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説教 「マルタとマリア」 (ルカ 10:38-42) 2013/10/13
(於・燕教会)
 今日のお話は、有名な「マルタとマリア」のお話であります。

 イエス様たちが「ある村」にお入りになると、マルタという女の人が、イエス様たちを自分の家に迎え入れたといいます。ここにあります「ある村」というのは、ヨハネ福音書の11章によりますと、「ユダヤのベタニア」という村ということになっています。ベタニアと申しますと、あのラザロの復活という奇跡が行われた村でありますから、ご存知の方も多いと思います。

 ところで、今日の所は、イエス様たちが、このベタニアの村にやって来た時に、マルタという女の人が、イエス様たちを自分の家に迎え入れたということですが、このマルタには、「マリアという姉妹」がおりました。それだけではなくて、先程申しましたヨハネ福音書を見ますと、「ラザロ」という弟もいたようであります。

 ということは、3人家族なんでしょうか、あるいは、もしかしたら両親等も含めると、もっと多くの家族がいたのかも知れません。いずれにせよ、マルタの家族は、マルタとマリア二人だけではなかったようであります。聖書を読むとき、このようなことも考えてみると、幅広い読み方が出来るのではないかと思います。

 ところで、今日のお話に戻りますが、マルタはイエス様たちを自分の家に迎え入れ、忙しくイエス様たちの接待をしておりました。折角イエス様たちがお出でくださったのだから、精一杯のおもてなしをしたいということで、マルタは一生懸命立ち居振る舞ったのではないでしょうか。

 しかし、妹のマリアは、何もしない。何も手伝わない。ただじっとイエス様の語るお話に耳を傾けているだけ。マルタはとうとう頭に来て、イエス様のそばに来て、こんなことを言ったと言います。「主よ、わたしの姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。

 しかし、このときイエス様は、このように答えられたといいます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。有名な「マルタとマリア」のお話であります。

 この「マルタとマリア」のお話。昔からいろいろなことが言われてまいりました。一番オーソドックスなのは、やはり、「必要なことはただ一つだけである。(そして)マリアは良い方を選んだ」という、このイエス様の言葉を根拠に、ただ忙しく働くだけが能じゃない。しっかりと先ずイエス様の御言葉を聞くことが大切なんだという、そういうことが一つあります。

 マルタとマリアのあり方で言えば、マリアの方に軍配を挙げる評価。「奉仕や実践活動も確かに大切かも知れないけれども、でもクリスチャンにとってやはり一番大切なのは、先ずイエス様の御言葉に耳を傾け、御言葉をしっかりと学ぶこと。」そして、「私たちはこのマリアのようなあり方・姿勢をもっと見習うべきであり、マルタのようであってはならない」という、そういうことを言う人もおります。

 確かに、「マリアは良い方を選んだ」という、このイエス様の言葉を聞く限りにおいては、そういう受けとめ方も出来ると思いますし、本当にそうだろうとも思います。イエス様は、あの「思い煩うな」という教えの中でも「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と教えられました。いろいろなことに「思い煩う」のではなくて、「先ず神の国と神の義を求める」。それはイエス様の言葉に先ずしっかりと耳を傾けることから始まると言ってもいいと思います。

 また、聖書には「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」という有名な言葉もあります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10:17)。

 イエス様の前に跪(ひざまづ)き、じっとイエス様の語られる御言葉に耳を傾けるマリア。正に、マリアは信仰者の鑑(かがみ)(お手本)のようにも思われます。ですから、「マリアに見習いましょう」というのも、よく分かる訳であります。

 しかしながら、最近は、この「マリアに見習いましょう」という、いわゆる「マリア賞賛型」に対して、マルタのような人だって大切ではないかということを言う人たちもおります。教会で、みんながマリアのようになってしまったら、誰が教会の奉仕をするのか。会堂の掃除をしたり、受付や献金の当番をしたり、奏楽したり、また、愛餐会の食事の用意をしたり、教会にはいろいろな奉仕がいっぱいある訳であります。そういう奉仕をすることもまた大切ではないかと言う訳でありますね。

 確かに、その通りであります。ただ御言葉だけ聞くのであれば、それは簡単であります。しかし、現実問題としては、奉仕する人がいなければ教会は教会として機能して行かないのであります。ですから、マルタのようにいろいろと動き回る人、立ち働く人、奉仕する人も大切なのでありますね。

 で、こういう所から、マリア的な人だけではなくてマルタ的な人もまた必要だということで、よく言われる「マリア型」とか「マルタ型」というような、そういう言い方はしない方がいいという人たちもおります。

 確かに、そうであります。マリア型とかマルタ型、あるいは、マリア的な人たちの集まりを「御言葉グループ」とか、マルタ的な人たちの集まりを「実践グループ」なんて呼ぶこともあるようですけれども、聖書は、そしてまたイエス様は、そういうことは何も言っていないのでありますね。ですから、私たちが勝手に、この人は「マリア的な人」、あの人は「マルタ的な人」というような、そういう言い方はやはり慎むべきではないかとも思います。

 勿論、人それぞれ個性、また性格がありますから、マルタのように、動き回って、実践的に活動する人たちもおりますし、また一方、マリアのように、静かにじっと御言葉に耳を傾けるという、そういうタイプの人たちもいます。しかしながら、だからと言って、どちらがいいとか悪いとかということはやはり一概には言えないのではないでしょうか。

 確かに、今日のお話では、マルタはイエス様から「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけ。(そして)マリアはその良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と、こう言われました。

 しかし、この言葉は、マルタがイエス様たちをもてなしたそのことについて言われた言葉ではありません。イエス様だって、マルタが温かく迎えてくれたこと、もてなしてくれたことについては、心から感謝したのではないでしょうか。ですから、問題は、マルタのもてなし、接待、奉仕、そういうことでは決してないのであります。むしろ、ここで問題になっているのは、そしてまたイエス様が指摘しておられるのは、マルタが「多くのことに思い悩み、心を乱していた」ということなんでありますね。

 前の聖書には「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」とありましたけれども、マルタは、あまりにも忙しく立ち居振る舞ったためでしょうか、心を亡ぼし(まあ、忙しいという字は「心を亡ぼす」と書きますが)、マルタは、いろいろなことに気を使いすぎて、心を亡ぼし、心を乱し、思い煩っていたのであります。そして、そのはけ口がマリアの方に向けられた。自分は一生懸命働いているのに、マリアは何もしない、手伝わない、マルタはマリアに腹を立てた訳であります。そして、イエス様に「マリアにも手伝うようおっしゃってください」と訴えた訳であります。

 マルタに問題があるとすれば、それは「自分だけにさせて」という思いがあったことではないでしょうか。自分だけがしんどい思いをしている。自分だけが奉仕している、仕えているのに、マリアは何もしない。それは、自分を正当化すると同時に、相手を非難する、そういう態度、姿勢であります。イエス様は、そのことをマルタに伝えるために、あえて厳しい言葉でもってマルタに対したのではないでしょうか。

 繰り返しますけれども、イエス様は決してマルタの接待、奉仕なんてどうだっていいなんて言っている訳ではないのであります。接待も大切、奉仕も大切なんであります。問題は、奉仕をするときの姿勢なのであります。まあ、いやいやながら奉仕するというのは論外ですけれども、喜んで奉仕する場合であっても、「なぜ自分だけが」という、いわゆる被害者的意識が芽生えると、これは危険であります。奉仕するのはいいけれども、「どうして自分だけがやらなければならないのか」ということになってまいりますと、これはもう「奉仕」とは言えなくなって来るのではないでしょうか。

 マルタは、喜んでイエス様を自分の家に招いたのであります。そして、温かく迎え、もてなした。マルタの姿勢は、ほめられても、決して非難されるようなものではありません。でも、人間弱い者ですから、不平不満も出てくる。その時であります。私たちはどうするか。マルタのようにイエス様に素直に訴えればいいのではないでしょうか。

 私は、マルタがイエス様に「マリアはわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と訴えたのは、これは正解だと思います。なぜならば、私たちは往々にして、イエス様に訴えることよりも、むしろ赤の他人というか、信仰を持っていない人たち、教会とは関係ない人たち、そういう人たちに訴えることが多いからであります。

 教会の奉仕は大変なんですよ。やらない人は全然やらないし、いつも自分たちばっかりに仕事が回ってくる。こんなことを教会と関係ない人たちに話せば、誰が教会に行ってみようなんて思うでしょうか。不平不満があるのならば、やはり先ずイエス様に訴えることであります。勿論、イエス様に訴えても、すぐに答が与えられるかどうか、それは分かりません。でも、私たちの姿勢としては、やはり先ずイエス様に訴えることから始めるべきではないかと思うのであります。

 マルタはイエス様に訴えました。勿論、イエス様から返ってきた返事は、マルタが期待していたようなものではありませんで、むしろマルタにとっては予想外の言葉でありました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している(あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている)。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは(その)良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。

 この言葉は、マルタを批判しているようにも聞こえますけれども、私は、決してそういう言葉ではないと思います。イエス様は、マルタを愛しておられたのであります。ヨハネ福音書の11章5節の所には、「イエスは、マルタとその姉妹(マリア)と(弟の)ラザロを愛しておられた」と、はっきり記されているのであります。

 イエス様は、マルタを愛するが故に、否、マルタの家族みんなを愛しておられたが故に、マルタの訴えに対し、あえてマリアを弁護するようなことを語られたのではないでしょうか。折角、イエス様がマルタたちの家に来られたのであります。それは、本当にすばらしいこと、喜ばしいことなんでありますね。その喜ばしいひとときをぶち壊すようなことがあってはならない。マルタが張り切りすぎて、心を乱してしまったのは仕方ありません。でも、それによって家族関係が悪くなっていくようでは困るということで、イエス様はあえてマリアをかばうような発言をされたのではないでしょうか。

 確かに、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している(思い煩っている)。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」という、この言葉には、マルタに対する「注意」も含まれています。

 しかしながら、イエス様がこのようにマルタに語ったということは、また、マルタには、このイエス様の言葉に耐えられるだけのものがあった、あるいは、このイエス様の言葉を理解し、素直に受け止めるだけの力が、マルタにはあったからと言ってもいいのではないでしょうか。マルタにはその力があった。マルタは、このイエス様の言葉をしっかりと肝に銘じることが出来たのではないでしょうか。

 イエス様が心から愛するマルタたちなのであります。決して知らない間柄ではないのであります。イエス様は、マルタのことも、またマリアのこともよくご存知で、このように語られたのではないかと思うのであります。

 私たちは、今日のお話から、決してマリアだけを過大評価してはならないと思います。イエス様の足もとに座って、じっとイエス様の話に聞き入っていたマリアのあり方、姿勢。それは確かに大切なことであります。しかしながら、聖書には、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません(ただ聞くだけの者となってはいけない)」という言葉もあるのであります(ヤコブ1:22)。

 私たちは、マリアのあり方からも、また、マルタのあり方からも、学ぶべきことをしっかりと学んで行ければと思います。そして、願わくは、喜んでイエス様を私たちの家に招き入れ、心の中に招き入れ、イエス様にある平安、喜びに満たされる者でありたいと思います。

 イエス様が私たちの所に来てくださる。それは、本当にありがたいこと、すばらしいことであります。マラナ・タ(主よ、おいでください。主よ、来てください)と、祈りながら、また、歌いながら、主イエス様を温かく迎える者でありたいと思います。

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