今日の所は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」という言葉から始まります。
この「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という言葉は、あの「イエス様のこと」を語っている言葉です。見えない神様が、私たちの目に見えるかたちで、要するに、人間の姿かたちをとって、肉体をもって、この世に来られた。そういうことを語っている言葉であります。
イエス様は、確かに、私たちと同じ人間でありました。ですから、食べ物も食べましたし、眠りもしました。尾(び)籠(ろう)な話ですが、トイレにも行きました。聖書には、イエス様が「大食漢で大酒飲みだ」なんて言われたことも書いてあります。(マタイ11:19、ルカ7:34) しかしながら、そのイエス様は、神様でもあった。 目に見えない神様が、人間の姿かたちをとって、この世に来られたお方。それがイエス様であると教えるのであります。
ユダヤ教やイスラム教では、イエス様は「預言者」の一人だと教えます。また、「エホバの証人・ものみの塔の人たち」は、イエス様を「天使」だと言ったりしています。でも、聖書は、イエス様は「神であり、人である」と教えるのであります。
「神であり、人である」。これは分かりにくい表現かも知れません。特に、今のような科学の進歩した時代では、「神であり、人である」なんて、そんな概念、誰も持っておりません。でも、昔は、こういう考え方、決して珍しいものではありませんでした。
例えば、聖書に出てくるお話ですが、こんなお話があります。
リストラという町で、パウロが生まれつき足が悪く歩けなかった人をいやされたとき、要するに、今まで一歩も歩けなかった人が、パウロの一声で歩けるようになったという、そういう所謂(いわゆる)「奇跡」を見て、群衆は、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお降りになった」と言って、バルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」と呼んだというお話。そういうお話が使徒言行録の14章8節以下に載っています。。ゼウスやヘルメスというのは、ギリシア神話に出てくる神々ですけれども、リストラの人たちは、パウロたちの行った「奇跡」を見て、「神様が、人間の姿をとって、この世に来られた」と思ったのでありますね。
また、こんなお話も聖書に載っています。
ローマに護送されるパウロ。その船が難破して、マルタ島という島に上陸する訳ですが、その島で、パウロは、蝮(まむし)(蛇)に咬まれる訳であります。で、最初、島の人たちは、「この人はきっと人殺しに違いない。海では助かったが『正義の女神』はこの人を生かしてはおかないのだ」と言っていたのですが、なかなかパウロが死なない、ピンピンしているものですから、今度は逆に、「この人は神様だ」と言い始めたというのでありますね。このお話は使徒言行録2章1節以下にあるお話であります。
昔は、こういうことも、ある意味において、当たり前のように信じられておりました。神様が人になる、あるいは、人になった神様。そういうお話、「神話」の中にもよくあります。古事記や日本書紀の中にもありますね。「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」。その子孫が神武天皇であり、天皇は神の血筋を引いているというお話。実際に、68年前までは、日本ではそう信じられておりました。終戦の時まで、実際に天皇は「現(あら)人(ひと)神(がみ)」だったのでありますね。
しかしながら、今のこのような時代、科学の進歩した今のような時代、「神様が人になる」、あるいは、「神であり、人である」なんて、そんな話、信じられないという、そういう人たちが沢山おります。
聖書には、確かに、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とありまして、神様が、人間の姿かたち、肉体をもって、この世に来られた。それがイエス様であると教えていますけれども、でも、そんなこと信じられない、そういう人たちも沢山いる。 私は、信じられないのなら、信じられなくてもいいと思っております。少なくとも、最初のうちは信じられない。そういう人がいてもいいと思うのでありますね。
信仰というのは、勿論、信じることから始まる訳ですけれども、最初から何もかも信じなければならないという、そういうものでもないと思っています。信じられないのであれば、信じられなくてもいい。でも、聖書を読み進めていけば、必ず信じられるようになっていく。私は、そんな信仰を持っています。
イエス様が行った奇跡。イエス様の復活。イエス様の昇天の出来事。素直に信じられる人は勿論「幸い」ですけれども、最初からみんなが素直に信じられる訳ではない。でも、イエス様は今も生きておられる。そして、いつも私たちを守り導いていてくださっているということが分かれば、聖書のお話も段々と信じられるようになって行くのではないでしょうか。あせらず、ゆっくり、祈りつつ、その時を待つというのも、これ、信仰の一つではないでしょうか。
ところで、今日の所には、「恵みと真理」という言葉も出てまいります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
神の独り子イエス様が、人間の姿かたちをとってこの世に来られたのでありますね。そこには、神の独り子としての栄光がありました。と同時に、この出来事は「恵みと真理に満ちたた」、そういう出来事でもあったという訳であります。
それから、少し飛んで17節。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とあります。
律法、それは人間が人間として歩むべき道を教える神様の掟であります。「モーセの十戒」なんていう、有名な10の教えなんかがありますが、問題は「恵みと真理」であります。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」。
「恵みと真(しん)理(り)」。前の聖書は「恵みとまこと」と訳しておりました。「恵み」というのは「カリス」、「真理・まこと」というのは「アレーテイア」。こういう言葉が使われております。まあ、ここには「恵みと真(しん)理(り)」ということで二つのことが語られている訳ですが、これらの言葉で、聖書は何を、私たちに教えようとしているのでしょうか。
先ず「恵み」(カリス)ということについて少し考えてみたいと思いますが、今日の所で語られている「恵み」というのは、太陽の恵みだとか雨の恵み、季節の恵みというような、そういう自然の恵み、自然界の恵みのことではないということ、これはすぐ分かると思います。確かに、太陽の光や熱を受け、また、雨の恩恵を受けて、作物が成長し、豊かな収穫が与えられる。そういう自然の恵みというものもあります。でも、「恵みと真理がイエス・キリストを通して現れた」というのですから、この「恵み」というのは、もっと別の、特別な意味があるはずであります。
それでは、イエス・キリストを通して現れた「恵み」というのは、どういうものなのでしょうか。今日の聖書の言葉を用いて言えば、それは、14節のところにある「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という恵みを一つ挙げてもいいと思います。
同じ事柄を示すもう少し分かりやすい表現を探せば、18節の言葉を挙げてもいいと思います。18節には、このようにあります。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。要するに、目に見えない神様を私たちに分からせてくださったという恵み、そういうものが一つあると思うのでありますね。
私たちは、神様という言葉をよく使いますけれども、神様なんて「いまだかつて誰も見たことがない」訳ですから、よく分からない訳であります。神様という言葉は知っておりましても、その神様ってどんなお方なのかというと、よく分からない。勿論、神様は、天地を造られた創造主とか、唯一絶対の全知全能者、また、聖なるお方であり、愛のお方であり、また裁きを行う審判者、そういうことは知っているかも知れません。でも、その「知っている」というのは、言葉として知っているということだけで、本当の所はよく分からない、そういうとことがあるのではないでしょうか。
しかし、その本当の所はよく分からない神様が、私たちに分かるようになればどうでしょうか。イエス様は「私を見た者は、父(なる神様)を見たのだ」とおっしゃいました(ヨハネ14:9)。イエス様を見ることによって神を見ることができる。神様のことが分かる。それは「恵み」と言ってもいいのではないでしょうか。
「いまだかつて、神を見た者はいない」、そういう現実の中にあって、「父のふところにいる独り子である神・イエス様が、神様のことを示された」。それによって私たちが、本当の意味で神様のことが分かるようになるとすれば、それはやはり「恵み」と呼んでいいと思いますね。で、これは専門的な言葉を使えば、神様が、イエス様を通して、ご自身を「啓示された」ということですけれども、こういう事実、それをここでは「恵み」という言葉で表現しているのではないでしょうか。
でも、「恵み」という場合、それだけにとどまりません。私たちは知っているのであります。あのイエス様が十字架に付けられたということを。しかも、イエス様は、私たち罪人のために、私たちの身代わりとなって十字架に付けられたということを。そして、そのことによって、私たちは罪から解放され、今や「光の子」となり、「神の子」として新しい人生を与えられているということを。この事実こそ、また「恵み」とは言えないでしょうか。
16節の所に「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。イエス様が、この世に来られ、私たちに神様のことを示してくださった、それを第1の恵みとすれば、イエス様のあの十字架による「罪の赦し」、私たちを新しい人生へと招き入れてくださった、あの恵みは第二の恵みと言ってもいいのではないでしょうか。それを、聖書は「恵みの上に、更に恵みを受けた」と表現しているのではないでしょうか。
いずれにせよ、「恵み」が「イエス・キリストを通してこの世に現れた」というのは、私たちが今まで予想だにしていなかった、そういう「恵み」が私たちに与えられたということなんでありますね。
それではもう一つ、「真理」が「イエス・キリストを通してこの世に現れた」ということですけれども、ここで言っている「真理」(アレーテイア)とは、一体何でしょうか。
「真理」なんて言いますと、これも分かっているようで分からないところがあります。真理が大切であるということはよく分かっています。でも、あらためて「真理とは何か」なんて問われると困ってしまう、そういう所があるのではないでしょうか。
「真理」、それは今も昔も変わらないものであります。昔は真理であったけれども、今では真理ではないというようなものは、もともと真理ではありません。あるいは、「新しい真理」なんていう言葉を使って人を引きつける宗教もありますけれども、だまされてはいけません。真理に新しいも古いもないのであります。昔も今も永遠に変わらないもの。それが真理なのであります。
それでは「真理とは何ぞや」ですが… 、国語辞典なんかには、こんな説明がついています。①ほんとうの道理。②論理の法則にかなった正しい知識・判断。③どこででも、いつでも通用する妥当な知識・認識。 でも、これらは単なる言葉の説明であります。
それでは、聖書が言う「真理」というのは、どういうものなのでしょうか。
ローマ書3章4節には、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべき」という言葉があります。ここにあります「神は真実な方」という「真実」。これは「真理」という言葉と同じであります。「アレーテイア」という言葉が用いられている。もともと「アレーテイア」という言葉には、「真理、真実、まこと、誠実」という、そういう意味があるのでありますね。ですから、逆に言えば、今日の所にある「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」という表現は、「恵みと真実がイエス・キリストを通して現れた」と言っても言い訳であります。
でも問題は、その真実・真理の中身であります。「神は真実な方」「神は真理なる方」ということであれば、真理と言えるものは「神様」以外ないのではないでしょうか。人間は間違いも犯しますし、失敗もします。偽り者と呼ばれても仕方ない存在です。でも、神様は真実なお方、間違いを犯さない、偽りのないお方、神様こそ「真理」そのものと言ってもいいのではないでしょうか。
そして、その神様がこの世に来られた姿がイエス様だとすれば、イエス様こそ「真実・真理」と言えるのではないでしょうか。
イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父なる神のもとには行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われました。いまだかつて、こんなことを言った人はいません。誰も、こんなこと言えないのではないでしょうか。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」 私たちは、イエス様の中に「真実・真理」を見いだしたいものであります。今や、イエス様を通して「恵みと真理」が、私たちに与えられています。イエス様が与えてくださる「恵み」を感謝し、そしてイエス様を通して現れた「真理」をもって、これからも力強く歩んで行きたいものであります。
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