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説教 「神の小羊」 (ヨハネ 1:29-34) 2013/11/03

 先週は、「洗礼者ヨハネの証し」について、少しばかりお話しました。今日は、そのヨハネの具体的な証しについて、もう少し詳しく学んでみたいと思います。

 先ず、ヨハネは、自分の方へイエス様が来られるのを見て、こんなふうに言ったとあります。29節の途中から、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 それから32節以下の所を見ますと、ヨハネは、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」。だから、「この方こそ(イエス様こそ)神の子であると証ししたのである」と、こんなふうに記されております。

 他の福音書では、洗礼者ヨハネがイエス様を証ししたというお話はありませんで、むしろ、ヨハネは、イエス様に「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3、ルカ7:19)なんて、牢屋から(殺される前)尋ねさせていますから、洗礼者ヨハネがイエス様を「来たるべきメシア」と証ししたというお話、これは「ヨハネ福音書だけ」ということになります。

 どうして、ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネが、イエス様のことを証ししたなんて記しているのでしょうか。それは、ヨハネ福音書が書かれた目的が、「イエス様こそ神の子メシアである」と証しすることにあったからであります。

 ヨハネ福音書の20章31節には、このヨハネ福音書が書かれた目的が、このように記されています。「これらのこと(ヨハネ福音書)が書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 勿論、ほかの福音書だって、イエス様を神の子メシア・キリスト・救い主と証しするために書かれた訳ですけれども、ヨハネ福音書は、特にそのことが強く全面に出ているのではないでしょうか。だからこそ、洗礼者ヨハネも積極的にイエス様のことを証ししたという、そういう書き方がなされているのだと思うのでありますね。

 もう少し言うならば、ヨハネ福音書は、教会の信仰告白を語ったもの、そんなふうに考えるといいと思います。ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネの証しは、実際にヨハネがこのように証ししたということよりも、教会の信仰がヨハネの口を通して語られている、そんなふうに考えると分かりやすいと思います。

 いずれにせよ、聖書は、イエス様のことを証しするために書かれた訳ですから、実際に洗礼者ヨハネがこのように証ししたかどうかという、そういうことにこだわるのではなくて、聖書が語ろうとしている真実を見極めて行ければと思います。

 ということで、今日の所ですが、先ず、ヨハネは、イエス様が自分の方へ来られるのを見て、、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と、こんなふうに言ったとあります。「世の罪を取り除く神の小羊」。これはどういう意味なんでしょうか。

 「神の小羊」という表現は、聖書には、今日の所と、少し後の36節の所にしか出てこない表現であります。でも、「小羊」という表現は、結構たくさん出てまいります。特に、ヨハネの黙示録の中にたくさん出てくる。そして、ヨハネの黙示録では、イエス様のことを「小羊」と呼んでいる訳でありますね。

 それでは、どうしてイエス様のことを「小羊」というような表現で呼んでいるのでしょうか。それは、やはり旧約聖書のイザヤ書53章の言葉と関係があると思います。イザヤ書の53章6節以下には、このような言葉があります。

 「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償(つぐな)いの献げ物とした。」(イザヤ53:6-10)

 これらの言葉は、イエス様が私たちの罪のために十字架の道を歩まれた、そのことを預言して書かれた言葉だとよく言われます。私たちの罪を背負い、十字架の道を歩まれたイエス様。「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、口を開かず」、ただ黙々と十字架をめざされたイエス様。「捕らえられ、裁きを受けて」十字架の上で命を取られたイエス様。不法を働かず、その口には偽りもなかったのに、殺されて墓に葬られたイエス様。その時は、誰もイエス様のことが分からなかったけれども、イエス様は、私たちの罪をあがなうために、自らの命を「償(つぐな)いの献げ物、贖いの献げ物」としてくださったんだと、こう言うのであります。

 で、ここでは「罪をあがなう、贖罪の小羊」ということが語られている訳ですけれども、これは旧約聖書の知識がないと、ちょっと分かりにくいと思いますので、少し説明したいと思います。

 昔、イスラエルの人達は、自分達の犯した罪をあがなう為に、小羊や山羊などを殺し、それを神様にささげたんでありますね。昔は、人身御供(ひとみごくう)、人身犠牲というような事が行われていた所もあったようですけれども、イスラエルの人達は、人間をいけにえとして神にささげるのではなくて、動物に、自分達の罪を担(にな)わせ、おしつけて、その動物を殺す事によって、自分達の罪をあがなった訳でありますね。要するに、人間の罪の身代わりとして、動物の血を流し、自分達の罪をゆるしてもらうという、そういう考え方をしていた訳であります。

 まあ、身勝手というか、都合のいい話ですけれども、とにかくそういう考え方があった訳であります。で、そういう人間の罪をあがなう為に用いられた小羊が「贖罪の小羊」と呼ばれるものでありました。

 で、イエス様が「小羊」と呼ばれるのは、イエス様があの十字架によって私たちの罪を贖ってくれたからということで、「贖罪の小羊」あるいは、単に「小羊」と呼ばれる訳でありますけれども、洗礼者ヨハネは、イエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」、こんなふうに呼んでいる訳でありますね。

 「世の罪を取り除く神の小羊」。これはどういうことなんでしょうか。「世の罪を取り除く神の小羊」。これは、イエス様が、この世の罪すべて、全人類すべての罪を取り除いてくれる「贖罪の小羊」、しかも、その「小羊」は神様から遣わされた「神の小羊」であるということであります。要するに、イエス様はすべての人のために自らの命を犠牲にされたことにより、すべての人の「救い主」になられたということなんでありますね。

 先程も少しお話しましたけれども、昔のイスラエルの人たちは、自分たちの罪を贖ってもらうために、小羊を犠牲にして(いけにえとして)神様にささげたんであります。でも、その小羊は、自分のため、あるいはせいぜい自分たちの家族のためのものでありました。確かに、年に1回「贖罪の日」というのがありまして、イスラエル全体の罪を贖うということも行われておりましたが、それはあくまでもイスラエル民族全体の罪を贖うということで、この世の罪すべてを贖うという、そういうものではありませんでした。

 でも、イエス様は、この世にあるすべての罪、私たち全人類の罪を贖(あがな)うために、神様から遣わされたんでありますね。そして、あの十字架の上で血を流すことによって、すべての人の罪を取り除いてくださったのであります。そして、私たち人類すべての「救い主」となってくださった訳であります。

 ヨハネ福音書は、先程も申し上げましたが、教会の信仰告白を語っている訳であります。洗礼者ヨハネが、イエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」であると証ししたというのは、一言で言えば、イエス様こそ「私たちの救い主である」という、そういう信仰告白の表現なのであります。イエス様こそ私たちの罪を取り除いてくださるお方、イエス様を信じ受け入れ、イエス様に従って行くならば、私たちの罪は赦され、神様の恵みにあずかり、私たちに新しい命が与えられ、新しい人生が与えられる。そういうことを語っている言葉なのであります。

 繰り返しますが、洗礼者ヨハネの証しは、教会の証しであります。少なくとも、ヨハネ福音書ではそうであります。先程も引用しましたが、ヨハネ福音書が書かれた目的は、私たちが、「イエス様は神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」なのであります。そしてこれは、聖書全体がそうであると言ってもいいと思うのでありますね。

 イエス様も、こんなことを言っております。 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)

「わたしについて、イエス様について、証しをするもの」、それが聖書なんでありますね。ですから、私たちも、そういう視点から聖書を読んで行ければと思うのであります。

 ところで、洗礼者ヨハネは、イエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と語ったあと、「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」と証ししたということですが、この証し、これもイエス様が神の子であるということを語っている言葉であります。

 洗礼者ヨハネよりも先におられたイエス様。聖書によれば、ヨハネは、イエス様よりも約6ヶ月前に生まれたんですね。ですから、人間的に言えば、イエス様よりもヨハネの方が先なんであります。また、伝道活動も、ヨハネの方が早い。イエス様が伝道活動を始められたのは、ヨハネから洗礼を受け、荒野で40日40夜の悪魔の試みを受けたあとであります。にもかかわらず、ヨハネは、イエス様のことを、「私よりも先におられた」なんて言っている。

 「わたしよりも先におられた」。これは、キリスト教の教理では「先在(せんざい)」(先に在(あ)る)ということですけれども、簡単に言えば、イエス様は「神様だった、神の子だった」ということであります。

フィリピ書の2章6節以下には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」という言葉がありますが、ヨハネ福音書は、このことを言いたかったのではないでしょうか。

 いずれにせよ、ヨハネが、イエス様のことを「私よりも先におられた」ということで語っているのは、イエス様こそ、神様から遣わされた神の子であるという、そういう信仰告白なのであります。そして、このことは今日のテキストの最後の所、34節の所ではっきりと語られます。ヨハネは、「この方こそ、イエス様こそ神の子であると証ししたのである」と、こうはっきり言及する訳であります。

 それでは、最後にもう一つヨハネの証をみておきたいと思いますが、それは、32節の所にあります。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」という証しであります。これは、イエス様がヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けた時のお話でありますね。でも、ヨハネにも、聖霊が鳩のように天から降って来て、イエス様の上にとどまったのが見えたのかどうか。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書では、イエス様には見えたようですけれども、ヨハネにはどうも見えなかったような、そんな書き方がしてあります。

 でも、問題は、ヨハネに見えたかどうかということではないのであります。実際に「聖霊が鳩のように天から降って来て、イエス様の上にとどまった」という事実なんでありますね。その事実に基づき、イエス様が本当に神の子であることが分かるという、そういうことなんであります。

 繰り返しますけれども、ヨハネ福音書の書かれた目的、それは「私たちが、イエス様は神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエス様の名により命を受けるため」なんであります。ヨハネは、そのことのために、このような福音書を書いたのであります。イエス様が神の子である。私達の救い主である。そのイエス様信じ、そのイエス様に従って行くならば、私たちは誰でもイエス様によって新しい命が与えられる。新しい人生を歩んでいくことができる。そのことをヨハネ福音書は、そして聖書は私たちに教えているのであります。

 洗礼者ヨハネが、本当に、今日の所に記されているような証しを語ったのかどうか。他の福音書と比べると、どうもあやしい。でも、それが問題ではないのであります。イエス様が神の独り子であり、そのイエス様が、あの十字架と復活によって私たちの罪を贖(あがな)い、私たちに新しい命を与えてくださった。そのことが問題なのであります。

 私たちは、聖書が教えるこの恵みの福音を素直に受け入れ、新しい人生へと歩み出して行きたいと思います。そして、感謝をもって、神様に喜んでいただけるような、そんな歩みを少しでもして行ければと思います。

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