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説教 「涙と共に種を蒔く」 (詩編 126:5-6) 2013/11/24

 日本基督教団の暦、教会暦では、今日が「収穫感謝日」ということになっておりますが、燕教会では、先週「収穫感謝の礼拝」を守りましたので、今日は、別のお話をしたいと思います。インドのお話であります。

 インドと申しますと、ヒンドゥー教の国。人口の約80%がヒンドゥー教徒で、イスラム教徒は13%ちょい、キリスト教徒は2%ちょっと、仏教徒は1%にも満たないということで、インドはよくヒンドゥー教の国なんてことが言われます。

 また、インドは人口の多い国ということでも有名であります。今世界で一番人口の多い国は中国で、およそ15億人。それに次いでインドは12億3900万人(2013年度現在)。日本の人口は今、およそ1億2700万人ちょい(2013)ですから、インドの人口は、日本の人口の約10倍近くということになります。とにかく、ものすごい数であります。

 で、確かに、インドは人口の多い国なのですが、貧しい人たちも沢山います。アジア開発銀行によれば、1日2ドル(約200円)未満で暮らす貧困層は国民のおよそ70%もいると言われています。およそ8億人の人たちが、1日200円以内で暮らしている。とにかく、貧しい人たちがいっぱいいる訳であります。

 なぜ、そんなにも貧しい人たちが多いのかと言えば、国土が大きく、人口も多いからということもありますが、よく言われるのが、ヒンドゥー教にまつわる身分制度、いわゆる「カースト制度」の影響が今も強く残っているからということが挙げられます。「バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラ」というの4つの身分制度。聞いたことがあると思います。

 バラモンは生まれて死ぬまでバラモン、シュードラは死ぬまでシュードラのまま。結婚も同じ身分の者としか結婚できない。仕事もカーストによって限定されている。職業も自由には選べない訳であります。

 勿論、この「カースト制度」、今では1950年に制定された憲法で全面禁止ということにはなってはおりますが、なんせ、インドはヒンドゥー教の国、人口の約80%、約10億人の人たちがヒンドゥー教徒なんですから、どうしてもその影響を受ける訳であります。

 身分や職業を規定する「カースト制度」。確かに、昔なかった「IT関連の仕事」なんかは自由に選択できるということで、人気がありまして、インドではIT関連事業が急速に成長して来ています。でも、高等教育を受けることが出来ない下層カースト出身者は、高度な仕事が出来ない上に、仮に優秀であったとしても上層カースト出身者で占める幹部が、下層カースト出身者を重要なポストに抜擢するということはほとんどない、と言われています。表面的にはカーストの影響を受けないと言われているIT関連の仕事であっても、カーストの壁は今でも根強く残っているのだそうであります。

 まあ、そういうインドの社会システムの中で、貧しい人たちが、その貧しさからなかなか抜け出せない。そういう現実がある。今でも、およそ8億人の人たちが、1日200円以内で暮らしている。そういう現実があることを知らされるとき、私たちは何とかならないものなのかなんて思う訳ですけれども、現実をそう簡単に変えることなんて出来ません。

 ところで、このように、インドには貧しい人たちが沢山いるというようなお話をしますと、今日の説教は、あのマザー・テレサのお話なんじゃないかなんて思う人もいるかも知れませんが、残念ながら、そうではありません。

 確かに、インドのカルカッタを中心に「貧しい人びとの中でも、最も貧しい人びとに仕える」ということで「神の愛の宣教者会」という新しい修道会を創設した「マザー・テレサ」のお話。このお話から教えられること、沢山ある訳ですけれども、今日は、別のお話、荒川義治先生のお話をしてみたいと思います。

 まあ、荒川義治先生と申しますと、あのポナペ(ポンペイ)で長い間働かれた牧師先生ですから、ご存じの方も多いと思いますれども、実は、荒川先生は、ポナペに行く前、インドの高原の村にも行かれたんだそうでありますね。

 インドは、日本のずっと南にある国ですから、普通「暑い国」というイメージがありますけれども、インドはとっても広い国、面積は日本の8.7倍近くあります。ですから、暑いだけではない。インドの南部にドカーンとしめるデカン高原がありますし、西部には岩と砂のタール砂漠というものもあり、また、北東部の国境地帯にはあの有名なヒマラヤ山脈だってある。勿論、高い山には雪も降ります。しかもそういう所に住んでいる人たちというのは、また貧しい人たちが沢山いる訳であります。カルカッタだけではないのであります。

 で、今日のお話は、荒川先生がインドの高原の村に行った時のお話ですけれども、荒川先生がインドの高原の村に行ったとき、そこには、「お腹がすいたヨー」って言っていた人たちが沢山いたというのでありますね。高原ですから、あまりお米が取れないのであります。平野のある暑い所では、1年に2回お米がとれるそうですけれども、いわゆる二期作ですね。でも、荒川先生が行った高原の村は一毛作。1年に1回しかお米がとれない。しかも、そんなに沢山はとれない。ですから、いつも食料不足で、みんなお腹を空かしていたというのであります。

 荒川先生は、なんとかしてこの村の人たちを助けてあげたいと思って、いろいろ考えたあげく、日本のように、米を作ったあと、「麦を作ったらいいんじゃないか」と思ったというのであります。日本ではお米を作った後、お米を刈り入れた後、麦の種を蒔いて、麦を作っている人たちもたくさんおります。そうしますと、お米も出来る、麦も出来る。お米も食べられますし、麦も食べられる訳でありますね。ですから、荒川先生はインドのこの村でも、お米を作った後、麦を作ったらいいんじゃないかと思って、早速「麦の種」を取り寄せたといいます。

 ところが、麦の種が届きますと、村の人たちは、「この麦を食べましょう」と言い出したというのであります。荒川先生は、麦を蒔こうと思って麦を取り寄せた訳ですけれども、村の人たちは、「先生、私たちはみんなお腹が空いているんです。ひもじいのです。その麦を今食べましょう。子供たちも「お腹がすいたヨー」って泣いています。先生、その麦を今みんなで食べましょう」って言い出したというのであります。

 荒川先生は困ってしまいました。でも、荒川先生は村の人たちに、「これは麦の種で、今食べてしまったら、麦が作れなくなってしまうから、蒔きましょう」と言って説得しました。でも、村の人たちはなかなか分かってくれません。「先生、見ての通りです。この村は貧しくて、みんなお腹を空かしているんです。子供たちもお腹がペコペコで泣いています。ですから、今すぐに食べましょう」と言う。

 荒川先生も負けてはいません。「今年、種を蒔いておけば、来年はいっぱい食べられるから、これは蒔きましょう」と一生懸命説得する。でも、村の人たちもあきらめません。「種を蒔いても、ここは日本と違うから、麦が育たないかも知れない。カラスが食べてしまうかも知れないし、土の中で種が腐ってしまうかも知れない。だから、今みんなで食べましょう」って言う。「蒔きましょう」「食べましょう」。「蒔きましょう」「食べましょう」。こういう会話がしばらく続いたそうであります。

 さて、みなさんだったらどうするでしょうか。麦の種を蒔いた方がいいと思いますか。それとも、みんな今お腹が空いているんだから、食べた方がいいと思いますでしょうか。

 荒川先生もつらかったと思います。目の前にはお腹を空かした子供たちがいっぱいいます。「お腹がすいたヨー」って泣いています。荒川先生も泣きたい思いでいっぱいでした。涙も出てきました。でも、荒川先生は「でも、やはりこれは種だから蒔きましょう」って言って、麦の種を蒔いたんだそうであります。目に涙をため、神様に「どうかこの麦の種を増やして下さい」とお祈りして、泣きながら麦の種を蒔きました。

 そして半年が過ぎました。麦はどうなったでしょうか。そうです。たくさんの麦が取れたのです。60倍にもなったといいます。 イエス様は「種を蒔く人」のたとえ話で(マタイ13:1-23)、「良い土地に落ちた種は、百倍、あるいは60倍、あるいは30倍の実を結んだ」と、お話くださいましたけれども、荒川先生の蒔いた種は60倍もの実を結びました。

 村の人たちはみんなビックリしました。そして、荒川先生に「その麦を私たちにください」と言いました。でも、今度は「それを食べましょう」とは言いませんでした。この麦の種をしまっておいて、今度はみんなで麦の種を蒔くと言い出したというのであります。

 荒川先生は、その60倍にもなった麦の種を、喜んで村の人たちに分けてやりました。そして、お米を作った後、今度はみんなでその麦の種を蒔きました。半年後、麦はまたいっぱいとれました。こうして、この村の人たちは、1年にお米と麦を収穫することが出来るようになったといいます。今までは、食べる物がない時には「お腹がすいたヨー」と泣いていた子供がいっぱいいたこの高原の村でしたけれども、それからは「お腹がすいたヨー」と泣く子はいなくなったといいます。

 あの時泣きながら、でも「神様はきっと実らしてくれるんだ」と信じて、一生懸命蒔いた麦の種。そして、その種が豊かに実って、沢山の麦が取れるようになって、その村は少しずつ豊かな村になって行きました。神様は、信じて種を蒔く時、それを豊かに守り育ててくださいます。そして自然の恵みを、私たちにいっぱい与えて下さるのでありますね。

 今日読んでいただいた聖書の言葉は、詩編126編5節にある言葉であります。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」(詩126:5)。

 荒川先生が行ったインドの高原の村の人たち、涙と共に種を蒔き、そして喜びの歌と共に、それを刈り入れることが出来ました。神様は一生懸命に努力して頑張る人には、豊かな恵みを与えてくださいます。私たちも一生懸命頑張って、神様から豊かな恵みをいただくものとなりたいと思います。その時は「しんどい」と思うかも知れません。涙が出るような大変な時もあるかも知れません。でも、私たちが一生懸命頑張って努力するならば、神様はきっと豊かな恵みをもって、私たちに報いてくださいます。

 「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」。すばらしい御言葉ではないでしょうか。私たち、この言葉に励まされ、今は大変かも知れませんが、きっと喜びが与えられる日が来るということを信じて、頑張って歩んで行ければと思います。

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