今日は洗礼者ヨハネについて、少しばかり学んでみたいと思います。
洗礼者ヨハネと申しますと、私たちはすぐにイエス様の先駆者という事を思い浮かべますけれども、イエス様の先駆者とは、どういうことなのしょうか。
ヨハネ福音書の1章6節以下には、このような事が記されております。
「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。
ここには「証しをするため」という言葉が、繰り返し用いられておりますけれども、洗礼者ヨハネは、この世の光であるイエス様を証しするために神様から遣わされたのであります。そして、この「証しをする」という事が、先駆者の重要な使命なのでありますね。ヨハネはイエス様に先だって、イエス様こそ神の子、キリスト、救い主であると証しする。これがヨハネが先駆者として遣わされた理由と言ってもいいと思います。
それでは「証しをする」というのは、一体どういう事なのでしょうか。聖書に記されております「証し」(マルチュリア)という言葉は、もともと法廷用語でありまして、ある事件があった場合、それを目撃したり、知っている人が、法廷に喚問されて、裁判官の前で、その事件の真相、あるいは、知っている事を、包み隠さずありのままにお話するということであります。よく「証人喚問」というような事が言われますけれども、証人が語る言葉、それが「証し」なのであります。
ところで、この「証し」でありますけれども、「証し」で大切な事、それは先ず、「それが真実である、本当である」ということであります。アメリカなどでは、法廷で証しをする場合、よく聖書の上に手を置いて「これから自分の語ることは神様にかけて真実であるという事を誓う」訳ですけれども、証人の語る証しで大切な事、それは先ず、それが真実である、本当であるということ。
それから「証し」で大切な事は、「聞かれたことに対して適切な答えをする」ということであります。図に乗って、問題とは関係ないことを、あれこれ語っても、肝心のことに対して、適切な答えが出来なくては、その証しは半減してしまいます。ですから、証しで大切な第二のポイントは、問題になっている事柄について、適切な答をするという事であります。
それにもう一つ、証しで大切なことは、自分のことよりも、むしろある事柄、ある人物、すなわち、ある何ものかを「指し示す」という事であります。
殺人事件なんかが起きますと、アリバイというようなことがよく問題とされます。アリバイというのは、その事件が起きた時、容疑者がその現場にいなかったということの証明、現場不在証明ですけれども、このアリバイというのは、自分がいくらその現場にいなかったと言い張っても、それだけではダメで、第三者がそれを証明してくれなければはならない訳であります。
同じように、証しで大切なのは、自分のことを語るのではなくて、その中心は、あくまでも、別のある人、ある事柄、ある出来事なのであります。
アリバイの事で申し上げれば、容疑者は自分で自分のことを証しするのではなくて、第三者に証ししてもらう。そして、この第三者の証しというものが、証しとしての価値をもつのであります。
話がちょっと違うかもしれませんけれども、教会ではよく「証し会」というようなものがもたれます。自分はこのようにして救われた、このようにして導かれた、このようにして困難を克服したというような、そういう証しがよく語られます。
しかし、よく聞いておりますと、自分の生まれや、家族のこと、また、自分はああだった、こうだった、というような事ばっかり話して、肝心のイエス様の事、神様の事がほとんど語られない、そういうことも、時としてですけれども、ある訳であります。
勿論、自分の事を語ることも大切であります。自分はこういう境遇にあった、こういう生き方をして来た。こういう人間であった、そういう事を語ることも、これは確かに大切であります。しかしながら、そういう自分が、如何にしてイエス様に出会い、イエス様によって救われ、イエス様によって変えられ、導かれて来たのか、そういう事を語るのが「証し」ではないでしょうか。
「証し」で大切なのは、自分のことを語りながらも、やはり「イエス・キリストを指し示す」ということだろうと思います。こんな自分が、こんなふうに変えられた。そこには、神様のこんな導きがあった。あるいは、神様・イエス様の恵みによって、今このようなすばらしい生活が与えられている。そういうことを語るのが、「証し」なのではないでしょうか。
繰り返しますけれども、「証し」で大切なのは、自分のことを語るとしても、決して自分の方に重点があるのではなくて、証しされるべき対象の方に重点があるということだろうと思うのでありますね。
ところで、洗礼者ヨハネは、「光について、すなわち、イエス様について証しするために、この世に来た」という事ですけれども、それでは洗礼者ヨハネは、具体的にどのようにしてイエス様を証ししたのでしょうか。
先程お読みいただきました1章の19節、20節には、このようにあります。
「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した」。
ヨハネは「あなたは、どなたですか」と尋ねられたとき、「わたしはメシアではない」と公言したというのであります。「わたしはメシア(キリスト)ではない」。これは、この言葉だけ取り上げればなんでもない言葉のように見えますけれども、このヨハネの言葉、これが「ヨハネの証し」であるとするならば、これは非常に重要な意味を持っております。
なぜならば、先程も申し上げましたけれども、証しというのは、それが真実であるという事を示すからであります。しかも、証しというのは「あるもの」を指し示すものでありますから、ヨハネは、「わたしはメシアではない」と語る事によって、消極的ではありますけれども、メシアを指し示しているのではないでしょうか。
勿論、この時点ではまだメシアが誰なのかという事は分かりません。そのことが明らかになるのは、1章の29節以下になってからでありますけれども、とにかく、ヨハネは「わたしはメシアではない、キリストではない」と証しすることによって、暗に「誰がメシアなのか、キリストなのか」という事を語っていると言ってもいいと思うのであります。
ところで、ヨハネは、「わたしはメシア(キリスト)ではない」と言ったものですから、今度は「エリヤなのか」と尋ねられます。エリヤというのは、旧約聖書に出てくる預言者ですけれども、メシアが来る前に再び現れると考えられていた人物であります。しかし、ヨハネは「エリヤでもない」と答える訳であります。それなら「預言者なのか」と今度は聞かれますけれども、ヨハネは「預言者でもない」と答える。
メシアでもない、エリヤでもない、預言者でもない。だとするならば「あなたは一体だれなのか」。それに対して、ヨハネは預言者イザヤの言葉を用いて、こんなふうに答えました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。
このヨハネの答えは、自分は来るべきメシアの道備えをしている者、メシアが来た時、みんなが素直にメシアを受け入れることが出来るように、その道を整えているんだという、そういう意味の言葉であります。
ヨハネは「来るべきメシア、キリスト」を証しするために、「わたしはメシア(キリスト)ではない」と語り、そして、その道備えをしている者にすぎないと語るのであります。そして、その事をはっきりと語っているのが27節の所にある言葉であります。27節「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履(はき)物(もの)のひもを解く資格もない」。
「わたしの後から来られる方」、洗礼者ヨハネは、この方にみんなの目を向けさせようとしているのであります。ヨハネは先ず「わたしはメシア(キリスト)ではない」と言いました。「わたしはメシア(キリスト)ではない」というのは、極めて消極的な証しであります。まだ誰がメシアなのかという事ははっきりいたしません。
しかし、27節で彼が「わたしの後から来られる方」という時、徐々にではありますけれども、ぼけていた像が少しずつはっきりしてくるのであります。そして29節以下、これは今日のテキストではありませんけれども、29節以下の所で、ヨハネの証しは頂点に達するのであります。
ついでですから見ておきたいと思いますが、ヨハネ福音書の1章29節以下、このように記されております。
「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。 それから、少し飛んで32節以下、
「そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」。
この方(かた)、すなわちイエス様こそ「世の罪を取り除く神の小羊」、また、神の子、救い主キリストであると、ヨハネは証ししているのであります。このことについては、来週もう少し詳しくお話したいと思いますが、とにかく、
ヨハネは、イエス様こそ神の小羊、メシア、キリストであると証ししました。これは非常に重要なことであります。
そして、キリストを証しするというのは、これはまた私たちキリスト者の務め・使命でもあるのではないでしょうか。イエス様こそ私たちの救い主、キリストなんだという事を、私たちは語らなければなりませんし、また、そのことを私たちは証ししていかなければならないのであります。
勿論、その証しの方法、語り方というのは、いろいろあると思います。ヨハネが最初に証ししましたように「私はメシアではない」と語ることも、これは一つの証しの方法と言ってもよいかも知れません。非常に簡単な事であります。
しかし「私はメシア、キリストではない」というのは、「私はキリストとは関係ない」という事では決してありません。「私はキリストとは関係ない」という事であれば、本当にキリストと関係なくなってしまいますし、証しするどころか、これはキリストを否定する事にもなってしまいます。
現代は、「私はキリストではない」という人よりも、むしろ「私はキリストとは関係ない」という、そういう人の方がはるかに多いのであります。そういう現実の中で、私たちは「私はキリストではない」けれども、この人こそ、イエス様こそキリストである、救い主であると証しして行かなければなりません。今の時代、これは本当に大変な事だとは思いますけれども、でも、それをしていくのが私たちキリスト者の務め・使命なのではないでしょうか。
聖書には、こんな言葉があります。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ローマ10:14)
イエス様のことを宣べ伝える人、証しする人がいなければ、イエス様のことは伝わってまいりません。イエス様がどんなにすばらしいお方なのか、どんなに私たちを愛してくださっているか、証しする人がいなければ、相手には伝わりません。ですから、宣べ伝える人、証しする人が必要なのであります。そして、それは私たちクリスチャン以外にはないのであります。
聖書には、こんな言葉もあります。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(2テモテ4:2)。 「御言葉を宣べ伝える」。それは「イエス様を宣べ伝える」と言い換えてもいいのではないでしょうか。「折が良くても悪くても」、イエス様のことを宣べ伝えて行く、イエス様のことを証して行く、これからも、そういう歩みをして行ければと思います。
最後にもう一つ、聖書の言葉を取り上げて終わりにしたいと思います。これはコリントの信徒への手紙二 4章5節にある言葉。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」
これはパウロの言葉ですが、私たちも、イエス・キリストの僕として、「自分自身を宣べ伝えるのではなく」、あくまでも「主イエス・キリストを宣べ伝えて行く」、そして、主の栄光を現して行く、そういう歩みをして行きたいものであります。
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