説教集 本文へジャンプ
説教 「まことの光」 (ヨハネ 1:6-13) 2013/10/06

 前々週は、「初めに神」ということで、その神様が、ヨハネ福音書では「言(ことば)」(ロゴス)という言葉で表現されているということを学びました。神様が「光あれ!」と言われると光がある。神様の言葉は、力があり、命があり、言葉によって万物を、すべてのものを創造される、そういう「生きた言葉」なのであります。それが「言(ことば)」(ロゴス)。聖書の神様は、生きて働かれる神様なんでありますね。だから「ロゴス」。全てのものを造られた創造主、命の根源であり、秩序の根源であり、生きとし生けるもの、すべてのものの根源が神様。だから「ロゴス」と呼ばれる。

 でも、その神様は、また「光」とも表現されておりました。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)。 神様が「光」というのは、太陽の光だとか電灯の光という事ではなくて、光そのもの、すべての光の源(みなもと)・根源、しかも、それは、私たち人間の歩むべき道を照らし出す「人間を照らす光」でもある訳であります。

 真っ暗闇ですと、右に行ったらいいのか、左に行ったらいいのか分からない。私たちの人生も光に照らされないと、右往左往するだけで、どっちに行ったらいいか分からない、そういう所がある訳であります。そういう中で、その歩むべき道を示し、「これが正しい道だよ、この道を歩みなさいよ」と示してくれるのが神様なのでありますね。詩編の119編105節には「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」とあります。私たちの歩むべき道を示してくださる「光」、それが神様なんでありますね。

 ところで、今日の所は、その「光を証しするために」、ヨハネという人が、神様から遣わされたというお話であります。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」。このヨハネというのは、勿論、あの洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネのことであります。イエス様が現れる少し前に現れ、人々に悔い改めを説き、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を授けた人。彼は、イエス様にも洗礼を授けました。

 ヨハネは、多くの人々に衝撃を与え、領主ヘロデ・アンティパスにさえ「悪いことは悪い。間違っていることは間違っている」とはっきり語った人です。それ故、彼は、逆にヘロデに捕まって殺されてしまう訳ですけれども、この洗礼者ヨハネがこの世に来られた目的、それを、ヨハネ福音書は、このように語ります。

 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」

 ヨハネの具体的な証しについては、このあとの19節以下「洗礼者ヨハネの証し」という所に詳しく書かれておりますが、ここには「光について証しをするために来た」とあります。「光について証しをする」、それが洗礼者ヨハネがこの世に遣わされた目的だと言うのであります。

 繰り返しますが、ヨハネは、人々に悔い改めを説き、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を授けた人であります。彼のもとに多くの人がやって来ました。マルコ福音書の1章5節には、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた」とあります。ヨハネは、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を授けた。だから、それが彼の使命、この世に遣わされた目的、そんなふうに思うかも知れません。しかしながら、ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネがこの世に遣わされた目的は、「光について証しをするためだ」というのであります。

 人間にはそれぞれ、この世に生を受けた意味や目的があります。それは神様からこの世に遣わされた目的と言い換えてもいいかも知れません。しかし、その目的を、その人の能力や才能、目に見える働き、そういうものだけで短絡的に判断してはいけないようにも思います。もしかしたら、その人が遣わされた本当の目的は、別の所にあるかも知れないからであります。あの人には、ああいうすばらしい所がある。だから、それが彼の天職であり、神様が彼に与えた彼の使命。彼はそのことのためにこの世に遣わされたんだというふうに思う。確かに、そういうこともあるかも知れません。でも、もしかしたら別の所に、本当の目的があるかも知れないのでありますね。

 洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めを説き、悔い改めの洗礼を授けました。しかし、彼がこの世に遣わされた本当の目的は「光について証しをするため」だったのでありますね。ですから、私たちも、見た目で、あるいは、短絡的に、「この人はこうだからこうなんだろう」と決め付けるようなことは控えた方がいいと思います。もしかしたら、神様は、もっと別の目的のために、私たちをこの世に遣わしておられるかも知れないからであります。

 ところで、洗礼者ヨハネがこの世に遣わされた目的は、「光について証しをするため」ということですが、ここで言われている「光」とは一体何のことでしょうか。誰のことなのでしょうか。それは勿論、先程申しましたように「神様」のことでありましょうが、どうもそれだけではなさそうであります。先程の続き、9節の所を見ますと、このように書かれております。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。前の口語訳聖書では「全ての人を照すまことの光があって、世にきた」とあります。

 「その光は、まことの光」。そして、「そのまことの光がこの世に来た」。 光は勿論神様。まことの光も勿論神様のことであります。しかし、その神様がこの世に来た。これはどういうことでしょうか。これは、キリスト教の最も大きなミステリー(神秘)の一つであります。普通、神様なんて言いますと、私たちからは限りなく遠く離れた存在、それ故、いるのかいないのかはっきりしない、そういう神秘的な存在のようにも思ってしまう訳であります。でも、キリスト教の神様は違う。この世に来られた神様ということを教える訳でありますね。

 この世に来られた神様。それは、「言が肉となって、私たちの間に宿られた」(14節)という、そういう神様。受肉の神様。まあ表現はどうでもいいのですけれども、とにかく、「まことの光である神様がこの世に来られた」。この世に来られたというのは、私たちの生きているこの世に、人間の姿かたちをとって来られたということであります。ということは、私たちは、その神様を見ることも出来るし、手で触ることも出来る。そして、この「人間の姿かたちをとってこの世に来られた神様」こそ、神の独り子であるイエス様、イエス・キリストであると聖書は教える訳であります。

 キリスト教には、「父・子・御(み)霊(たま)(聖霊)」という三位一体の教理というものがあります。父なる神、子なるキリスト、そして御(み)霊(たま)(聖霊)。それぞれ異なったペルソナ(人格)を持っているけれども、一つの神であるという、分かったようで分からない教理。しかし、難しいことはさておいて、あのイエス様を見ることによって神様を見るという、このことは、とても大切なことであります。

 イエス様は、「私を見た者は、父なる神様を見たのだ」(ヨハネ14:9)と言われました。イエス様を通して、私たちは、真(まこと)の父なる神様を見るのであります。簡単に言えば、イエス様を見れば神様が分かるということであります。「まことの光である神様が、人間の姿かたちをして、この世に来られた。それがイエス様、イエス・キリスト」。洗礼者ヨハネは、そのイエス様、イエス・キリストを証しするために、この世に遣わされたのであります。それが彼の遣わされた真(しん)の目的なのでありますね。

 それでは、そのイエス様、イエス・キリストがまことの光としてこの世に来て、「この世の全ての人を照らす」というのは、どういうことなのでしょうか。ヨハネ福音書は、「まことの光」ということで、私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。

 結論を先に言えば、二つのことが語られているように思います。一つは「救い」。そして、もう一つは「裁き」であります。

 「救い」というのは、光の性質を考えれば、すぐ分かると思います。光の性質というのは、「ものを照らす」という所に、その特徴があります。真っ暗闇ですと、私たちは不安を感じますが、明るければ安心する。夜停電しますと真っ暗になる。真っ暗になると、私たちは動揺し、不安を感じます。でも、再び電灯がつき明るくなると安心する。救われたような気持ちになる訳であります。

 光があるというのは、本当にありがたいことであります。それは病気になって健康のありがたさが分かるという、そんなありがたさかも知れませんが、いずれにせよ、光があるというのは、ありがたいこと。なければ困ってしまう。そういうものであります。ですから、「光」ということで「救い」ということを語ろうとしている、それはすぐ分かることではないでしょうか。

 しかも、イエス様は「まことの光」であります。私たちが右へ行ったらいいのか、左へ行ったらいいのか、暗闇の中をさ迷っている時、「この道を進みなさい」と、その道を照らし示してくれるのがイエス様なんでありますね。イエス様は、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われました。「命の光」を与えてくださるのがイエス様なのであります。私たちの人生、光があることによって、その進むべき道が分かり、また、その光に導かれて、しっかりとした人生を歩むことが出来る。その人生の「道しるべ」ともいうべき「光」こそ、「人間の姿かたちをとって、この世に来られた神様・イエス・キリスト」なのであります。「まことの光」、それは、救い主であるイエス様を表すのに、最もふさわしい表現の一つと言ってもいいかも知れません。

 ところで、光の性質には、もう一つ別の側面もあります。それは、暗闇を照らし出すことによって、この世の汚(きたな)い面も明らかにされるということであります。夜の闇の中では、汚(きたな)いものも闇に隠れて見えません。でも、光は、それを照らし出すのであります。そして、光が強ければ強い程、すべてのものが明るみに出てしまう。この光の性質、これはまた、私たちの心の汚(けが)れ、この世の社会の汚(けが)れをも明るみに出すということではないでしょうか。そして、これは私たち人間に対する神様の「裁き、審判」というものを語っているようにも思うのであります。

 「まことの光」であるイエス様は、確かに、私たちを救ってくださる「救い主」であります。でも、最後の審判のときには、羊と山羊を分けるように、私たちを分けられる「裁き主」でもあるのであります。ヨハネ福音書が「まことの光」ということで教えようとしたこと、それは、「救い」と「裁き」、そういう二つのことではないでしょうか。

 今日の10節以下にも、このようにあります。「言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 ここには、光ではなくて、もう一度、「言(ことば)」(ロゴス)という表現が用いられておりますけれども、神の独り子イエス様を信じない人と、信じて神の子とされる者のことが記されている訳であります。まことの光であるイエス様は、すべての人を照らす光であります。ですから、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」ということで、血肉によらない、しかも、それは人間の力や努力によるものでもないということが強調されております。

 でも、いずれにせよ、まことの光の前では、すべてのことが明らかにされ、そして、救いの道と裁きの道が分かれていくということが語られていると言っていいと思います。ヨハネ福音書の3章18節には、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」という言葉もあります。

 しかし、聖書は裁きのことも語りますけれども、強調点は、やはり「救い」ということだと思います。ヨハネ福音書の3章16節以下には、このようにあります。「神は、その独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)」。

 神様は、その独り子イエス・キリストをお与えになったほどに、この世を、そして、この世に生きている私たち一人一人を心から愛して下さっているのでありますね。それは、私たちみんなが救われるため。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」なのであります。神様は私たちみんなを救おうとされているのでありますね。そのために、神様は、イエス様を、イエス・キリストをこの世に送ってくださった訳であります。

 私たちは、「まことの光であるイエス様」、救い主であるイエス様を信じ、イエス様によって正しい道を示され、イエス様に導かれて「光の道」を力強く歩んで行きたいものであります。

 エフェソ書の5章8節には、このような言葉もあります。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。(だから)光の子として歩みなさい」。まことの光であるイエス様。その光に照らされ、私たちもまた「光の子」として、力強く歩んで行ければと思います。

このページの先頭へ
説教集目次へ
三条教会トップ゜ページへ
燕教会トップページへ