今日は「収穫感謝日」です。日本基督教団の教会暦ですと、11月の第4週が「収穫感謝日・謝恩日」ということになっておりまして、今年は11月24日の日曜日に「収穫感謝の礼拝」を守る教会が多いのですけれども、牧師の都合というのでしょうか、私は燕教会と三条教会を掛け持ちでやっておりますので、今日は燕教会の「収穫感謝礼拝」、来週、三条教会の「収穫感謝礼拝」を守るということになりました。「なりました」というのは、それぞの教会の役員会で、そのように決められたという意味であります。
いずれにせよ、今日は、燕教会の「収穫感謝礼拝」ですが、収穫を感謝するというのは、これは教会だけの行事ではありません。いろんな所で、実りの秋、収穫感謝のお祝いをしています。私の実家の近くの「JAビル」では、10月の5日、6日の両日、群馬県、そして群馬県農業協同組合中央会、全国農業協同組合連合会群馬県本部ほか全26団体主催の「収穫感謝祭2013」という催し物が行われました。新潟市では、10月19日、20日、いくとぴあ食花「秋の収穫感謝祭」というものも行われました。11月2日、3日には、胎内市で「JA中条町収穫感謝祭」というものも行われた。
勿論、日本だけではなく、世界中でも、また、キリスト教だけではなく、いろいろな宗教、ユダヤ教でもヒンズー教でも、仏教でも収穫を感謝するお祭りをしています。
秋の実り、収穫を感謝する。これは決してキリスト教の専売特許ではなくて、キリスト教が生まれるずっとずっと昔から行われてきたものであります。旧約聖書に出て来る「仮庵の祭・仮庵祭」も秋の実りの収穫祭でありましたし、「刈り入れの祭り」なんてものも、出エジプト記23章16節に出て来ております。
それでは、今、キリスト教会で守られている「収穫感謝祭」の起源というのは、どのようなものなのでしょうか。キリスト教の「収穫感謝祭」、どのようにして始まったのでしょうか。今日は、先ずこのことからお話してみたいと思います。勿論、皆様よくご存知の方も多いと思いますけれども、もう一度思い出していただければと思います。
今から400年近く前のことであります。1620年の秋、9月6日と言われておりますけれども、イギリスからアメリカに一艘の船が旅立って行きました。その船の名前は「メイフラワー号」(180トン)と言いました。このメイフラワー号には、102人の人たちが乗っていたと言われております。男の人が78人、女の人が24人。合計102人の人たち。
この人たちは、もともとイギリスに住んでいた人たちですけれども、その頃のイギリスは英国国教会という教会が人々の生活を支配していて、国教会で決められた事以外はしてはいけない、あれもダメ、これもダメ、そういうことが沢山ありました。しかし、中には「自由に神様を礼拝したい」という人たちもおりました。この人たちはピューリタン(清教徒)なんて呼ばれておりますけれども、「自由に神様を礼拝したい」という人たちも沢山いた訳であります。そして、このピューリタンと呼ばれる人たち(ピルグリム・ファーザーズ)は、信仰の自由を求めて、アメリカに行くことになったのであります。
でも、そのころのアメリカは、まだまだ森や林がいっぱいあって、ジャングルのような所でありましたた。でも、「アメリカに行けば、自由に神様を礼拝できる」、そういう希望を持って、彼らはメイフラワー号に乗ってアメリカに旅立って行った訳であります。
今では、イギリスからアメリカまでは、飛行機ですぐ行けますけれども、当時はまだ飛行機なんてありませんでしたから、船の旅であります。9月6日に出発したメイフラワー号は、65日間もかかって、やっと11月、アメリカの東海岸に到着しました。でも、そこは岩と砂と一面の荒れ地だけでした。人が住めそうな所を一生懸命さがして、やっと見つけた所が、現在のマサチューセッツ州にあるプリマスという所。彼らは、12/16碇を降ろし、12/20上陸したと言われております。
で、プリマス、そこは当時、森と林があるだけでしたけれども、この人たちには、希望がありましたから、頑張ってせっせと森や林を切り開き、先ず、教会と住む小屋を建てました。でも、彼らが家を建てている間にも、多くの人たちは死んで行きました。ちょうど冬の時期で、寒さがとても厳しかったからであります。
寒くても着る物がない。食べ物もなくなってくる。病気になる人も出てきました。そして、102人いた人たちの半分近くの人たちが、その冬死んでしまったのであります。しかし、残された人々は「神様は必ず助けてくださる、守ってくださる」という信仰を持って苦しみに耐えました。
やがて春になりました。先住民の人たち、親切なインディアンの人たちがやって来ました。この親切なインディアンの人たちは、彼らに魚をとる方法や、その魚で土地を肥やす方法、また、とうもろこしやえんどう豆、小麦や大麦の種の蒔き方、育て方などを教えてくれました。
彼らはインディアンの人たちからいろいろな事を教えてもらって、再び勇気を奮い起こし、一生懸命働きました。もし、とうもろこしや小麦、収穫できなかったら、今度こそ餓死してしまうかも知れない。今度冬が来た時、みんな死んでしまうかも知れないと思って、一生懸命に頑張って働いたのであります。
やがて、秋になりました。どうなったでしょうか。とうもろこしはいっぱい実をつけています。小麦も豊かに実っています。自分たちの予想をはるかに上回る豊かな作物が出来たのです。彼らはとても喜びました。そして言いました。「さあ、これらのすべてをくださった神様に御礼を申し上げよう」。「この太陽の光も熱も、雨も風も、すべて神様の御業なんだ」。彼らは、教会で、お家で、収穫感謝の礼拝をささげました。
それだけではありません。お母さんたちはうれしくて、うれしくて、「さあ、私たちのお友達のインディアンの人たちを招いて、みんなでお祝いしましょう」と用意を始めました。お父さんたちは、原生林から、がちょうやあひるや七面鳥などをとってきました。とうもろこしと小麦でパンとケーキがつくられ、魚や七面鳥も料理されて、豊かな食卓が出来上がりました。
こうして、彼らは、親切にいろいろなことを教え導いてくれたインディアンの人たちと一緒に、そして、豊かな食べ物を与えてくださった神様に心からの感謝をささげ、収穫感謝の礼拝を守ったと言われております。これが、キリスト教会で、今も守られている「収穫感謝祭」の起源・始まりであります。思い出した人も多いと思います。
その後、240年も経ってからですが、1864年、当時のアメリカ大統領のアブラハム・リンカーンは、11月の第4木曜日を、「収穫感謝の日」(The Thanks Giving Day)、いわゆる「収穫感謝祭」という祝日にしました。これが全世界に広がって行って、私たちの日本基督教団でも、11月の第4週の日曜日を「収穫感謝日」としている訳であります。
さて、今お話しました「収穫感謝祭」のお話ですが、皆さんどのように思われますでしょうか。自由に神様を礼拝するためにアメリカにやって来た人たち。自由に神様を礼拝することが出来るということは、これはとてもすばらしいことだと思います。また、「神様は必ず助けてくださる、守ってくださる」という信仰を持って、希望を持って一生懸命頑張った人たち。一生懸命頑張るということ、これはとても大切な事でありますね。
それから、親切なインディアンの人たち、人に親切にしてあげる、困っている人たちがいたら助けてあげる、これもとても大切なことであります。また、畑を耕し、とうもろこしや小麦の種を蒔いて、それが豊かに実をつける。いっぱい作物が出来て、お腹いっぱい食べることが出来る。これは本当にありがたいことです。
食べ物がなければ、私たちは死んでしまいます。世界中には、今でも食べ物がなくて、飢餓が原因で一日平均4万人もの人たちが亡くなっているそうです。1年では1500万人、食べ物が食べられなくて亡くなっている人たちがいる。ですから、野菜や果物、パンやお米が食べられるということは、これはとてもありがたいことなのでありますね。
ところで、この野菜や果物、パンやお米。パンは小麦から出来ますが、そういう食べ物。それは種を蒔いて、大きくしないと食べられません。そして、野菜や果物が大きくなるには、いろいろなことをしなければならない訳であります。お百姓さん、農家の人たちは、種を蒔くために畑を耕し、また、肥料をやったり、草取りをしたり、いろいろなことをします。
でも、それだけでは野菜や果物は大きくなりません。雨が降りませんと枯れてしまいますし、お日様の光、太陽の光や熱がないと育ちません。そのほか野菜や果物が大きくなるには、いろいろなものが必要ですけれども、なくてはならないものがあります。それは「命」であります。「大きくなっていこう」という「命」。種を蒔いても、その種に「大きくなって行こう」という「命」がないと、いくら種をまいても芽がでません。そうなんです。「命」がないと大きくなれないのです。そして、その野菜や果物に「命」を与え、大きくして下さるのが天の父なる神様なのです。
今日お読みいただきました聖書には、こんな言葉が記されています。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(1コリント3:6ー7)
この聖書の言葉は、もともと、コリントの教会に伝道したパウロという人がいる訳ですけれども、そのあとアポロという人がやって来て、教会を大きくしたんでありますね。でも、パウロは、教会が大きくなって行ったのは、それは「神さまのおかげ」なんだと語るのであります。「成長させてくださったのは神である」。
「成長させてくださる神さま」という考え方・発想。これはとても大切だと思います。私は長く幼稚園の仕事もしておりましたから、お母さん方に子育てのお話をするときに、よくこの「成長させてくださる神さま」ということもお話しました。子育てには、お父さんやお母さん、お家の人たちの働きがかかせませんが、また、幼稚園や保育園に入る子供たちにとっては、保育者・先生方の働きというものも大切になってくる訳ですけれども、その子どもたちを本当に成長させてくださるのは「神さまなんだ」という、そういう神さまに目を向けるようなお話、よくしてまいりました。
「成長させてくださる神さま」。これは、もともと、野菜や果物が大きくなっていく、その原動力のことを語っている言葉であります。野菜や果物に「命」を与え、大き成長させてくださるのが「天の父なる神さま」なのでありますね。種を蒔くことも大切です。水を注ぐことも大切です。でも、成長させてくださる神様がいないと、野菜や果物は大きくなれないんですね。ですから、私たちは、神様のことを決して忘れてはいけないと思うのであります。
アメリカに渡ったピューリタンの人たち。一生懸命頑張って、沢山の収穫を与えられました。食べる物がいっぱい出来たのであります。そして、彼らは「これらの沢山の食べ物・収穫を与えてくださった神様にありがとう」と言って、収穫感謝のお祭りをしました。神さまの恵みを覚え、感謝する。これは、とても大切なことだと思います。
ところで、今では、野菜や果物、パンやお米。お金を出せば何でも買えますし、何でも食べられます。そして、お金を払って買ったんだから、感謝なんて必要ない。「ありがとう」なんて言う必要ない。そういう人たちも中にはいます。
でも、野菜や果物、食べ物を作ってくれた人たちに「ありがとう」と感謝する人たちもいる。農家の人たちが、一生懸命畑を耕し、種を蒔き、また、肥料をやったり、草取りをしたりして大きく育ててくれた、そのことを覚えて「感謝する」人たちもいます。作ってくれた人たちに「ありがとう」という、そういう人たちもいる。
また、雨や風、太陽の光や熱がないと作物は育ちませんから、そういう自然の恵みを覚えて「ありがとう」という人たちもいます。また、先程のピューリタンの人たちのように、成長させて下さったのは神様なんだから、神様に「ありがとう」と言う人たち。世の中には、いろいろな人たちがいる訳であります。
確かに、いろんな人たちがいますけれども、私たちは、お金を払ったんだから感謝なんかする必要はないという、そういう考え方だけはしたくないものであります。むしろ、作ってくれた人たちに「ありがとう」の思いを持ち、また、自然の恵み、そして、成長させてくださった神さまに感謝の思いをもって、歩んでいければと思います。
教会で守られる「収穫感謝の礼拝」。それは何よりも先ず、神さまに目を向け、神さまの豊かな恵みを覚えることから始まります。いつも私たちを守り導いていてくださる神さま。そして、私たちに自然の恵みをいっぱい与えてくださる神さまに、心からの感謝、「ありがとう」の気持ちをもって、この「収穫感謝の礼拝」を守りたいと思います。
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