今日は先程お読みいただきました聖書の箇所から「出会い」ということについて、少しばかり学んでみたいと思います。まあ、話の筋から申しますと、今日のテキストの所は、イエス様の弟子たちがどのようにしてイエス様から選ばれたのかという「選びの出来事」が記されている訳ですが、これは弟子たちから見れば、イエス様との「出会い」の出来事であった訳であります。
私たちは、いろんな形で、いろんな人と出会いますけれども、「出会い」というものは不思議なものでありまして、ふとしたきっかけで私たちの人生が変わってしまう、否、変えられてしまうというような、そういうことも「時として」起こる訳であります。今日の所は、5人の人たちがイエス様と出会ったというお話ですが、彼らはイエス様と出会い、その人生を変えられた人たち、そんなふうに言ってもいいと思います。
で、今日の所には先ず、ヨハネの弟子であった二人の者、一人はペトロの兄弟のアンデレ、もう一人は誰か分かりませんが、とにかく、この二人の者がイエス様と出会う訳であります。
彼らは先ず、自分たちの先生である洗礼者ヨハネからイエス様のことを紹介され、イエス様について行く訳であります。ここにはまだ出会いはありません。でも、この二人がイエス様のあとについて行きますと、イエス様は突然振り返って、この二人に「何を求めているのか」と聞いたというのであります。ここに「出会い」のきっかけが生まれました。先ず、イエス様が声をかけてくださったのであります。
二人の者はイエス様に、「ラビ(先生)、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねます。少しずつ「出会い」が深められて行きます。そして、イエス様から「来なさい。そうすれば分かる」と言われ、彼らはイエス様について行く訳であります。そして、その晩、彼らはイエス様と一緒に泊まる。たぶん、その晩、彼らはイエス様といろいろなことを語り合ったのではないでしょうか。
勿論、具体的にどういうことを語り合ったのか、それは分かりません。でも、この一夜のイエス様との語らいは、彼らにとって本当の出会いを経験するものだったと言ってもいいのではないかと思います。それは次のアンデレの行動を見ますとよく分かると思うのでありますね。アンデレは自分の兄弟シモンに出会って、「私たちはメシア(油を注がれた者)に出会った」と語り、シモンをイエス様の所に連れて行ったのであります。ここには、イエス様との出会いを通して変えられたアンデレの姿がよく表されているのではないでしょうか。
ところで、このようにして、イエス様の所に連れてこられたシモンですが、このシモンに対して、イエス様はこのように言われました。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ…『岩』という意味…と呼ぶことにする」。ケファ、ギリシャ語ではペトロスということで、彼は後に「ペトロ」と呼ばれるようになりました。あの有名なイエス様の弟子「シモン・ペトロ」であります。
イエス様とシモン・ペトロとの出会い、それは今日のテキストを見る限りにおいてはよく分かれません。しかし、他の福音書に書かれているように、漁師であったペトロが、その生活必需品である漁(リョウ)をする網(あみ)を捨ててまでイエス様に従って行ったというような事を思うとき、そこには先程の二人の者、アンデレともう一人の者と同じような「出会い」があったと言ってもいいのではないでしょうか。
出会い、本当の出会いというものは、人を変えます。人生を変えます。その事を象徴的に表現しているのが「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩、ペトロス)と呼ぶことにする」という、このイエス様の言葉、そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。
ところで、43節以下の所には、イエス様に出会った人物が、更に二人出てまいります。一人はフィリポという人であり、もう一人はナタナエルという人であります。
先ずフィリポでありますが、フィリポは44節を見ますと、「アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」とありますから、彼も漁師の一人だったのかも知れません。なぜならば、ベトサイダという所は、漁村でありまして、漁師がたくさん住んでいたからであります。勿論、正確なところは分かりませんけれども、とにかく、このフィリポ、彼はイエス様から「わたしに従いなさい」と言われ、従って行った人であります。
そして、このフィリポはナタナエルという人に出会ってこう言いました。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。
「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」というのは、これは明らかにメシア・キリストということであります。そのメシア・キリストに、フィリポは「出会った」と言う。先程、アンデレがペトロに「わたしたちはメシアに出会った」という箇所を見ましたけれども、フィリポも同じことを言う訳であります。
これは明らかにフィリポがイエス様との出会いを経験したことを示すものであります。ですから、彼はうれしくなって、それを今度はナタナエルに伝えるのであります。ところがナタナエルは、独断と偏見でもってあっさりとこう答えます。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。
ナザレという村は、皆様ご存知のように、ガリラヤ地方の小さな寒村であります。旧約聖書にはナザレという村は出てまいりません。ですから、そんな辺境の村からメシア・キリストが出るはずはない。そうナタナエルは思うのであります。でも、フィリポは言いました。「来て、見なさい」。来て、自分の目で見なさい。
「来て、見よ」。これはイエス様がアンデレたちに言われた言葉と同じであります。イエス様はアンデレに「来なさい。そうすれば分かる」と言われましたが、フィリポは、はからずもイエス様と同じ事を言ったのであります。「来て、見なさい。そうすれば分かる」。
人間というものは不思議なものでありまして、言葉だけではなかなか信じられないということがあります。でも、実際に来て、自分の目で確かめれば、納得することが出来る。「百聞一見にしかず」という言葉がありますが、あれこれいろいろ説明するよりも、やはり一番いいのは「来て、見なさい」「来て、実際に自分の目で見なさい」ということなのかも知れませんね。
とにかく、フィリポは独断と偏見の持ち主ナタナエルに「来て、見なさい」と言って、彼をイエス様の所に連れてくる訳であります。そして、彼がイエス様の所に近づいて来たとき、イエス様はナタナエルについて、このように言われました。
「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。このイエス様の言葉はナタナエルをほめている言葉であります。ナタナエルは独断と偏見を持ってはおりましたけれども、イエス様から「まことのイスラエル人、この人には偽りがない」と称賛されたのであります。
「まことのイスラエル人」というのは、純粋にイスラエルの血をひく者、あるいは、律法を忠実に守る模範的な人というような、そんな意味の言葉であります。また「この人には偽りがない」というのは、裏(うら)表(おもて)のない人間、要するに、ウソをつけない人間であるという、そういう事を示しております。
フィリポから「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と聞かされた時も、とっさに「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えてしまったナタナエル。それは、彼の裏(うら)表(おもて)のない素直な態度から出てきたものと言ってもよいかも知れません。
まあ、それはともかくとして、このようにしてイエス様からほめられたナタナエルですが、彼は「どうしてわたしを知っておられるのですか」とイエス様に聞き返します。これに対して、イエス様は「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と答えます。
イエス様は全てお見通しなのでありますね。イエス様は、フィリポがナタナエルに声をかける前に、ナタナエルが「いちじくの木の下にいる」のを、既に見ていたのであります。
すると、ナタナエルはイエス様のこの洞察力にびっくりして、即座にこのように告白いたしました。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。
ここには独断も偏見もありません。これがイエス様の所にやって来て、そして見た、ナタナエルの素直な結論なのであります。彼はフィリポに連れられてではありましたけれども、自らやって来て、そして、イエス様とお会いし、本当にイエス様と出会ったのであります。
ナタナエルという名前は、イエス様の12弟子の表の中には見あたりませんが、彼がバルトロマイと同一人物だとするならば、彼もイエス様との出会いを通して、その人生を変えられた一人であると言ってもいいと思います。
さて、私たちは今まで今日のテキストに出て来た5人の人たちの「イエス様との出会い」というものを見てまいりました。一人はよく分かりませんが、とにかく、いろんな出会いがあった訳であります。で、最後ですが、今日の所で大切だと思われることを2点ばかり、もう一度取り上げて考えてみたいと思います。
先ず一つは、先程も少しお話いたしましたが「来て、見る」という事があります。イエス様はアンデレたちに「来なさい。そうすれば分かる」と招かれました。そしてイエス様との出会いを与えられた。ナタナエルもフィリポから「来て、見なさい」と言われ、イエス様と出会ったのであります。これらの事から私たちは、出会いにおける「来て、見る」ことの大切さというものを教えられると思います。
日本では、クリスチャンの数は1%にも満たないと言われておりますが、でも、イエス・キリストについて、あるいは、キリスト教について、何らかの形で知っているという人は、結構多いのではないでしょうか。しかし、彼らはなかなかイエス様と出会いません。どうしてでしょうか。
それは彼らが来て、見ないからだと思うのでありますね。自分であれこれ考え、いろいろ憶測してみても、実際に来て、自分の目で見なければ、本当の所は分からないのであります。
それでは、「来て、見る」というのは、どういうことなのでしょうか。自分で聖書を読んで、イエス様と出会うということもあります。でも、やはり教会に来て、イエス様と出会う。それが最も一般的ではないでしょうか。そして、その「出会い」のお手伝いをして行くのが、既にイエス様に出会っている「私たち」、そんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。一人でも多くの人たちがイエス様と出会う、そのきっかけを作ってあげる、そんな働きが私たちに出来たらと思います。
それでは、もう一つ、「出会いの継続性」ということについて考えてみたいと思います。
イエス様の弟子たちは、イエス様と出会い、変えられました。本当の出会いというのは、そのように人の生き方を変える不思議な力を持っております。
私たちクリスチャンもイエス様と出会い、変えられて、このように一緒に礼拝を守ったり、献金をささげたり、また、教会の様々な働きのために、用いられております。
しかしながら、ちょっと考えてみたいのであります。私たちは、「今」、イエス様と出会っているかどうか」。昔、イエス様と出会った、そして洗礼を受けた、というのではなくて、今、私たちはイエス様と出会っているかどうか。
イエス様との出会いを与えられた時、私たちは喜んだはずであります。感動したはずであります。イエス様と出会って、私たちは新しい世界を教えられました。神様を中心とする新しい交わりを教えられました。今まで神様が分からなかったけれども、神様のことが分かるようになった。御心が分かるようになった。言い換えれば、自分の罪というものを知らされ、救いを経験した。ほかにもいろいろな事があると思いますけれども、とにかく、私たちはイエス様との出会いを通して、喜びを与えられ、感動したはずであります。
しかし、問題は、今、私たちは喜んでいるか、その時の感動を今も持っているかどうか、ということであります。これは「出会いの継続性」と言ってもいいと思うのですけれども、私たちは、長い教会生活のマンネリズムの中で、喜びを忘れ、感動を忘れている、そういうことはないでしょうか。
アンデレはイエス様と出会った時、その喜び、感動を押さえることが出来ず、自分の兄弟のシモン(ペトロ)にそれを伝えました。フィリポも、その喜び、感動をナタナエルに伝えました。
イエス様と出会っている時、そこには喜びがあります。感動があります。そして、その喜びや感動というものは、人を具体的に動かすのであります。具体的な働きへと人を駆り立てるのであります。
イエス様との出会い。それは、私たちにとって、一期一会、一回限りの出来事ではないのであります。繰り返し、繰り返し起こる、日々の出来事なのであります。そうじゃなければ、私たちの信仰は、段々とやせ細ってしまう。
長い教会生活のマンネリズムの中で、喜びを忘れ、感動を忘れている。そういうことはないでしょうか。そうなっていれば、それは赤信号であります。私たちはマンネリズムではなくて、日々、イエス様との出会いを経験し、喜びと感動をもって歩んで行きたい。そして、イエス様に招かれている恵みを心から感謝するものでありたい、そんなふうに思います。
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