく、ガブリエルは「この喜ばしい知らせを伝えるために、神様から遣わされて来た」と言うのであります。しかし、ザカリアが素直に信じなかったから、ザカリアは「この預言が成就するまで、口が利けなくなる」と告げる。それがまあ「しるし」と言えば、「しるし」ということになるのかも知れませんが、とにかく、ザカリアは、このようにして口が利けなくなってしまう訳であります。

 今まで話すことができたのに、突然「口が利けなくなってしまう」。これは大変なことであります。彼が聖所から出て来た時には、もう既に話すことが出来なくなっておりました。彼は、一生懸命身振り手振りで説明しようとする訳ですけれども、周りの者は何を言っているのか、さっぱり分からない。本当に大変なことになってしまった訳であります。

 しかし、お話は、これで終わりではありません。このあとヨハネは実際に誕生することになる訳ですけれども、そのヨハネの誕生のことについては、来週もう一度学びますので、今日は、このあとどうなったかということを、もう少しだけ見ておきたいと思います。23節以下の所ですが、こんなふうにあります。

 やがて、ザカリアは、務めの期間が終わって自分の家に帰りますけれども、「その後(のち)、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた」とあります。そして、こんなふうに言ったというのでありますね。「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました。」

 「私の恥」、それはエリサベトに子供が出来なかったということであります。今までエリサベトは、子供が与えられないということで、肩身の狭い思いをしていたのであります。それはザカリアだってそう。しかし、子供を身ごもることによって、彼女は変わりました。「神様は、私の恥を取り去ってくださった」と言って喜ぶのであります。そして、この喜びは、ザカリアだってまた同じだったのではないでしょうか。

 天使から「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」と告げられたザカリア。それに対して「わたしは老人ですし、妻も年をとっている」と答えたザカリア。でも、エリサベトが身ごもることで、ザカリアだって喜んだのに違いありません。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださった」。この言葉は、エリサベトの心からの喜び、感謝の言葉でありますけれども、と同時にまた、ザカリアの喜びをも示す言葉と言ってもいいと思うのであります。

 ところで、今日のお話、ザカリアに「洗礼者ヨハネの誕生が予告される」という、このお話ですが、この天使のお告げは、一言で言えば「喜びの知らせ、喜ばしい知らせ」でありました。勿論、ザカリアには、即座には信じられないようなお告げであった訳ですけれども、「喜ばしい知らせ」には違いありません。

 で、「喜ばしい知らせ」と申しますと、もう一つ、イエス様誕生の知らせがマリアに伝えられたというお話が今日の次の所に載っておりますけれども、「喜ばしい知らせ」を聞いたザカリアと、そしてマリアの場合、反応が少し違いました。

 ザカリアは、先程学んだように、天使の言葉を聞いた時、戸惑い、このように言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。ザカリアは天使ガブリエルの言葉を「信じられなかった」のでありますね。ですから、「この事の起こる日まで話すことができなくなる」ということで、口が利けなくなってしまった。

 勿論、マリアも「イエス様が生まれる」という知らせを聞いた時、戸惑って「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と答えました。でも、マリアは、天使の説明を聞いて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と、このように答えた訳であります。

 同じような「喜ばしい知らせ」を聞いても、それを信じるか信じないか、それは人によってみな違います。ですから、「信じない者にならないで信じる者になりましょう」というメッセージも一つあると思いますけれども、もう一つ、私たちが信じようが信じまいが、それでも「喜ばしい知らせ」は語られる、語られているという、そういうメッセージもまたあるのではないでしょうか。

 今日の聖書のお話を読んで、私は、神様の「喜ばしい知らせ」は、いつも私たちに告げ知らされているということを教えられます。天使ガブリエルは、ザカリアに「私は、この喜ばしい知らせを伝えるために(神様から)遣わされた」と言いました。「喜ばしい知らせ」(エウアンゲリオン)福音、それはいつも聖書を通して、私たちに告げられているものではないでしょうか。勿論、「喜ばしい知らせ」の中身は、それぞれ受ける人によって異なるかも知れません。

 ザカリアには、洗礼者ヨハネが産まれるという「喜ばしい知らせ」でした。マリアには「イエス様が生まれる」という「喜ばしい知らせ」が伝えられました。ついでに言えば、あの羊飼いたちには、「あなた方のために救い主がお生まれになった」という「喜ばしい知らせ」が告げられました。そして、私たちには、あのイエス様の十字架と復活によって、私たちの罪が赦されたんだという「喜ばしい知らせ」(福音)が告げられているのであります。

 私たちは、目をしっかりと開け、また、耳をよく開いて、その「喜ばしい知らせ」(福音)に耳を傾けたいものであります。 今日から「アドベント」に入ります。イエス様がこの世に来られた意味を考えながら、聖書が教える「喜ばしい知らせ」(福音)にじっくりと耳を傾けるものでありたいと思います。

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